四十二話
ちょっとしたトラブルは起きたものの、勝手に下に降りて散策していたことを詫びてから幾日か過ぎた。
今日も今日とて、平和な一日の始まりだ。
付け加えると、あの日から私の日々は大変にうきうきわくわくハッピーである。
浮かれていると我ながらにわかってはいるが、しょうがない。
初めて好きになった人が、初めての恋人になって、毎日顔を合わせられるのだ。浮かれないでいられようか、いやない。
心の中で反語を呟きながら、足取り軽く食堂へ向かう。いつも通りならば、すでにコモス様とルンが居るはず。コモス様は日がな一日調理場に詰めていることが多く、ルンの場合は非常に早起きなので、夜が明ける前から手伝いに駆り出されているみたいなのだ。
「おっはようございまーす!」
元気よく声を上げながら入れば、調理場からひょこっとルンが顔をのぞかせた。
「おはようございます、サエ」
「おはよ、ルン」
私の日本式の挨拶にちゃんと返してくれるのはルンだけだ。この世界において、おはよう、や、こんばんは、といった単語はないのだ。似た言葉はあるらしいけれど、あんまり使うことはないみたい。なので、必然的に二人だけの挨拶みたいになっている。ちょっと嬉しい。
「遅い。もっと早く来い」
短く文句を言ってくるコモス様だが、今のハッピーな私にとっては痛くもかゆくもない。
というよりも、十分に早いはず。ルンとコモス様が異様に早いのだ。今だってまだ朝日が昇りたてである。
「ルンがサエを起こして連れてくればいいだけだろうが。なんでしない」
「だって、ルンの負担になるじゃないですか」
「なるか?」
視線をちらっとだけ向けて、四本の腕はてきぱきと作業を続けている。
コモス様の質問にルンは皮むきの手を止めた。
「私は構いませんが……早すぎるのは体に悪いのでは」
「なぜだ。隣で寝てるなら、それくらいの体調把握は容易だろう」
「隣?」
きょとんと私とルンがコモス様を見れば、コモス様はまたちらっとみて「ああ」となんでもないように言った。
「なんだ。お前たち共寝してないのか」
共寝とは。
脳内の兄が「昔の言葉で、同衾、男女関係を表すぞ~」とゆるく解説している。
そしてルンの目の前が燃えた。正確には、皮むきしていた野菜が燃え上がっている。
「おい、何しているルン。食材を無駄にするな」
「いやそんな場合じゃないですけど!? ルン、手! 手!」
言葉にならず動揺しているらしいルンの手先が震えて、血だらけになっていた。炎と炭と血のコラボレーション。嫌すぎる。
ルンの動揺もわかる。というか、私だって動揺したい。それ以上に過剰反応しているルンがいるから逆に落ち着けただけだ。
「な……っ、なにを!?」
真っ赤になったルンが燃える元野菜を握りしめてコモス様をにらむが、まったく堪えた様子がない。
「おい、せっかく買ってきた根菜が足りなくなったらどうする。これくらいでうろたえるな、粗忽め」
コモス様は逆に手刀をルンの頭に落とした。ぶつぶつ文句を言いながら顎を撫でて代案を呟いている。
やがて台所にある時計代わりのオイルランプを見て、外の明るさというか太陽の位置を確認して、ぱっと姿を変えた。
異形から元の人の姿へと一時的に戻ったのだ。
この変化、一番上手なのはコモス様で習得も習熟も驚くほど速かった。
最初こそ「腕が多いほうが作業がはかどって楽」と言って面倒くさがったそうだが、街に降りて食材が買えると理解するや否や真っ先に使いこなしたという。コモス様らしい。
普段は腕四本で植物頭の筋肉もりもり大男の姿なので、私が目にする機会は少ない貴重な姿でもある。
「ついでだ。朝市に行ってくるから、お前たちは火の番をしておけ。くれぐれも焦がすなよ。あと味見は二口まで許す」
動揺冷めやらぬ私たちに口早に言い残して、荷物をさっさと担いでコモス様は出て行った。向かう先はきっと二階のフロアだろう。
そこにはフィドモン様とユウェタース様の願いで、特殊なドアが設置された。
空に浮かぶロクタック領地エリアから外界に行ける出入り口だ。登録認証をすると使える代物で、この古城の面々は揃って登録済みである。
帰還方法は開けた空間でドアをひねる仕草をするだけ。漫画みたいな便利道具だ。メルーによる未来の技術的ななにかっぽいものはいつだって不思議だった。
のしのし歩く音も聞こえなくなって、私はルンに声をかけた。
