三十六話
脱幽霊しているはず。
きっとしている、していてほしい。
両手で指を組ませてポーズも取りながら、無慈悲に進んでいく短い距離に祈る。
開けっ放しの扉から見えるのは本棚だらけの部屋の光景だけれど、その先に何かがいる。
音がする。
パラパラと、ページをめくる音。
部屋の入り口近くで下ろされてコモス様、私、ルン、そのあとにハリオス様と続いて入る。オウィノー様は狭くて無理、と不機嫌そうに入り口近くで待機である。ついでに冊子を預かってもらった。
入り口近くがみちみちと密集しているが、誰も大きな声もあげずに緊張した顔つきで先を気にしている。
多くの本棚に隠れて進みながら、コモス様が立ち止まった。後ろからハリオス様の小声が届いた。
「その先だよ」
荒々しくページをめくる音。呼吸音。衣擦れ。
姿がよく見えないことに加えて、やっぱり思い返す血濡れお化け姿が背筋を震わせる。
「る、ルン……手、手」
「手? あっ、はい、どうぞサエ」
近くのルンに耐え切れずお願いをしてしまったが、ルンは快く手を差し出してくれた。ありがとう、ルン大明神。聖人から守り神ぐらいに私の中のルンの頼もしさがレベルアップしたところで、呼吸を落ち着けて様子をうかがう。
怖いけど見ちゃう心境というのはこういう感覚なのか。
大きなコモス様の横から、ゆっくりと顔を出す。
「なるほど、あれは声をかけたくない」
コモス様が感想を呑気に言っているが、気持ちはわかる。
最初に目についたのは、黒。細長い体のラインがよくわかる、装飾の一切ない真っ黒なゴシックドレスの裾が床に広がっている。襤褸となって穴が開いている裾は、遠目からはレースみたいに見えた。
驚くほど白い肌の女の人だ。恰好と、体格からそう判断する。黒いドレスを着ているから余計にそう見えるのかもしれない。
袖口から覗く細い指先が一心不乱に本のページをめくっている。ものすごいスピードでめくり終わると手当たり次第に次の本を手に取っていた。その様子だけで鬼気迫るものを感じる。
それだけでなく、時折呻きや息を呑む声、ヒステリックに小さな悲鳴が上がっている。確かに声はかけづらい。
耳を澄ませなくても金切り声が聞こえてきて、ルンの手を握る力が強くなってしまう。
「あ……ああ、これも……これもこれもこれも! あぁ、あ゛……おぉ……」
張り詰めた女性の声。
でもその頭にあるものは、女性とは判断しづらいものだった。
本だ。
赤黒い装丁の、ハードカバーの本だ。それが女性、おそらくユウェタース様なのだろうけれど、頭が本だった。
声が出るたびにパラパラと頭のページもめくれていく。ページに限りがないのか、めくった瞬間にループしているみたいにページの厚さが変わることはない。
なにがどうしてそんなことになっているのかわからないけれど、ユウェタース様は本のことを気にしているみたいだ。幸運なことにと言えばいいのか、私たちに一切注意を払っていない。
コモス様を盾にちらちら見ていても、まったくこっちを向くことはなかった。
「ねえ、どうなっているの? アタシは見えないんだから、話しかけてみてよお兄様たち」
「せっかちさんだね、オウィノーは。ほらコモスたち、よく見てごらん。あそこには父上もいる」
オウィノー様が入り口のほうから急かしてくる。それをたしなめながらハリオス様が一点を指さした。
一見何もないようだけれど。
「ルン、わかる?」
「本棚のあたりでしょうか。あの、サエ。苦手なようでしたら、あまり見ないほうが」
優しさがありがたい。
つまりルン判断で、私の恐怖を促す何かがあるということだろう。そう言われると逆に気になる。
怖いは怖いけれど、今はルンもいるし、分厚い盾のコモス様とかいるし、たぶん、大丈夫。大丈夫、なんとかなる。
つばを飲み込んで、こちらに興味がないのを良いことにもう少し身を乗り出して覗いてみる。ユウェタース様の周囲は本の小山ができている。そのかわりに、周りの本棚のスペースが空いていた。
