三十三話
妹となった覚えはないが、ともかく、ハリオス様が承知していることはわかった。
そしてそれを嫌だとも思ってはいなさそう、ということも。
ひとまずそれだけわかれば十分だ。
「……あの、サエの親がここにいたのですか?」
私とハリオス様はわかっていたけれど、ルンは知らないことだった。
あっ、と思って、ルンに手の中の古い冊子を見せながら説明する。
「ここ、私の名前があるの。あとこっちはヒロ兄の名前。それから楓太兄や南美姉、あと叔父さんと叔母さん……住んでた場所のことを書いているのはここ」
「サエの名前は、わかります」
そうだった。ルンは日本語がわからないんだった。それでも、一時期メモ帳に書いてもらったり教えあったりしたこともあったことで、わかってもらえるところはあったみたいだ。
でもそれだけだと納得する理由には弱いってことは、私にだってわかる。ちらっとハリオス様を見てからルンの耳元に内緒話をするためによる。
「ルン、あのね」
「えっ、ひゃ、はい」
びくっと体を竦ませて視線をさ迷わせたルンが可愛くてちょっとおかしい。笑いがこぼれないようにこらえて、奥域で会ったメルーについて話すことにした。
「奥域で私、いろいろ言われたの。お父さんやお母さんがずっと昔にここに来て、お願いをしてたって」
「それは……」
「映像も見せてもらったから、きっと本当。この冊子もあるし、嘘じゃないと思うの」
ハリオス様は背を向けてくれていた。気を遣ってくれたんだろうか。だとすると、紳士な人だ。兄弟愛が強すぎるだけで、きっとこの人もいい人なのかも。
この際全部言っちゃえと、ルンが巻き込まれた経緯も手短かに話す。こうでもしないと、いつまでも抱えてしまいそうな気がしたからだ。
「あのね、ルンが連れてこられたのも、私がここに来たからって言われたんだ」
「サエが?」
「うん。私のせいみたいだから、もしルンが気を悪くしたなら、ごめん」
「いえ、それは……むしろ、サエに感謝することが増えました」
ルンはゆっくりと答えた。
前の世界よりは良いと言っていたとしても、勝手に連れてこられたことは嫌なんじゃないかなとも思っていた杞憂は、実にあっさりと消えた。
「……文字が読めないことが、悔やまれます」
それから視線を落としてルンが言う。
「なんで?」
「そうすれば、もっとあなたの気持ちに添えられると思ったので」
「へ?」
「運命共同体と、サエが言ったでしょう。理解できないことは少なくしたいです。ほかならぬ、サエのためになるのなら」
「……ひえ」
真面目に言うルンに、きゅんとしてしまった。
なんだこの可愛くていじらしい生き物。
予期せぬ一撃に、一歩下がれば不思議そうな視線が後を追ってくる。
ルンなのに。
いや、ルンだから?
というか、普段はたじたじでこういう色っぽいこと関連とか、そういう方面にはすぐ真っ赤になるくせにずるくないか?
落ち着かなくなって手元の冊子を握る指先に力を籠めないように、全力で気をそらす。
どうしようと周りを特に意味なく視線をさ迷わせれば、肩を震わせてうつむいているっぽいハリオス様の背中が見えた。いい人評価を撤回したほうがいいかもしれない。
「ハリオス様っ!」
「サエ?」
「もーっ、面白がって笑わないでください! ずるいでしょ、こんなん!」
「ずる? サエ、あの、何が」
「ルン、そういうところよ。悪くないけども、そういうところよ!」
「えっ、な、何かしましたか」
「しーたーのー! あのね、ルン、私だからいいけど、ほかの子にしたら怖い目に遭うかもしれないから気をつけるのよ!」
「サエだから言ったのに、なぜ他の者が出るのですか?」
「そういうところよ!」
言いながら恥ずかしくなって、何を言っているのかわからなくなってきた。途方に暮れたルンを、まだ震えているハリオス様が手招きした。困惑しつつも「行ったら」と顎先をそらして言えば、困った顔をしたままハリオス様のところにルンが行った。
何かを耳打ちされて、眉をひそめたルンは、やがて徐々に頬を色づかせた。そして、撃沈した。
両手で顔を覆ってしゃがみこんでうわ言みたいに、聞き取れない言葉をしゃべっている。
そう、そうそう、そういうのでいい。それこそ私が知っているいつものルンだもの。これ以上は心臓に悪いわ。
ルンとは対照的に深呼吸して落ち着きを得た私は、ほっとしながら、よくやってくれたとハリオス様へグッドサインを出した。
異世界でも伝わるらしく、肩をすくめてから同じように返してくれた。ハリオス様も、結構ノリがいい人みたいだ。
「内緒話はもういいかい」
「いいです。それで、ハリオス様の私への用はこれってことでよかったですか」
「そうだね。もしここで読書をしたいようだったら、まだ居てもいいよ。さっきみたいにじゃれながら、二人で仲良く遊びなさい」
