三十八話
まず、感嘆するような大きな吐息が聞こえた。
それから、何やら歩き回ってぶつかった音。
そして、大きく呼びかける声。
「──ああ! あら、貴方!? あらやだ貴方なの? まあ、書くのに便利な体になって! そんなことより、見てちょうだい、貴方! 先史の文字を完璧に再現している新たな書が!」
耳をすませば、たぶん、こんなことを言っていた。
分厚い扉でも、私の耳はよく聞こえたのは、きっとメルーの改造の成果かもしれない。おそらく、ユウェタース様が興奮しているように話しているのもあるおかげかもしれないが。
ハリオス様は、扉の向こうの嬉しそうな悲鳴を聞いて、私たちにむかってグッドサインをした。
それから胸元に手を当てて、大仰に息を吸って吐く仕草をしてからまた扉をゆっくりと開いた。
本の頭をしたユウェタース様と液体人間なフィドモン様が小躍りしている。
見た目はホラーっぽいけれど、やってることはコミカルなので私の恐怖心をくすぐることはない。何よりである。
一安心しながら、ハリオス様はそろりと足を踏み出した。オウィノー様は私たちの背を蛇の尾で押して、顎先でくいっくいっと前へと示した。自分の代わりに行けってことかしら。
人差し指で前を指せば、大きくうなずかれた。ヌワにも小さく頼むと言われたので、ルンを前にして進ませてもらうことにした。
「それに見てちょうだい。装飾かと思えば、この量。未知の言語だわ。いったい、どこの文字で……ああ、いったい誰がこれを書いたのかしら」
夢中で人の形になった液体に抱き着きながら、ユウェタース様が本を掲げた。恍惚とした声ってこんな声なんだろう。とてもうっとりとした様子で、入ってきた私たちに見向きもしない。
あまりに気づかないので、ハリオス様はわざとらしく咳払いをした。
「……どなた? ここは軽々しく入る場所では」
「ええと、僕です。母上、父上。あなた方の嫡子のハリオスです」
ひらひらと片手を振ってから、片足を下げてちょこっと膝を曲げる。その影で、私たちも同じように礼をしてみる。
本をおろして、体をこちらに向けたユウェタース様の頭がぱらぱらとめくれる。思考中みたいなものなんだろうか。フィドモン様は人の形から変形して空中に文字を書いた。そういうこともできるみたいだ。
「あー……はい、はい。こんな成りですがあなた方の第一子で間違いはないですよ、父上。僕のことより、父上は話さないので?」
フィドモン様は空中の文字を作るのをやめると、またユウェタース様の横に立った。
かわりとばかりに、ユウェタース様が一歩前に進んだ。手には私が書いた、ロクタック先史録がある。もう一つのほうは大事そうに抱えたままだ。よほど気に入ってくれたのかと思うとちょっと嬉しい。
けれど私の喜びとはうらはらに、ユウェタース様はぐっとロクタック先史録を前に突き出した。
「……先史テース」
「は」
「先史テースのサタワミード開闢時代、継承すべきロクタックの手記。このロクタック先史録はお前が?」
「はあ、ああ、それを書いたのは僕ではなく。新たに書き記して」
そのままずんずん近寄るユウェタース様は、後ろのフィドモン様に持っている紙束を渡した。そして、細腕で透明なハリオス様の顔部分を掴んだ。見えないけれど、耳のあたりを引っ張っているのではという仕草に見える。
「お前! ハリオス!? ああ、ああ! お前、お前お前は! ロクタックの嫡子でありながら! 自分で書かなかったと! 申しますか!?」
「痛い痛い痛いです母上! 書かなかったのは事実ではありますが! それより適任が居たので……ああっ父上、見ていないで母上を止めてくださいませんか!」
ハリオス様が手を動かして抵抗するにも、奮起しているユウェタース様はさらに興奮しているようだ。助けを求めたハリオス様の言葉に、ふわりと浮いていた液体が滑らかに動いた。何か文字を表している。私とルンには読めないが、ハリオス様が読み上げていた。
我が妻の嘆きを受け止めることこそ、愛。
そう書いてあるらしい。
なるほど、愛妻家なのか。見た目で判断できないな、と思っていれば助けを求める声がこちらにきた。
「ヌワ! オウィノー! ルンとサエも! 君たちの兄が窮しているよ!」
「ハァリオス! 母が話しているのです。こちらを向きなさい! そも、ここに嫡子以外の者を入れるなどという愚を……」
言いながら、矛先がこっちを向いた。
ぱら、と頭のページがめくれる。ハリオス様の見えない顔あたりを両手で引っ張りながら、ユウェタース様の体がこっちを向いた。
「……お前たち」
思わず背筋が伸びるような、身が引き締まるような声。先生に叱られたときみたいに、びくっと背筋が伸びる。ルンも姿勢を正していた。
「見ない顔ですが、なんです。ハリオスが兄と自称するとは、どういう」
「説明しますから、ひとまず手を放してくださいませんか母上」
されるがままのハリオス様が言えば、ツンと顎先をそらすみたいに本が傾いた。
「よいでしょう。ただし、わたくしが納得する説明をするように。貴方、よいかしら」
「無論」
空気を震わせるような低い声がする。きっとフィドモン様の声だ。ただ、すこし聞き取りづらい。だから声を出さなかったのだろうか。
