015:作られた火
苦しい!
周囲の全てが燃えている。
高熱に炙られて、やり場のない苦悶に身体がよじれる。
視界を火炎が埋め尽くしている。
吸えるのは灼熱しかない。
胸が膨らみ息を吸うと、体内に焼け火箸を突き込まれたような激痛。
身体が全力で酸素を求めるのに、肺はその機能を果たせない。
呼吸を繰り返しても、欲求が満たされない。
喉が焼け付く。
肺が焦げる。
全身から溢れる冷や汗も、蒸発していき慰めにならない。
苦痛が更なる苦痛を呼び、神経を鋭敏にする。
心臓が早鐘を打ち、手が必死に宙を掴もうとする。
血圧が急上昇し、視界がゆがむ。
思考が砕け、苦痛だけが意識を塗りつぶす。
視界が焼け縮れていく。
がふゅっ! げぼっ! げほっ! げほっ!
背中を丸め、激しく咳き込む。
なにが……ごほっ……起こった……。
まともに息がつけず、眩む意識。
ぜーっ、ひゅーっ、ぜーっ、ひゅーっ
荒れて痛むのどをかばいつつ、息を整える。
周囲は真っ暗で、シンと静まり返っている。
手は毛布をきつく握りしめていた。
体の下には木綿のシーツ。
全身が汗で濡れ、肌寒いほどだった。
夢、か?
やっとそこに考えが至った。
ひどい夢だった。
夢の常として、急速に記憶は薄れていくが、体で味わった窒息感は容易には消えなかった。
全てが火焔に包まれ、灼熱を呼吸するしか無かった。
周囲にごく当たり前にある大気が、得体の知れない物であった事が、この怖気を震うような悪夢を呼んだのだ。
(くそっ!)
あの夜、レアーナに見せられた方術。
あの火花の正体が燃素であることが判った。
しかしそれによって、破壊された常識。
この空気をこのまま呼吸していて良いのだろうか。
素知らぬ顔で隣にあったものが、得体の知れない物だったと知る体験は、太陽に続き2度目だ。
いままで呼吸してきた空気が、成分に疑問を覚えた途端牙を剥く、なんてことは起こらないと理性は告げる。
だが40年余りの人生で経験を積み上げ、構築されてきた現実認識は、一部だけをおいそれと置換出来る物ではない。
人間は暗闇を恐れる、と言われる。しかしそうならば、誰も暗い部屋で眠れないだろう。
その暗闇の中の『未知』を恐れるのだ。
漠然とした焦り。
(なんとかして、知らなくては!)
知性の光で照らし、未知の闇を切り払うのだ。
そうしなければ本当の意味での安眠は出来ないだろう……。
それから朝まで、眠ることは出来なかった。
じりじりと緩慢に過ぎる時間。
鎧戸の隙間から薄明が差し込み始めたとき、救われたような気分になった。
溺れる者が水面に顔を出すように窓を開けて、日照の冷たい空気を吸い込んだ。
街はまだ目覚める前。
いくつか煙が見えるのは、朝の早いパン焼きだろう。
ああ、現金なもんだ。
深夜の寝室のあの粘るような停滞した空気と、この爽やかな空気は同じ物だって言うのに。
ばーん!