「……ハリオス様ってちょっと意地悪だったりします?」
「耳が良いとは言われるかな」
爽やかな美声でごまかされた気がする。
優しい仕草でルンの頭を軽く撫でてから、ハリオス様が出口に向かう。
「戸締りはあとで僕がしておこう。僕は執務室にいるから、いつでも気軽に兄を訪ねておいで。ではね」
ひらりと優雅に片手を振ると軽やかな足音を響かせて出て行った。コモス様も自由だけれど、やっぱり兄弟というのもあってハリオス様も自由人だわ。
あとに残されたのは、やっと照れがおさまりはじめたけどうずくまったままのルンと、立ち尽くす私だけだ。
「えーと、ルン、もう平気?」
「……はい、その、申し訳ございません」
言いながらまた照れたのか、目元まで赤い。
話題を蒸し返されるとまた私まで恥ずかしくなりそうだ。あえて遮って、ルンの腕を引っ張って立たせる。
「謝るのはやめて。ね、そんなことより、どんな本があるか見てみましょうよ。異世界の本ってどんなのがあるか、気にならない?」
「そう、ですね。私のところでも、本はあまり目にしたことはない媒体ですので、興味はあります」
若干照れまじりだが、すぐに話題にのってくれたことに安心する。
ルンの知識欲は強めだってことは知っているのだ。
そうと決まれば早速行動とばかりに、冊子を片手に抱えながら本棚を見て回る。
装丁が宝石箱みたいに凝っているものもあれば、巻物みたいなものもある。メモ帳を雑にまとめただけではというものもあったし、なんと竹簡みたいな代物まで無理やり本棚に詰め込んでいるところもあった。
整理は行き届いているけれど、細部は煩雑としている。
内容はどうなんだろうと、ルンと手分けして見てみれば、やっぱりというか、案の定というか、まったく文字が読めなかった。
異世界に来たからといって、文字の読み書きができるとは限らない。
現実は世知辛かった。
むしろ今までよく気づかなかったものだわ。誰もかれも口頭で済ましていたからかも。ウータさんの飴と鞭勉強会も、思い返せば書き記して説明はなかった。
それに、本は貴重というから、製紙技術自体も広く普及していなかった可能性もある。
この部屋の、おそらくほとんどの書物は植物の繊維製ではあったけれど、私の世界の本に比べたら粗末だった。紙の元や本の元もダンジョンでとれた資源だったりして。
まあ、わからないなりに読んでみて、まったく楽しくなかったわけでもない。
挿絵の繊細さを眺めたり、明らかにここ何かあったのかなという文字の動揺とか落書きらしきものを発見したりするのは楽しかった。あと、脅威の学習能力のルンがこの文字は多分こういう意味ではと分析し始めるのを眺めるのも。
そうこうして眺めるだけでもあっという間に時間が経つ。
次の本で最後にしようかな、と本棚を眺めて、私はあるものを見つけた。
本以外が置いてある。
「インク瓶?」
声に出せば、それにしか見えない。
私の手のひらに余るくらいの、おそらく分厚いガラス瓶。アンティークボトルといえばいいのか、古びた瓶には蔦模様が入っていて蓋は金属製のおしゃれな感じ。
中に入っているのは、本棚の影で暗く見えるけれど黒以外の何か。
ほかにあるのかなと探せば、その下の棚に隠れるようにして箱があった。中には小さめの色とりどりのインク瓶が入っていた。
誰かの趣味だろうか。それこそ、ハリオス様たちのお母さんの。
「ルン見て、きれい」
一つかざしてみる。これは藍色だ。薄く伸びたところが鮮やかな深い青に変わる。
天井の照明に反射してきらきらと映って……影が差した。
ルンかな、と思ったけれど、瓶の影はそういうものではない。もやもやとした、なんといえばいいのか、不安定でおぼろげな何かだ。
「……ルン」
「はい」
返事がすぐにある。ちゃんと近くにいるようでよかった。それでも瓶から目は離せない。
蠢いている。半透明っぽい、人影のようでそうでない何かがいる。
「ルン」
インク瓶をいたって冷静に元の場所に戻して、後ろ手にルンを探して、掴まえる。この細い腕はきっとルン。
落ちないように冊子を確かめる。抱え込んでいるのを確認してから、ゆっくりと振り返った。
「かえりま」
言葉は途中で途切れた。
そのかわりに引きつった息が喉の奥で引っかかったような声が出た。
細い腕。
長く伸びた、黒くてぴったりとした袖の腕。
その先にあったものは、インク瓶に映っていた、おぼろげな物体だったものだ。
──それは、頭から血でも被ったみたいに真っ赤な液体を滴らせた、細身で背の高い貴婦人だった。
もっとも、頭の部分はわからない。ぼやけてぶれて、時折通信がうまく合ったみたいに垣間見える姿はまぎれもなく血まみれの女の顔だった。
そしてその女の腕を、私はつかんでいた。
