前編
──世界を百年苦しめた魔王の巨体が、轟音を立てて崩れ落ちた。
勇者の聖剣がその心臓を貫き、戦いは終わったのだ。しかし、勝利の歓喜が響き渡るはずの玉座の間で、死に際の魔王は邪悪な笑みを浮かべ、最期の魔力を解き放った。黒い霧のような不気味な残滓が、僕たち七人の体をすり抜けて消える。その瞬間、黒魔法使いである僕の魔力回路が、かつてない危険信号を鳴らした。
すぐに全員の体を闇の術式で診断したが、世界のどの魔導書にも載っていない未知の呪い。得体の知れない最悪の呪いにかかったことだけは分かったが、それがどんな害をもたらすのかは、呪いという事象に誰よりも精通しているはずの僕の知識をもってしても、一切が謎に包まれていた。
「……まぁ、なんとかなるさ! 体はピンピンしてるし、王都の偉い魔術師に見てもらえば一発だって!」
ガサツに頭を掻きながらそう言って笑った戦士の言葉に、みんなも「そうね」「戦いが終わったばかりだし、疲れのせいよ」と深く考えないように努めていた。何より、世界が平和になったという圧倒的な解放感が、僕たちの足元に潜む死の影を覆い隠していた。
◇
魔王領の荒れ地を抜け、人間の領地へと入った僕たちは、王都が手配した大きな移動馬車に揺られていた。
御者席の隣に座る僕の耳に、馬車の客車側から、いつもの騒がしい声が聞こえてくる。
「おい騎士! お前の几帳面な荷物の詰め方のせいで、俺の足の踏み場がねえんだよ! もっと大雑把にガサッと端に寄せとけ!」
「却下だ、戦士。貴殿のガサツな荷詰めのせいで、万が一馬車が傾いたら行軍の効率が落ちる。論理的に考えて、限られた空間をミリ単位で等分するのは当然の義務だ。不満なら貴殿が馬車の屋根にでも乗るがいい」
「あぁん!? 誰が鉄の置物みたいなツラしたお前とミリ単位の計算なんかするかよ!」
始まった。戦士と騎士の、いつもの犬猿の仲による喧嘩だ。
感情主体で動く大雑把な戦士と、論理主体で動く冷徹なまでに几帳面な騎士。魔王城ではあれほど完璧にお互いの背中を預け合っていたというのに、日常に戻った途端にこれだ。
「まあまあ、二人とも。せっかく平和になったんですから、そうカリカリしないでくださいな」
「そうよ。本当にガサツな男とカタブツ女の喧嘩なんて、見てるだけで損得の『損』だわ。ほらシーフ、アンタからも何か言ってやりなさいよ」
「え〜? 私はお金さえ貰えれば、二人が屋根の上で決闘してても応援するよ? どっちが勝つか賭ける?」
おっとりした聖女が二人を宥め、クールな白魔法使いが呆れ顔でお菓子を齧り、シーフがいつもの調子が良い演技で笑いを誘う。
御者席から後ろを振り返り、その賑やかな光景を眺める。
みんなの体に刻まれた黒い呪いの紋章への不安は、消えたわけじゃない。それでも、僕の心には温かいものが満ちていた。
平和主義者、なんて大層なものじゃない。だけど、僕はみんなのことが大好きだ。
この戦いで、たくさんの人が死んだ。だからこそ、世界を救った僕たちのパーティくらいは、全員が生き残って、全員がこれからの人生を幸せに過ごしてほしい。みんなが幸せなら、それが一番いい。
「ねえ、黒魔法使い」
不意に、トントンと肩を叩かれた。
振り返ると、客車と御者席を繋ぐ小窓から、勇者の少女がひょっこりと顔を出していた。
世界を救った最強の英雄。だというのに、今の彼女は鎧を緩め、まるで無邪気な子供のように距離を詰めて僕を見上げてくる。
「平和になったらさ……あなたは何がしたい?」
じっと僕の瞳を覗き込んでくる彼女の、純粋で、まっすぐな視線。
自分より他人を優先してしまう危うい優しさを持つ彼女が、なぜか僕にだけは、等身大の少女のような顔を見せる。それが彼女なりの無自覚な恋心だということに、僕はまだ、気づいていなかった。
