11 執事とお茶を
男は、ヴィンセント・バトラーと名乗った。
「ヴィンスでいいぜ」
あるいはヴィーでも、との気安い言葉に、クリスは冷笑で応えた。どうせ偽名だろう。それにしても、もう少しひねった名にすればよいものを。よりにもよって「執事」だなんて。安直にもほどがある。
「うまいな、これ」
その元執事は、なぜかクリスと差し向かいでレモンタルトを頬張っていた。
「当然です」
こちらもタルトを味わいながら、クリスはうなずいた。美味なのは当たり前である。王都中の菓子店をめぐったクリスが選び抜いた、名店の新作なのだから。
バターがたっぷり練りこまれたタルト生地に、濃厚でありながら後味が爽やかなレモンクリームがこれまたたっぷり敷きこまれ、仕上げにゆるく泡立てた生クリームとレモンピールがそえられたタルトは、文句なしの絶品だった。
文句があるとすれば、とクリスは招かれざる客人に目を向けた。
「なんだよ」
「いえ、今更ですが、なぜわたしはあなたに茶菓子までふるまっているのかと」
「今更だな。支度してやったの、おれだぞ」
「頼んでません」
「うるせえな。まだ腹減ってならもう一切れいるか?」
「……いただきます」
クリスが差し出した皿に、バトラーは切り分けたレモンタルトをのせ、ついでにお茶のお代わりも注いでくれた。さすがは元執事を言うべきか、一連の手際は流れるようにそつがなく、タルトの切り口もじつに美しい。これで言葉遣いが丁寧だったら完璧なのだが。
もちろん、クリスもこの男に茶はともかく菓子まで出す気などさらさらなかった。それがどういうわけか、バトラーは「茶ならおれが」と勝手に支度をはじめ、クリスの制止も「まあまあ」といなし、あげく「いいもん持ってんな」とレモンタルトも強奪され、あれとあれよという間に完璧なティーセットが整えられてしまった次第である。
釈然としない気持ちをかかえつつ、クリスはとりあえず黙々と茶を飲み、タルトをつついた。悔しいことに、バトラーがいれた茶は、クリスが普段自分でいれるものよりずっと香り高く、美味だった。
「それで、バトラーさん」
渇きと空腹がいやされたところで、クリスは切り出した。ヴィンスでいいってのに、という声を無視して話を進める。
「そちらの方とはどういったご関係で?」
クリスの目線の先、バトラーの背後の窓のそばに、その男は立っていた。
それはひどく痩せた男だった。つぶれた帽子をかぶり、くたびれた上着をまとっている。年はおそらく五十前後。顔の下半分から胸元にかけて、赤黒い血がべったりとこびりついている。喉には無惨に切り裂かれた大きな傷。彼が何者かに害されたことは明らかだった。
「赤の他人だ」
タルトの最後のひとかけを飲み込んで、バトラーは答えた。
「昨日から付きまとわれて弱ってんだよ。何かしてくるってわけじゃないが、こうしてずっと離れねえんだ」
「害がないなら放っておけばよろしいのでは」
「冗談きついぜ、先生。こんなのに引っ付かれてたら、気になって女も呼べねえだろ」
さようで、とクリスは無感動に相槌をうった。この男の私生活になど微塵も興味はない。
「なんとかしてくれたら、あの石のことは黙っててやってもいいぜ」
「……何をおっしゃっているのかわかりませんね」
「ごまかすなよ。おれの雇い主が後生大事にしまいこんでいた、あの石のことだよ」
オルデンの至宝、道化師の涙。世にも稀な輝石の耳飾り。
「あんたが持ってんだろ。それとも伯爵か? どっちでもいいけどな。どうせあの嬢ちゃん絡みだろ」
意味ありげにバトラーは笑う。クリスはすうと目を細めた。
このバトラーとかいう男が「こちら側」であることは、オークションの晩から気づいていた。
あの晩、貴賓席から身を乗り出した公女を、この男はたしかに「見て」いた。あの一瞬、二人の視線がからんだことにクリスは気づいたし、バトラーの方でもクリスに気づかれたことを悟ったはずだ。
気づいていながら、その後は素知らぬふりを貫いた。その方が面倒でなかったからだ。厄介な性質をもっている者同士の、暗黙の了解だ。互いに気づかぬふりをして、他人のままやりすごす。今後も会うことはないだろう。少なくともクリスはそのつもりだった。今日このときまでは。
「あの嬢ちゃんみたいにさ、こいつもどうにかしてくれよ。あんたならできるだろ?」
「……どうにかできるかはわかりませんが」
クリスはため息をついた。決して脅しに屈したわけではない。ただ、茶の一杯分くらいは付き合ってやろうと思っただけ。断じてそれだけだ。
「とりあえず、お話を伺いましょう」
どうも、と笑うバトラーを視界から追い出し、クリスは窓辺の男に目を向けた。
「あなた、お名前は」
答えは返ってこなかった。虚ろな目がクリスを見返し、何かを訴えるかのように口が開かれる。しかし、その口から声が発せられることはなかった。
「無駄だぜ」
代わりに声を発したのはバトラーだった。
「昨日からそいつ、何にもしゃべりゃしねえ。いや、しゃべれねえんだな」
喉を裂かれ、声を奪われたその男は、哀しげにうなだれるだけだった。




