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夏の終わり

 最後の一枚を貼り終えたのは、八月の終わりの午後だった。


 台紙の束は、もう作業台の隅に高く積み上がっていた。剥がれていた葉はすべて元の場所に戻り、薄れたラベルも、橋本先生が読める範囲で書き直していた。佐田悠介と藤川莉子は、最後に残った一輪の押し花を前に、二人ともしばらく手を出せずにいた。名前のわからない、飴色の草。いちばん最初に莉子が割ってしまった、あの葉のある標本だった。


「これで、終わりだね」莉子が言った。


 悠介はピンセットを取った。欠けた葉の端に、ほんの少しだけ糊をのせる。台紙のもとの位置に、息を詰めて戻す。割れたところは、内側に。こうすれば、見えない。ガラスの文鎮を、そっと置いた。


 ちん、と最後の金属の音が鳴って、消えた。


 あとには蝉の声だけが残った。けれどその声も、いつのまにか夏のはじめより、どこか掠れていた。鳴いているというより、終わりかけていた。窓の外の光は、まだ白く強いのに、机に落ちる影の角度だけが、少しずつ秋のほうへ傾いていた。


「先生に、見せてくる」


 莉子が台紙の束を持って司書室へ向かった。橋本先生は標本をひとつひとつ確かめて、「よくやった」と短く言った。それ以上は何も言わなかった。二人がこの夏、向かい合って何を話していたのか、先生はたぶん気づいていた。気づいていて、何も訊かなかった。ただ、場所だけを貸してくれた人だった。


「二学期から、また忙しくなるな」先生は標本を棚に戻しながら言った。背を向けたまま。「夏のあいだは、ありがとう」


 それは、終わりを告げる言葉だった。やわらかく、けれど、はっきりと。


 二人は図書室を出た。廊下は西日でオレンジに染まっていた。昇降口まで、並んで歩く。話すことは、もう特になかった。話すことがないのに、気まずくないのが不思議だった。


 外に出ると、蝉の声が一気に押し寄せてきた。ガラスの向こうにあった音が、急に体じゅうを包んだ。アスファルトの熱が、足の裏から這い上がってくる。図書室の中で守られていた涼しさが、一歩ごとに剥がれていくようだった。莉子が立ち止まって、空を見上げた。教室での彼女でも、図書室での彼女でもない、その中間の、ただの十六歳の横顔だった。指先に、まだ糊と紙の匂いがかすかに残っているのを、悠介は感じていた。


「二学期になったらさ」莉子が言った。「あたし、たぶん、また教室で笑ってる」


「うん」


「佐田くんは、また本読んでる」


「うん」


「それで、たぶん、もう、こんなふうには話さない」


 悠介は莉子を見た。彼女は笑っていた。泣きそうな笑い方ではなかった。標本を、いちばん最初に割ってしまったときとは、違う顔だった。


「それでいいよね」莉子が言った。問いではなかった。


「うん」悠介は答えた。「それで、いい」


 名前のない関係だった。恋でも、友情でもなかった。だから別れの言葉もいらなかった。ただ、この夏だけそこにあった空間が、押し花のように、二人のあいだで静かに乾いて、閉じていく。割れたところは、内側に。そうすれば、きっと見えない。


 莉子が片手を小さく上げて、駅とは反対のほうへ歩きだした。悠介はその背中をしばらく見送ってから、自分の家のある方角へ歩いた。


 振り返らなかった。


 蝉が鳴いていた。空の高いところには、もう、夏の終わりの薄い雲が流れていた。図書室の標本は、暗い棚の中で、名前を失ったまま、けれどたしかに、かつてそこにあった夏のかたちを、いつまでも残しているのだろう。


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