そしてそのスペースを作っていたのは、黒っぽい何か。
赤黒くて、血が固まって動いているみたいな物体がある。末端にはインク瓶が付いてある。というより、そこから出てきているような感じだ。本棚の影で見えにくいものの、一度認識すると目を離せない異様さがある。
多分、私が見つけた瓶だと思う。大きめで、何も入っていなかった蔦模様のアンティークボトル。
「我らが父上は、ああなったか」
どこか納得したような風に言うコモス様に、あれが領主のフィドモン様だということがわかった。
一言で表すなら、液体人間にインク瓶が引っ付いている。いや、ランプの精ならぬインクの精みたいな。中に入っているインクの色がリアルな血みたい。まるで本人の……嫌な想像をしてしまった。やめよう。
顔の形や手足とかは、とてもじゃないけれどわからない。つるりとしたマネキンみたいな形になったり、かと思えばメルーの本体みたいに自由自在に形を変えて漂ったり、インク瓶に戻ったりしている。
おそらく、ユウェタース様の手伝いをしているのだと思う。一心不乱に本を読み進められるように次々と本を運んでいるのはフィドモン様だし。不思議とインクが本へ染み付いたりはしないみたいで、ページに赤黒い色が散ってもフィドモン様の体に吸収されていた。謎だ。
ぶつぶつ言葉を発しているユウェタース様と違って、フィドモン様は黙々と蠢いている。
「意思疎通は可能なんです?」
コモス様の左目が、ちらりと私を見下ろす。
「わからんな。おい、ハリオス。声をかけたのか」
そして小さく後ろのハリオス様に声をかける。振り向くと、ハリオス様は大きく手でばつを作っていた。
コモス様は一瞬の間をおいてから、外のオウィノー様へと声をかけた。
「オウィノー、やれ」
「なに? わかんないけど、いいわよ」
すると、蛇の尾が後ろから伸びてきてハリオス様を巻いた。
「ハリオス兄様なら、頑丈だし口も上手。きっと大丈夫よー」
雑な言葉でおだてて、ぽいっとハリオス様は私たちの前方に放たれた。
容赦のない兄妹だわ。オウィノー様、こういうところ南美姉っぽさがある。これも血が少しでもつながっているからだろうか。
沈黙。
本をめくる音が止まって、ページを開いた状態の本の頭部がハリオス様をとらえた。ゆるやかに蠢いた赤黒い液体が空中にぴたりと止まる。
その中で、ハリオス様はぎこちなく手を広げた。敵ではないですよ、みたいなポーズだろうか。
「あー……ご無沙汰しております」
無言。
固唾をのんで見守れば、すっくとユウェタース様が立ち上がった。
「ロクタック家が嫡子、ハリオス・ロクタック。見目は変われど、あなた方の子にございます」
淀みない美声の挨拶。ただ、そんなハリオス様の言葉は、全部言い終わることはなかった。
「ない、ない! お前か。お前が、お前か!」
通じているかも不明の返答をして、ユウェタース様はハリオス様につかみかかろうとした。それを追うようにインク瓶も液体も後ろから迫ってくる。
狂乱の声を上げて追いすがるユウェタース様を器用にステップを踏んで避けながら、ハリオス様は素早く戻ってきた。
そして弾む息のまま、きっぱり言った。
「いや、無理だね! 書に傾倒している最中の母上は恐ろしいものだ!」
その背後からは興奮したユウェタース様の姿とフィドモン様の姿が追ってきている。
「て、撤退! 一時撤退しましょう!」
安心毛布ならぬルン大明神の腕が側にあっても無理なものは無理だ。
幽霊じゃなくなったといっても、大分ホラーな光景は私には厳しかった。浮遊する血っぽいインクな液体人間も、おどろおどろしいドレスと古びた本も、目の当りにするにはきついものがある。
ぐいぐいルンの腕を引っ張れば、ルンも「一度戻っては」と言ってくれる。
これにはコモス様も反対することなく、私たちはオウィノー様が待っている入り口前までなだれ込むようにして退却した。
