12 挨拶は両の指ほど
「こいつは昨日墓場で見かけてよ」
ソファの上で足を組んで、バトラーは語り始めた。
「なんかいやがるなと思ったら、こいつのこいつでおれに気づいてくっついてきやがった」
「墓地に何のご用事で」
「雇い主の墓参りに行っちゃ悪いか?」
悪くはないが、そんな殊勝な人間にはとても見えない。とは口に出さず、クリスは質問をつづけた。
「ただついてくるだけですか? 何かを訴えようとするようなそぶりは?」
「ないな。ただ黙ってこっちを見るだけだ。美人に見つめられるなら大歓迎だが、こいつじゃ鬱陶しいだけだからなあ」
いちいち要らない感想を付け加えてくる男である。まあ血みどろの男にとりつかれて「鬱陶しい」のひと言で済ませられるあたり、肝がすわっていることは確かだが。
「あんたなら話せるかもと思ったんだが、やっぱり無理か」
「こういう方もいろいろですから。よくお話しになる方も、そうでない方も」
たとえば先日の公女のように、自身がすでにこの世のものではないと気づいていない者すらいる。しかしこの哀れな男は違う。おそらく、すでに自分がこの世のものでないことを受け入れている。自身の喉の傷も理解している。だから声が出ない。出せないと思っている。よって、何も語ることができない。
「ただ、方法がないわけではありません」
クリスは立ち上がって机から新聞を取り上げた。それを広げて窓辺の男に歩み寄る。
「あらためまして、わたしはエヴァンズと申します」
言いながら、クリスは紙面も文字をひとつずつ指差した。エヴァンズ、と。文字の海から一文字ずつ。
「あなたのお名前は?」
「なるほどな」
バトラーが感心したような声をあげ、クリスの横に立った。
「筆談か」
声が出せないなら、文字で伝えればいい。こちらの問いかけに、答えを一文字ずつ指差して伝えてくれればいい。
男はクリスの顔と紙面をゆっくり見比べ、それからゆるゆると首を横にふった。両腕をだらりと垂らしたまま。
「だめか。こいつ、字が読めねえみたいだぜ」
「そう……でしょうか」
この国の識字率は極めて高い。女王陛下の施政のもと、初等教育が義務化されているのだ。ただ、どんなに優れた政策にも必ず穴はあるものだ。貧しい家庭で幼い頃から働きに出され、満足に学校に通えない者も、たしかに存在する。
だが、とクリスは目の前の男をあらためて観察した。くたびれてはいるが、男の身なりはごく一般的な労働者のそれだ。読み書きもできない、本当に生きていくだけで精一杯の人生を送ってきた者にはあまり見えない。
少し考えた末、クリスは短い台詞を唇にのせた。海を隔てた隣国の言語で。
『お名前は?』
ほう、とバトラーが目を見開いた。
「ベルン語か」
それがすぐにわかるあたり、このバトラーとかいう男はそれなりの家の出なのかもしれない。大陸のベルン語は、上流階級の公用語だ。ある程度の家柄の者であれば、母国語と同様に操ることが求められる。
しかし、男は残念そうに首をふった。ならばとクリスは別の言語で話しかける。大陸の主要言語から、はるか遠く東洋の言葉まで。
「すごいな、あんた」
途中から理解することを諦めた様子のバトラーが、感心したように口をはさむ。
「いったい何ヶ国語できるんだ」
「挨拶程度なら両手の指ほど。ああ、これもだめですか……」
その両指の数もとうとう尽きた。クリスはしばし考えた末、ある台詞を唇にのせた。とたんに、男はがばりと顔を上げた。口をいっぱいにひらき、声なき声で何事かを訴える。
「おっ、あたりか」
「なんとまあ……」
クリスは薄く笑った。壁際の書棚に向かい、一冊の本を手にとる。
「いまのは何語だよ、先生」
「オルデン語です」
なんとまあ、とクリスは声に出さず再びつぶやく。因縁というべきか。例の耳飾りの一件から、妙に彼の国と縁があることだ。
「オルデン語は文字も特殊でしてね。そのせいか、オルデンでは他国語を苦手とされる方が多いと聞いています」
たとえば先日の公女のような、上流階級の者はもちろん別だ。だが、そもそも庶民は自国語以外を学ぶ機会などほとんどない。
「わたしも昔少しかじった程度なのですが……」
その頃に入手したオルデン語の辞書をひらき、クリスは若干たどたどしい発音で尋ねた。
『あなたのお名前は?』
男の指が辞書の一文字を指す。つづいて次の文字を、また次の文字を。その文字のつづりを、クリスは頭の中で自国の文字に変換した。
「……ス……いや、シュ……シュルツ?」
男がうなずく。何度も、何度も。
「やったな、先生」
バトラーが口笛を吹いた。
「その調子で頼むぜ」
「ひとにばかり任せてないで、あなたも少しは手伝ってください」
クリスは辞書を持ったまま、バトラーに紙とペンを用意させた。
「わたしが言う文字を書きとめてください。いいですか?」
いつでも、というバトラーの返事の後で、クリスは辞書を引きながら次の質問を口にした。
『あなたは、誰に、殺されたのですか』
男の身が震える。ひどい苦痛に耐えるように顔がゆがむ。腕が持ち上がる。指が文字をさす。
「モ……ル、違う、モー……ト……」
さらさらとペンが走る。やがて現れたひとつの名に、クリスは眉をひそめた。
「モートン……まさか、モートン子爵?」
「知り合いか」
「いちおうは。あまり親しくしたい相手ではありませが」
歴史あるモートン子爵家。これまで数々の功臣を輩出してきた名家だが、どうやら当代のモートン子爵は、祖先が積み重ねてきた信頼と実績を一代で食いつぶすそうとしているらしい。
若い頃から放蕩者で有名だったモートン子爵だが、先代から家督を譲られてからは、その不品行さにますます磨きがかかったと噂されている。
いわく、夜毎あやしげな客を招き、派手な宴を繰り広げている。
いわく、禁制の麻薬の売買に手を染め、自身も日々耽溺している。
いわく、女好きが甚だしく、近ごろでは娼婦だけでは飽き足らずに平民の女性をさらって慰み者にしている。
「あげく、とうとう裏では強欲卿などと呼ばれていらっしゃるようでして」
「ろくでもねえやつみたいだな。じゃあこいつは、その強欲野郎に殺されたってことか」
「そう決めつけるのはまだ早いですよ。モートンなど珍しくもない姓ですし、同名の者の犯行という線も……」
あごに手をあてて考え込んでいたクリスだったが、それも長い時間ではなかった。
「ですがまあ、まずは得られた手がかりをたどっていくとしましょうか」
「具体的には? 先生」
挑発的なバトラーの視線を、クリスは不敵な笑みで受け止めた。
「正面からお訪ねするのですよ。かの高名なる強欲卿を」