「っあ、あ゛ーっ!? あーっ! る、ルーン!!」
意識するまでもなく、悲鳴が口から飛び出す。腕を振り払ってその場から駆け出す。
「サエ? 何が」
違う本棚の影から出てきたルンの腕を今度こそ取って引きずる。後ろ向きの状態で走りづらそうだけど、ごめん、ルン、私に余裕がない。
「出た! 出たの!」
「え、あっ、ちょ、サエ、何が」
「いいから早く早く出るから早く!」
わけもわからず足をがむしゃらに動かして、部屋を飛び出る。
そしてそのまま一も二もなく廊下をつっきって、執務室目指して走る。何かあれば訪ねろと言ったのだから、有言実行して何が悪い。その心境で豪華な扉へ乱雑にノックをして、返事も待たずに飛び込んだ。
豪華な扉は鍵がかかっていないのか、意外なほど簡単に開く。
私の火事場の馬鹿力でぶっ飛ばしたのかもしれない。それくらい大きな音をたてて扉を開くと、ぽかんとした様子のハリオス様とウータさんがいた。
「にぎやかなのはいいことだけれど、少々にぎやかすぎやしないかい」
執務机らしい立派な机に座って、何かしているハリオス様にルンを引っ張ったまま詰め寄る。
「ハリオス様! あそこ!」
「あそこ?」
「おば、お化け、幽霊、なんか出ました!」
机に身を乗り出して言えば、ハリオス様はやがて両手をポン、と合わせた。
ウータさんが息をのんだみたいな仕草をして、小さく声を上げた。
「そっちか! やあ、なるほど。ありがとう、サエ」
「ハリオス様! やはり、いらっしゃったのですね!」
私の恐怖とは裏腹に、何やら嬉しそうに見える。どういうことだろう。
息を荒げていると、ためらいがちな手つきで背中を撫でられた。ありがとうルン、その気遣いが嬉しい。腕を緩めて、それでも離してしまうのは躊躇われたのでルンに引っ付いておく。
「早速、コモスたちが帰ったら相談しようかな」
「それがよろしいかと」
「ああ、サエたちも参加してくれると嬉しい。もうじき昼時だろうし、いいところで発覚したね」
「ええ、ええ。そのようですわ。場所はどこに」
「ここでいいだろう。食堂だとコモスの気もそぞろになるからね。ウータ、頼んでいいかな」
「かしこまりました。皆様のご帰還次第、お連れ致します」
さっさと段取りを決めると、ハリオス様は机の上で手を組んで満足そうにうなずいた。
それに箒姿ながらも上品だとわかる足取りで、ウータさんは部屋から出て行った。
「サエにルンも、皆がくるまでそこのソファでくつろいでいるといい。サエはずいぶん興奮しているが、大丈夫かな」
「サエの世界では、恐ろしいものと認識されている存在と出会ったようですので」
「ふむ? そうなのかい」
「はい。確かに、尋常ではない怖がりようでした」
言葉に甘えてソファにルンの手を引いて座る。
前に私が怖いと言っていたことを覚えているのか、私の様子を心配してくれているようだ。気の毒そうに私を見て、またつかみ直して握ったままの腕を、振り払わずにおいてくれているだけでもありがたい。
ただ、客観的に、真面目にお化けを怖がってたと言われるとなんだかいたたまれなさのほうが立つ。
いやでも、幽霊は怖いものは怖い。
絶対いた。掴んだもの。血まみれの女の人の細腕、ぎゅっとしちゃったもの。
思い返して身を震わせて、同じ腕でもまだあったかくて男の子している腕のルンを確かめるように触れて、はああと大きく息を吐く。
「私はよく見ていないのですが、黒い靄のようなものが出ていたかと」
「ううん、それだとどっちかわからないな。両方か? ともかく、そちらはよく探してみようかな。何に反応して出てきたのかは気になるところだね。サエ、あそこで何か変わったものでもあったかな」
「サエ、話せますか?」
優しく問いかけられた。
そうは言われましても。思い出し怖さがぶり返していけない。でも、何が原因かとかもわからないと困るのはハリオス様たちだろうし。なんてったって向かいの部屋なのだ。
「本棚の、インク瓶を」
そう伝えると、顎を撫でる仕草をして、ハリオス様は「ははあ」や「ふうむ」と言いながら考え込んだ。
「あの、なんかまずかったですか」
「いや、僕の記憶ではそこになかったものだから……まあ、言うなれば」
「言うなれば?」
「遺品……それも呪われた品だろうね! で、無遠慮に触られて出てきたのかな? 運がいいね、サエ。いや、見つけたのだから勘が良いかな? 良かった良かった」
良くないが。
そんなフェティッシュじみた曰くつきの代物を、私は「わあ綺麗」とか言いながら触ってたのか。そりゃ、そこに関係者の霊が居たら何か言いたくなるかもしれない。
にこやかに言ったハリオス様に、いつかコモス様が「笑って心無いことを言えるから」と評していたのを私は思い出したのだった。