◇
馬車が人間の領地の街、オルトに到着したのは、それから三日後のことだった。
魔王討伐の報はすでに早馬で届いているらしく、街はまだ昼間だというのに、信じられないほどの祝祭の熱気に包まれていた。いたるところに花やリボンが飾られ、人々が歌い踊っている。
「うわぁ……すごい。みんな、本当に嬉しそう」
馬車から降りた勇者が、目をきらきらと輝かせて街を見渡す。自分より他人を優先してしまう彼女だ。自分がどれほど過酷な戦いをしたかよりも、人々が笑顔になったこと自体が、何よりも嬉しいのだろう。
「当然よ。私たちが命を賭けたんだから。さ、食料の買い出しを済ませちゃいましょう。せっかくの大都市なんだから、今日の夜くらいは豪華なご飯にしたいわ」
クールに髪を払いながらそう言ったのは、白魔法使いの彼女だ。損得勘定を優先する彼女らしく、すでに一番効率の良い市場のルートを頭の中で組み立てているようだった。
「おう! だったら俺も行くぜ! 美味い肉の見極めなら、この俺の右腕に任せとけ!」
ガサツに胸を叩いて名乗り出た戦士に、白魔法使いはふいっと顔を背けた。
「……別に、ついてこいなんて言ってないわよ。ただ、大雑把なあなたに任せると無駄な買い物が増えるから、私が監視してあげるだけ。勘違いしないでよね」
「あぁん!? 誰が勘違いするかよ!」
ツンツンと突き放す白魔法使いだが、その耳たぶがほんのりと赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。論理ではなく感情主体で動く戦士は、彼女のそんな態度にも気づかず「よし、行くぞ!」と彼女の荷物をごく自然に肩代わりして歩き出す。
お互いに想い合っているのに、素真面目になれない両片思い。そんな二人の不器用な背中を見送りながら、僕はあたたかい溜息をこぼした。
「本当に、お似合いの二人ですねぇ」
おっとりとした聖女が隣で微笑む。そのさらに隣では、幼馴染であるシーフが「だね。白魔法使いも、あんなに分かりやすいのにね」と軽口を叩いていた。完璧な演技でいつものおちゃらけた雰囲気を装っているシーフ。だが、彼女の視線が、一瞬だけ戦士と白魔法使いの背中に、ひどく暗く、冷たい色を帯びて向けられたのを、僕は確かに感じ取った。
(……気のせい、だろうか。シーフはいつもお金のことばかり考えているけれど、仲間想いのいい奴のはずだ)
小さな違和感を胸の奥に押し込め、僕も買い出しのために歩き出そうとした時、袖をぐいと引っ張られた。
「黒魔法使い、ちょっといい?」
振り返ると、買い出しに行ったはずの白魔法使いが、戦士を肉屋の前に待たせたまま、僕のところに引き返してきていた。彼女のいつものクールな瞳に、深い知性と、それゆえの濃い不安が宿っている。
「……あの呪いのことよ。あれから、何か分かった?」
声を潜めて訊ねてくる彼女に、僕は小さく首を振った。
「ダメだ。僕の黒魔法の知識を総動員して、あらゆる闇の術式と照らし合わせたけれど、どれにも該当しない。構造そのものが未知数なんだ。ただ……僕たちの体内を、得体の知れないナニカがじわじわと侵食している感覚だけはある」
「そう、天才のあなたでもダメなのね……。でも、損得勘定で考えさせてもらうわ。私たちがここで倒れたら、せっかく魔王を倒した『得』が全部パァよ。私も白魔法の観点から調べてみる。だから、あなたも諦めないで」
そう言って、彼女はきびすを返して戦士の元へと走っていった。待たされて退屈そうにしていた戦士の頭をぶっきらぼうに叩き、また二人の賑やかな言い合いが始まる。
平和を喜び合う仲間たち。
けれど、魔王が遺した呪いの毒牙は、僕たちが気づかないうちに、それぞれの『最も大切なもの』を喰らう準備を着々と進めていた。