「……あの、ルン、大丈夫?」
「あっ、いえっ、はい」
そろりと近寄れば、肩を跳ねさせてルンが数歩下がった。
嫌われているわけではないとはわかるものの、気になる。
「コモス様の言うことは気にしなくていいからね。私たちは私たちのペースで進めばいいんだから」
明るく言って治りかけのルンの手を確認する。派手に血が流れたようだったけれど、浅かったみたいだ。もう傷跡はない。
ほっとしたところで、ルンも少し落ち着いて「すみません」と小さく謝って手を洗った。まだ恥ずかしさがあるのか目元は赤らんでいる。
可愛い。
胸がくすぐったくなる気持ちで見つめていたら、目が合った。
「あの、サエ。なにか」
「んーん。何も。ただ好きな人は見ていたいだけよ」
「……そう、ですか」
じわじわまた頬が赤らんだ。やだ、私の恋人めちゃくちゃ可愛い。
前々から思っていたけれど、ルンって私よりも初心なのではないだろうか。控えめだし、下手すると私より女子力が高い。
照れ照れしているルンを見つめながら、はた、と思い至った。
そもそも、私のところとルンのところで付き合うときの順序やタブーって同じなのだろうか。
コミュニケーションは理解が大事だ。文化にはタブーがあるというのも、ヒロ兄のことで聞きかじっていたし、叔父叔母から相手のことをよく聞くというのは大事だと教えてもらっている。
相手への不理解からすれ違って破局なんてことは、絶対に避けたい。
もし私が何かしていても、ルンはたぶん我慢するだろう。それくらい好かれているだろうと、なんとなくわかっている。でもそれじゃあいけない。
「ねえルン」
「はい」
燃えカスとなった元野菜を片付けて、火の番に戻るルンに声をかける。あんまり見つめすぎないように鍋を眺めてみながら。
あ、今日の朝メニューはマメ科っぽい野菜を使ったスープと、その粉末で焼いたパンもどきみたいだ。すでに美味しそう。
いい匂いに勇気づけられて、世間話っぽさを意識して聞いてみた。
「ルンのところの親愛表現ってどんなのがあるの?」
口にした途端に世間話っぽさが飛んでしまった。
つい、欲が出た。
いや、どうせならルンのところの恋愛観も聞きたかったのだ。ルンにそういう相手がいたとかは話してなかったからいないとは思うけれど、気になるのが乙女心だ。
ぱちりと長いまつ毛が数度上下に動く。突然の私の脈絡もない質問にちょっと考えた後、ルンは申し訳なさそうに言った。
「親愛表現は……あまりされたことがなく、はっきりとはわからないのです」
「え、ばあやさんにも?」
意外だ。
あんなに懐いていたエピソードを聞いていたのに。
私が驚いていれば、ルンは「ああ」とこぼした。
「幼子相手にはあります。ですが、成長をした異性間での触れ合いは原則最低限と定められています。私の場合、階級が下になりますので……管理下におかれていたといいますか……その」
非常に言いづらそうにルンが言った。
「異性の扱いは未熟です。サエが満足のいくように相手をできるかはわからないので……努力はします。どうか、見限らないでいただけると……」
「そんなことしないから安心して。で、どんなのがあるの? ほら、世界が違えば変わった習慣があるでしょ?」
むしろ嬉しい。初雪を一番に見つけて雪だるまを作るような嬉しさに近い。
わくわくを隠さずに詰め寄って聞けば、ルンは少し呆れたように表情を動かした。
「いいじゃない。ルンのところのことを知りたいの。もし、ルンの世界ではやっちゃダメなことを知らない間に私がしちゃってて、ルンが嫌な思いをしないようにしないとって思ってるのよ」
言い訳じみた感じになってしまったけれど、本当のことだ。だからお願いと言外に含めてみれば、ルンは詰め寄る私の肩をそっと押して、姿勢を戻させた。
「サエがそう思ってくれるのは、嬉しいです。けれど、私とサエでは培ってきた常識が違うのですから、それであなたを責めるなんてことはしません」
「無理してない?」
「していませんよ」
ほのかに唇がゆるんで笑う。調理場の空いた窓から差し込む朝日と相まって輝いて見えるのは私の欲目だろうか。
「本当? じゃあ、例えば私はルンの世界でいうならなんの能力も持たないけど、そこは気にならない?」
「考えたことがないと言えば嘘になりますが……私は、されたことをしたくなかっただけで」