轟音と共に寝室の扉が開いた。
「あーっ、やっぱり開けてる! 小鳥がみんな怖がって来ないじゃない! せめて内扉は閉めてよね!」
遅れて右を見ると腰に手を当てて睨め付けるレアーナ。
昨晩は、彼女にとっては普段の夜。
この不安は地球から来た者の思い込みだといわれてお終いなんだろうな。
「トイレに行くなら先に行ってきて! 私は餌の準備があるんだから! 空腹はとってもつらいのは昨日味わったでしょ!」
言葉に背中を押されるように行動開始。
不安を行動で塗りつぶしていく。
怒られて、救われたような気分になるなんてなあ。
朝10時前。
自給仕軽食で、朝食のパンケーキを食べ、昼食のサンドイッチを買い込んだ俺は、街区の噴水前にやってきた。
上下は何時ものスウェットだが、足下をもたつかないように、革の脚絆で締め付けている。
噴水は赤い石灰岩で出来た円形の三段噴水で、彫刻の施された立派な物だ。
これは水場も兼ねていて、高所の水槽から水が供給されて落差で噴き上げるタイプだ。
しかし水場にありがちな宿命として、水藻が繁殖していた。
現代の噴水は水に薬品を添加してあり、藻の繁殖を抑えているが、ここの水は純水だ。
循環式でないとはいえ、限度はある。
俺を含めて4名がこの作業に応募していた。
そしてポロスボロス役場の現場監督。
手引きの荷車には、重ねた片手桶と天板刷子。
「作業をはじめます。先程水槽の弁を閉じましたので、程なく吐水が止まります。上の方から天板刷子でこすってください。乾くと落ちにくくなるので手桶で水を掛けてください」
片手桶は木製で銅板の箍付き。横板の一本が長く、そこを持つようになっている。
天板刷子は棕櫚の繊維が先端に束ねてあり、力が入りやすいように取っ手が斜めに付いている。
どちらも現代日本で見られる形状だ。
突飛で使い方の判らない道具が出てこなくて、ほっと一安心だな。
ザブザブ水の中に踏み込み脚立を立てる。
三段噴水なので、中段に登らないと上段は洗えないのだ。
ヌルヌル滑るが、不潔な感覚ではないな。
それから2時間ちょっと。
彫刻のせいでくぼみが多く、思ったよりも時間がかかった。
下段の水はドロドロの濃緑になっている。
「下段をこすりながら排水していきます。こする人とくみ出す人に別れてください」
下段の底は、水を貯めるために継ぎ目のないモルタルだ。排水路より数十㎝低いので手で排水しないとならない。
平らでこすりやすいんだが、表面がざらざらで目地に入り込んでいるな……。
「これ以上は無理だな……」
残りわずかまでくみ出したが、これ以上は手桶では汲むことが出来ない。
底も綺麗になったかこれでは判らんな。
「雑巾で拭くわけにも行きませんからねえ。判りました。残りは焼くことにします」
え?
「上がってください。道具は荷車に」
周りの人も、これ以上こするのは嫌なのか、ドヤドヤと道具を引き上げ始める。
俺も底から上がって、噴水を振り返る。
いくら少なくなったとはいえ、一面水で濡れている。
(これを……焼く? まだ水でびっしょりじゃ無いか。燃えないだろう……どうするんだ?)
現場監督は金属筒にノズルの付いた器具を取り出した。
その外見は、農家が使う噴霧器だ。
上に付いた把手をしゅこしゅこと押し込み、圧力を上げる。
(消毒薬の手動噴霧器にしか見えないんだが……まさか火炎放射器?)
「危険なので少し離れてください」
器具を背負った現場監督は、そう言って噴霧を開始した。
ちゅーっ。
軽快な音を立てて、液体が弧を描く。
そして空中で轟音を立てて燃え上がり、底に落ちる。
(なんだこれは!?)
水に触れても、火勢は弱まるどころかさらに強くなった。
ガソリン? いやいや、ガソリンは自然発火なんかしないぞ。水でさらに火勢が強くなるなんて。
「『液火』があるんなら、全部そいつでやれば良いのになあ。汚物は消毒だぁ~」
「それなりに値が張るからな。モルタルの藻なんてこすったって落ちねえよ。水があれば液火はよく燃えるからな」
一緒に働いていた男たちがぼやく。
『液火』? なんだそれ。水があれば良く燃える?!