「では、落ち着いて、執務室までお越しください。落ち着いてですよ」
「なんです、人を猛獣のように。ハリオス、早くゆきなさい」
「……オウィノー、ヌワ、聞こえたね。今から母上たちがそちらへ向かうぞ!」
大きく声を上げると、扉の外からあわただしい音がした。きっと私とルンが姿勢を正したみたいに、態勢を直しているに違いない。
ハリオス様に「先にお行き」と言われて出れば、予想通りに畏まったオウィノー様たちが居た。それを見ていれば、ルンに腕を引かれてその後ろに並ぶように移動させられた。
「サエ、領主夫妻とこちらは初対面です。遅れましたが、礼はしっかりとしないと」
「おお……そっか。そうよね、ありがとう教えてくれて」
「いえ」
大きな二人に合わせて、こちらの世界風のお辞儀をして待つ。
こつ、こつ、と金属のブーツを鳴らしてハリオス様が出てくる。続けて、フィドモン様にエスコートされながらユウェタース様が出てきた。
領主夫妻は出たとたん、辺りを見て驚いた様子を見せた。そして、オウィノー様たちをみてまた驚いている。
「……オウィノー? それに、ヌワ? お前たちまで姿が変わっているの?」
「ご無沙汰していますわ、お母様。姿は変われど、恙なくしていますのよ」
「まあ……いえ、お待ち。お前、オウィノー。思い出してきたわ。扉の前で喚いたのはお前ね? 散々教育したというのに、なんという態度を」
「ほ、ほほほ、そんなお母様、いやですわ。気が動転していらしたのではないかしら。わたくしは知らないことだわ。ねえ、ヌワ」
「ヌワ、領主夫人として命じます。真実を申しなさい」
「ヌワ、妻として願うわ。アタシを守りなさい」
「アタシ? ですって?」
「うげぇ」
オウィノー様の化けの皮が剥がれてしまった。
本の頭でも睨まれているとわかる。ほほほとわざとらしい笑い声をあげると、オウィノー様はヌワを引っ張って駆けて行った。遠ざかりながら「コモス兄様とバティストを呼んできますわー!」とか言っている。ヌワ、余計なことを言わないようにと口に糸を巻かれていた。いいんだろうか。
「まったく、変わってもあの子なのね……はあ、ハリオス。執務室へ行くのでしょう。貴方、共をなさって。お前たちもついてくるように」
私とルンに言って、フィドモン様のエスコートのもと、ユウェタース様がきびきび歩いていく。
そのあとを、小さく肩をすくめてみせてからハリオス様が続く。後ろ手で呼ばれて、私とルンもまたついていくのだった。
執務室について、ハリオス様主導のもと、簡単な説明と私たちの紹介が行われた。
途中で来てもらったウータさんも合わさって、疑うユウェタース様に説明をした。
結果、私とルンが実際に文字を書いたことと、私が初代ロクタック家の両親について話したことによりひとまずは信じてもらえた。
フィドモン様は、ユウェタース様の後ろに控えている。この人が領主のはずなのに、ずいぶんと控えめだ。
それには理由があって、外部に面だって相手するのはフィドモン様で便宜上は領主としている、というらしい。実際は直系のユウェタース様が家のことを詳しく握っているとのことだ。
つまり、婿養子で対外的な領主をしているフィドモン様。対外的に領主夫人をしていて、ロクタックの秘密を引き継ぐのがユウェタース様。次代の継承者が、嫡子でありハリオス様ということだった。
こんなことをあけっぴろげに、それも部外者な私とルンに話していいものなのかとも思った。けれど、すでにこんな有様な上に、何年何百年経ってるかわからない現状では意味がないとの判断で話してくれたみたい。
「完全に信用するに至るには、まだ時間はかかりますが……奥域の存在が認めたというのなら、お前たちはそう問題がないのでしょう。このハリオスも弟妹とうるさく言うようですしね」
ユウェタース様の判断はこんな感じだった。
ハリオス様の外部への人間不信は両親である二人も問題視していたらしく、信用しきれないという割にはわりと好意的ムーブだ。最初から割と親しげなので、ハリオス様の不信具合はわからないが、相当ひどかったのだろう。ルンはちょっと納得みたいな雰囲気だったけれど、何か知っているのかしら。
「ともあれ、フィドモン様の声の調子もまだお戻りにならない以上、わたくしとハリオスで盛り立てることとします。よいですね」
「はい、心得ております」
「そして」
背筋を伸ばしてこちらを見ているユウェタース様が言う。
「お前たち……サエと、ルン、でしたね。身の上は承知しました。ロクタックの者として扱う以上、作法は覚えてもらいます。普段からしろとはいいませんが、いつ何時、何があるかわかりませんからね。ウータ、任せましたよ」
「仰せの通りに。立派に磨いてみせましょう」
控えていたウータさんが、穂先を広げてお辞儀をしてみせる。それにユウェタース様は鷹揚な仕草でうなずいた。
「ウータの働きにはとても満足しているわ。期待しています。わたくしの貴方、フィドモン様、よろしいですね」
「無論」
フィドモン様が答えて、その場はそうしてお開きとなった。
私はこれから来る、マナー講座らしきものに、背筋を震わせた。
そろりとルンの腕を取る。やっぱり安心毛布、ルン大明神。ちょっとだけときめきが恐ろしさを和らげてくれた。




