10 招かれざる依頼人
私設探偵クリス・エヴァンズの事務所は、ネイサン通りの一角にある。赤煉瓦の壁と黒い扉の一軒家で、一階を住居に、二階の居間を事務所として使っている。事件を追っているときをのぞけば、クリスは一日の大半をこの事務所で過ごしている。
ただ、この日のクリスは朝から事務所を空けていた。依頼のためではない。ただの買い物である。
懇意にしている書店から、かねてより注文していた本が入荷としたとの報せがあったので、隣街のその店まで受け取りに行ったのだ。
お目当ての本を手に入れたクリスは、ついでとばかりに、たまっていた用事をまとめて片付けることにした。
手始めに銀行を訪ね、その後は大通りの店を回って細々とした日用品を買い求める。馴染みの仕立屋で夏物の上着を新調し、最後に行きつけの菓子店で新作だというレモンタルトを購入した。
くたびれはしたが、それを上回る達成感につつまれてクリスは帰宅し──家の前で足を止めた。
「──よう」
家の扉にもたれかかるように立っていた男が、片手を上げてクリスを出迎えた。
年はクリスより少し上か。黒い髪、黒い瞳。いささか柄の悪い雰囲気が気になるが、それなりに整った顔立ち。
背は高いが大男というほどではなく、中流階級の紳士としてはごく一般的な身なりの、どこにでもいそうな普通の男。クリス以外の人々の目には、きっとそう映るのだろう。
「……どちらさまでしょうか」
買い物の包みを抱え直し、クリスはつとめて冷静に尋ねた。
「ここは探偵事務所だろ? だったら訪ねてくる客は依頼人と相場が決まっているじゃないか」
「そこに掛かっている札が見えませんか? あいにく今日は休業です」
「つれねえな、先生」
男は芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「知らない仲でもあるまいに」
クリスはため息をついた。本音を言えば、知らないふりを通したかった。だが、どうやら逃してはもらえないらしい。
「……しばらくぶりですね。執事どの?」
クリスの呼びかけに、男は愉快そうに口角を上げる。
「覚えていてくれたとは何より」
「忘れませんよ。あなたのようなひとは特に」
先ほどは何者かと尋ねたが、じつはひと目見たときからわかっていた。黒髪の訪問者は、ひと月ほど前のオークション会場で出会ったバーチ商会の使用人だった。
「正式な執事じゃなかったけどな。ちなみに今は失業中だ。あんたたちのせいで」
「それはお気の毒に。では本日は職探しで? あいにく、わたしではお役に立てそうにありませんね。それでは失礼します。ごきげんよう」
「まあそうかりかりすんな。腹でも減ってんのか? 先生」
ぐう、とクリス黙りこんだ。
じつのところ、図星である。朝から動きまわったおかげで喉はからから、胃は健康的な欲求を訴えている。できることなら今すぐこの訪問者を追い払い、ゆっくりお茶を楽しみたい。もちろん買ったばかりのレモンタルトも添えて。
「あんたに頼みがあって来たんだよ」
クリスの不満顔などどこ吹く風で、男は背後を指差した。
「こいつの話を聞いてやってくれないか」
黒髪の、とりたてて変わったところのない紳士。クリス以外の目にはそう映るであろう元執事には、ただひとつ、これ以上ないほど奇異な点があった。
背中に血まみれの男を張りつかせている、という点が。
クリスはふたたびため息をついた。楽しいティータイムは、当分おあずけになりそうだった。