噴水は火の海になり、30分ほどで綺麗に焼き切れた。
ガソリンでもこうはいかないぞ……。
俺は現場監督にさりげなく聞いてみた。
「なぜ最初からこれを使わなかったんですか」
「全体をこれで燃やすと、大理石がもろくなっちゃいますからね」
あーそうか。大理石は1,000度ぐらいが耐熱温度だっけ。
もっと『液火』について聞いてみたいが、これ以上はボロを出さずに聞く方法が思いつかん。
しかしまた、とんでも技術が出てきたぞ。
これは是非知りたいところだ。
「ほうほう。『液火』ですか。ま、それはおいといて、初仕事は大丈夫でしたかな?」
「ええ。仕事の方は滞りなく。これが認印です」
ハーキムは箋紙に押された印璽と仕事内容の書き付けを確かめ、呼びつけた他の係員に渡す。
「あー、これミランダさんに回しといてくれるかな」
俺は仕事を終え、商工業協会にハーキムを訪ねていた。
この番外地で俺の事情を知る唯一の人物だからだ。
「報酬は出納処理が終わるまでお待ちいただけますかな。で、『液火』でしたか」
「はい。私の国にはああいった物がありませんでしたので。周りの反応も当たり前で、特別な物では無いと判断しました。知らないのは不自然ですので」
「ほうほう。そういった事情でしたか。わかりました。判る範囲でお答えしましょう」
ハーキムは手振りを交えて、説明をしてくれた。
・液火は燃素から煉丹術で生産される。
・空気と触れると自然発火する。
・水では消火出来ず、酢で消火する。
・液火は危険物だが、少量であればだれでも店で買える。
・大量に扱うには資格と設備が必要。
「まあ製法については判りませんがな。煉丹同業組合の専売品ですので」
「専売ですか……個人でも使う用途があるんですか?」
「我々も普通に使ったりしますぞ。排水管や下水管に詰まった汚泥を焼き切るのに使ったり、ゴミの焼却時に点火材として使ったりですな。特殊な場合では器具の消毒に使われることもありますぞ」
ふーむ。
しかし、また燃素か。
煉丹術は水と火という文明に不可欠な要素を握っているのだな。
煉丹同業組合とはどんな組織なのだろうか。
知る必要があるな。
「……これの製法を知ることは出来ないのでしょうか」
「難しいでしょうな。煉丹同業組合の飯の種なわけですからなあ」
「では――」
ハーキムが手振りで俺を制止する。
コツコツと足音。
「ハーキム、出金したわよ」
そう言って銭盆に乗せたタラントを机に置いた。
「では5デナリ4アス。確認できましたら受領書にサインを」
洋筆を借りて、楷書で記名する。
靴音を響かせて戻っていくミランダ女史。
幸い、今回は何も言いがかりを付けられなかったぞ。
くわばらくわばら。
「すみませんな。聞かれない方が良いかと思いまして」
「……では、扱っている店舗を教えてもらえますか」
「あー、それはいいのですが、問題は困りますぞ? 協会と同業組合は補完関係にあるのですからな」
「ええ、判っています」
俺はハーキムと共に液火を扱う店舗にやってきた。
よほど不安なのか、他人に案内を任せる気は無いようだ。
街区の煉瓦長屋が建ち並ぶ、倉庫街のような区画。
古い紡績工場か麦酒工場を連想させる建物だ。
開いた鉄扉の隙間からは、磨き上げられた巨大な貯留槽や銅管が見えた。
「ここが煉丹同業組合の作業場の一つですぞ。ここは小売りを併設していて、ここで液火を購入出来ます」
そういいながら、建物の角にある、店舗に入っていく。
中はまるで街の薬局のような陳列だった。
実験用と思しきフラスコ、シリンダー、ビーカー。
正体不明の薬品が入っている、茶色や透明の瓶。
積み上げられた、売薬らしき物が詰まった箱。
そろえて並べられた分包。
つんと鼻を突くアルコールの匂い。
売場のカウンターでは、店員が黄色い粉末の分包を、天秤で計りながら作っていた。
瓶から薬匙で分けているのは……硫黄かな。
「やあ、繁盛しておりますかな。ガーシュタイン殿」
店員はその声には答えない。慎重に粉末の量を調節し、薬包紙を折って分包をこしらえると、やっと振り向いて不機嫌そうにいった。
「こんなクサい所になにかしら、ハーキム」