「オウィノー様、扉、扉閉めてください。糸もやっちゃって防いでください」
身振り手振りで必死に伝える。
怪訝な顔をしていたオウィノー様だったけれど、迫ってくるユウェタース様たちを見て即座に対応してくれた。そして扉と私たちを何度か見比べた。
確認するのも恐ろしいが、扉の向こうから荒ぶる声と物音がする。
「何したの、兄様たち」
「ひどい誤解を受けた」
「少なくとも、この俺は悪くない」
「いや、何かしたんじゃなくて?」
オウィノー様は兄二人をねめつけた後で、私とルンのほうを見た。
「大丈夫だったかしら」
「はい」
「何か探しているように、お見受けしました」
うなずく私とはよそに、冷静に観察していたらしいルンが報告をする。ハリオス様もそれに続いた。
「そう。そうだね、あそこで何があったのか……」
そんなハリオス様の言葉に呼応するみたいに、金切り声で何か扉の向こうで叫びが上がった。
「ロクタック先史録!」
なにかの名称っぽい。
はて、と思っていれば、オウィノー様が私から預かっていた冊子を指さした。
「これのこと?」
「ああ、母上はそれを探しておられて……? それなら」
ほっとした様子で言うハリオス様の声をよぎってまた声がした。
「騎士ダールトンの道程! エメリッヒ・ツァルケル詩集! ヴァナデナ植物記!」
怒涛の勢いで、おそらく本のタイトルが挙げられていく。
ロクタック兄妹は固まると、どんどんと今もなお続けられている題名連呼に曖昧に声を出した。
「ああー……騎士物語は僕の部屋だったか……いや、都にもっていったっけ……記憶があいまいだな」
「ええと、詩集はアタシがお母様に強請って持ち出したことがあった奴だわ。もちろんお部屋に置いてたわね。だから燃えちゃったけど」
「植物記は俺が持って行ったような気がするな。採集途中でどっかやったっけか」
口々に言って、顔を見合わせて素早く執務室へ戻っていく。誰も何も言わないけれど、表情にありありと拙いなと書いてあるように見えた。
なおも扉の方からは、私には聞き取れない発音の羅列が続いている。もしかして、あの部屋の蔵書をすべて把握していて、ないものを探しているのだろうか。
ぽつんと取り残されてはならないと、ルンの手を引く。
「ルン、私たちも行きましょ」
「……サエ、本当に平気ですか?」
「え? あ、ああ、お化けのこと? うん、まだ大丈夫。皆いるし、それに本当はお化けじゃない人だし」
立ち止まったルンに引き留められて、足を止める。言いながら糸を重ねて封じている黒い扉をちらっと見る。なおもまだ本の題を呼ぶ声は続いている。
実際目の当たりにするには、まだ心の準備はいるが慣れればきっと大丈夫だ。
言い聞かせるように答えると、ルンはなおも心配そうに言った。
「怖いと思うのなら、無理はしないでください」
「や、でも、私だって関係者のはず。ハリオス様たちにはお世話になってるし、恩返しというか。ルンだってそう思うでしょ?」
「いえ、私はただ……サエの無理する姿はもう見たくないので」
なに、見苦しいとかそういうことを言いたいわけ。
そう茶化そうと思ったけれど、あまりにルンが真剣なので出かけた言葉は喉に引っかかって戻ってしまった。
「明るく私を振り回す、元気なあなたでいてほしいだけです」
おまけに、ルンの言葉もうまく飲み込めなくて、耳元でぐるぐる留まっているみたい。
「……サエ?」
きょとんとした顔をルンはしているが、きっと私はその反対に動揺しきっている顔をさらしているかもしれない。顔が熱い。
なんだこれ。
「もっ、もどろ! 早く!」
見られないようにルンの腕を引っ張って大股で戻る。
風を切って、それが火照りを沈めてくれますようにと祈りながら通路を進む。そうして息を吸って吐いて必死で落ち着かせてから、執務室の前で立ち止まって扉を開けた。
なお、甲斐ない努力だったみたいで、中に居た面々に何か察したような顔をされたのが癪である。