ルンはお玉を取って鍋の中身をくるりと回している。とろりと静かに揺れる鍋の中みたいに、穏やかに暖かな声でルンが言う。
「ただの意地です。それに、世界が違えば考えも違います。力がなくて当たり前のサエの世界と、あって当たり前の私の世界とを同じ価値観で比べることは違うでしょう」
私の恋人、やはり聖人では。いっぱい好き。
浮かれた頭に語彙力のない賞賛が浮かんで、つい、横から抱きしめた。痩せっぽちからしなやかに筋肉がついてきた体は健康的だ。体のパーツひとつひとつに好きと言えるくらい、初恋に浮かれきって夢中になっている自覚はある。でも止められないのだから、怖い。怖いけど幸せ。
「あ、わ、サエ。危ないです」
「ごめんルン。でもルンも悪い。ずるい」
位置を直して後ろからしがみついて、横から鍋を眺める。完全に私がルンを邪魔しているのだが、それでも文句を言わない……でも離れがたい。火の番はこの大鍋くらいなものなので、手持無沙汰だし、大目に見てもらいたい。洗い物はあとで私がしよう。
うんうんと一人納得したところで、それで、と私はルンに続けて聞いた。
「ねえルン。じゃあ、私がこうしたりとかは迷惑じゃない? あ、いや、料理番の邪魔はしてるんだけどそうじゃなくて、ええと、スキンシップ……交流? とかそういうのは平気?」
「驚きはしますが、サエがしたいのなら特に問題ありません。触れたいと思ってくださることは、私も、嬉しいですし」
「うわあ可愛い……」
「サエ。それはちょっと」
「じゃあ、やっちゃだめなこととかある?」
可愛いと言うのはあんまりよろしくないらしい。やっぱり男のプライドとかそういうのは私の認識基準と同じなのかもしれない。
むすっとした声音を遮って言えば、ルンがちょっと黙った。
「あの、駄目といいますか……私の個人的なお願いでもいいでしょうか」
「ん? ルンの? なになに」
珍しい。
そう思っていると、ルンのお腹に回した腕にそっとルンの手があてられた。
「できれば、私以外にこういうことはしないでくれませんか」
「んえ?」
「胸が苦しくなるので、しないでほしいです」
ぽつりとルンがこぼすように言った。
それは、つまるところ、嫉妬では。
ええ、なに。本当に私の恋人が可愛い。可愛いがすぎる。
きゅんきゅんとときめきが抑えられずに「しないわよお!」と首元に額を擦り寄せた。
「あと、あまり人前で今みたいにされるのは、すこし控えていただければ……」
「えっなんで!?」
いちゃつきたい浮かれ脳の私は、咄嗟に離れてルンの顔が見える位置に回り込む。
「イヤだった!?」
「いえ、嫌と言うわけではないのですが」
「じゃあなんで?」
若干気おされながらも、ほのかに照れ混じりにルンの視線が揺れる。言葉の通り嫌だというわけではなさそうだとひとまず安心した。
「その、さっきの親愛表現という話に戻るのですが、それにあたっていまして」
「あ、ルンのとこの。どんなの?」
ルンは視線で鍋の火を弱めると、こちらに向き合った。
あまり背が高い方ではないルンは、向き合うと目線の高さがだいたい同じくらいになる。私は見上げるほどでないルンの背丈も好きだ。というか今の浮かれポンチ加減だと、なんでも好きだと判断するのだけども。
「親しい間柄は、体の部位を重ねるのです。それが高い位置の部位であればあるほど、相手を信頼し心を許している……たとえば」
そろりとルンの手が動いて、私の両手をそっと掴む。
「友好は手を」
それから、次は顔が寄せられて頬と頬が触れる。
「親愛は頬を」
最後は躊躇いがちに額が当てられた。
「懇願と、情愛が額に」
見合った藍色の瞳の近さ。擦れる鼻先、口元にダイレクトに当たる吐息。一気に恥ずかしくなる。
私の様子がわかったのだろう。ルンはゆっくりと離れて、手を握ったままへにゃりと微笑んだ。
「だから、先ほどのようにサエが私に額を当てられると、その、憚られるといいますか……とくに後ろからは秘め事の誘いになりますので……ええと、いえ、これは私のところの常識であってサエのところでは違うことでしょう。ですので、気にしないでください。大丈夫です。本当に気にしないでください」
後半早口になった。私の熱くなった顔を見て、ルンも恥ずかしくなったらしい。
それもそうだろう。
つまり、私、ルンに。
恥ずかしすぎて無理だが!?