「知り合いに街を案内しておりましてな。ここまで足を伸ばした次第です」
俺に向き直ると、店員を紹介した。
「彼女はニーナ・ガーシュタイン殿。若くして煉丹術への入門を許された才媛ですぞ。この店舗を任されとりますからな」
黒いエプロンドレスに、白衣を羽織り、三角巾で髪をまとめた若い女性だ。
襟足から覗く髪は黒。瞳も黒。皮肉っぽい目つきの半眼。
黒尽めの外見と白い肌のコントラストのせいで、なんとなく病的な雰囲気がある。
「やめてよ。来る日も来る日も店番と分包作りばかり。たんなる雑用係よ。奥義に触れる頃には寿命が来てるんじゃないかしら」
「まあまあ、仕事があるのは幸せですぞ。私は溢れ者を毎日見ておりますから、特にそう思います。今日はこちらの男性に『液火』を見せて欲しいのです」
「あんたがわざわざ案内してるの? へえ、珍しい……」
俺の方を興味なさそうに見るニーナ女史。
俺は、その視線になんとなく落ち着かない気分になった。
「まあ良いわ。そのうち判るでしょうし。液火ね。消毒ならこの希釈アンプルを、配管掃除ならそこの低濃度の小瓶を。それ以上だと高濃度のガロン缶になるから資格がいるわ。詰替は発火の危険があるから素人にはお勧め出来ない。密閉しても空気があれば燃えるから、残さず一回で使い切ってね」
毎日いれば物の位置は頭に入っているのだろう。
どうやらガソリンやシンナー、ベンゼンのような、ちょっとした危険物や劇物の扱いをされているようだ。
俺は素早く思考し、当たり障りの無さそうな質問をぶつけてみた。
「ガロンで売るとはそんな大規模な用途があるんですか?」
ニーナ女史の視線が、面白い物を見る視線に変わった。
小馬鹿にするような、面白がる表情。
「なあに? こんなものに興味があるの? こんな古い物」
「へえ、古いんですか。どれぐらい?」
「そうねえ。何百年も昔から有るわよ。昔は大量に使われてたらしいわ、戦争とかでね」
「戦争? 戦争ですか」
「そう。海戦でサイフォンを使って相手の船を焼いたり、射出機で城塞の中に投げ込んでね。その頃は飛ぶように売れたらしいけど、今は細々ね」
「……なるほど。どの辺りの国に卸されたんですか。なんという戦争で」
ニーナは怪訝な表情になった。
「はあ? ええとなんだっけ。 ロマンとかグリースとかそんな国だったって伝わってるわね。昔の国名だから何処にあったかは判らないけど」
ピンときた。
「……ははは、古い話ですからねえ。じゃあアンプルを一つください」
笑顔で相づちを打ち、話を打ち切る。
「ふうん……。1デナリ3アス」
まるで、全てお見通しといわんばかりの表情。
(こいつは要注意人物だな)
俺は代金を払い、アンプルを受け取りながら、そう思った。
店舗からの帰り道。
「いやあ、冷や汗が出ましたぞ」
ハーキムは俺たちの会話をハラハラしながら聞いていたそうだ。
「何言ってるんですか。平和裏な話し合いだったでしょう」
笑顔でそう返す。
さきほど、素晴らしい情報を得たのだ。
『ロマン』、『グリース』。これはおそらく『ローマ』と『ギリシャ』が鈍ったと思われる。
そして海戦や城塞攻めで火を掛けるために使われた、水でも消せない炎。
これらから連想される物。
『ギリシャ火薬』
ギリシャ火薬は製法が秘匿され、時代の彼方に消え去った、再現出来ない技術だ。
しかし俺は不思議だった。
一人で細々作っていたならまだしも、戦争で使うほど大量に作っていたのだ。
製法を知り、製造に係わる人間は多かったはずだ。
原料も相応に消費しただろう。
戦略物資として記録を残さない物だろうか。
時代が下り陳腐化・無効化して重要で無くなったなら、それこそ秘匿の意味が無い。
作らなくなったとしても、人の記憶まで綺麗に消せるだろうか。
このアンプルがその答えなのかも知れない。
『ここ』から輸出されていて、何らかの事故でそのルートが突然途切れたのだとしたら。
現地での製造が出来なければ、在庫を使い切って使えなくなってしまうだろう。
つまり、過去にローマ、またはギリシャへの交易路があったということではないだろうか?