いつかはそういう経験とかも考えていないわけではない。ないけど、さすがにそれは意図していなかった。変な声を上げて固まれば、ルンが慌てて話を切り替えてくれた。
「あ、ああ、えっと、サエのところの親愛表現はどうでしょうか」
いや切り替わってないわ。ルンもまだ混乱しているにちがいない。
「サエといられるのなら、なんだっていいのです。努力します」
コトコト音を立てる鍋を横に、沈黙が落ちる。変な空気になってしまった。変な空気というか桃色というか。
いたたまれない。期待と嬉しさと緊張でごちゃごちゃな感覚。
今、早朝でよかった。コモス様が出かけていてよかった。心から感謝しながら、つばを飲み込む。
「え、えっと、その……きす、マウストゥマウスで口をつけるやつ」
か細くなった声に、ルンが固まった。
「……へ、平時で、そういうことをするのですか」
そして恐る恐る聞いてきた。なお、顔は真っ赤だ。
お互いに真っ赤にしながら、見合っている妙な空間だが誰もつっこむ人も邪魔する人もいない。
がんばれ古野守サエ。相手は初心な男の子だ。私がリードして仲を深めるのだ。
変なテンションになってきた脳内で、小さな私が応援旗を振っている夢想をしながらゆっくり頷く。
「る、ルンは知らないかもしれないけれど、恋人同士でやることで、ええっとね」
「いえ」
私が頑張って教えるから、まで言おうとしたら遮られた。
真っ赤なままで、けれど真面目な表情をしたルンが手を握ったまま一歩寄ってきた。
「それがあなたのところの親愛表現なら」
そう言って、顔が寄って驚く間もなく唇が重なった。
そのまま、柔らかく唇が噛まれた。歯でなくて、唇だけで噛まれている。息を吐きだそうとゆるく開いた口を開けて触れる柔らかさが、ひどく気持ちがいい。
というか、めちゃくちゃ、やらしい。
角度や位置を変えながら、何度も、何度も唇が食んでくる。薄い皮膚をなぞって舌先が触れる。
気持ちよさに流されそうになりつつも、なんだこれと怒涛の混乱コールが脳内でけたたましく叫んでいる。
やばい以外の感情が浮かばなくなった瞬間に、慌てて長いキスになり始めているルンの肩をめちゃくちゃ叩いてストップを呼びかけた。
最後に小さく音が鳴って離れた。
「あの、下手でしたか」
めちゃくちゃ上手すぎましたが。
誇ってくれルン、逆にそのポテンシャルどうしたんだ。どこで培ったんだその技術。わなわな震えながら首を横に振れば、ほっと息が吐かれた。
「それならよかったです」
「……はい」
本当に人がいない時間でよかった。何度も感謝をささげながら、どうにか足に力をいれて熱っぽい息を吐きだした。
拝啓、遠い過去のお父さんお母さん、遠い世界の家族たち。
私の恋人、すごいです。
届くはずがない祈りをこめて、私は必死で息を整えるのだった。
そして、鍋はちょっと噴きこぼれてしまった。




