第二十話「境界を越える翼」3
第三章 黒き落とし物
「急げ! ゲートが閉じるぞ!」
沈 黒燼の叫び声が、ビルの屋上に響いた。それは、これまで常に余裕を崩さなかった彼女にしては珍しい、焦燥に満ちた声だった。
見上げれば、夜空にぽっかりと開いていた光の円環――次元の裂け目が、不規則に脈動し、急速にその直径を縮め始めていた。 向こう側の世界(アークステイツ連邦・エリア666)からのエネルギー供給が不安定になっているのだ。 ハインリヒ・オズシュタイン博士が遺した呪いのような暴走プログラムと、それを必死に抑え込む醍醐 京一たちの攻防が限界に達しつつある証拠だ。
「……くそっ、間に合わねえ!」
ジン(夜刃迅)が翼を広げて飛翔しようとする。 だが、裂け目から吹き出す強烈な乱気流が、物理的な壁となって彼を押し戻す。 次元の境界が閉じようとする圧力は、台風の中心など比較にならないほど重く、そして鋭利だ。 近づくだけで、鋼鉄の翼がきしみ、皮膚が千切れそうになる。
「押し戻される……! このままじゃ、弾き出されるぞ!」
ジンが歯噛みする。 物理的な飛行能力では、あの嵐の中には入れない。 戻る術がない。 このまま、ゲートが閉じれば、自分たちはこの「平和な世界」に取り残されることになる。 それは一見、幸福な結末のように思えるかもしれない。だが、それは違う。 自分たちが本来いるべき場所、守るべき仲間たちが待つ場所を捨てて得た平和など、ただの逃避でしかない。
「こじ開けるわよ!」
キリコ(九十九霧狐)が叫んだ。 彼女は強風に煽られながらも、両手でしっかりと印を結び、『千里眼(狐の窓)』を発動させた。
「……見えろ! 道筋!」
キリコの瞳が、怪しく輝く。 彼女の視界の中で、混沌とした光の渦が分解され、情報の奔流へと変わる。 閉ざされゆくゲートの結び目。 不安定に揺らぐ因果の糸。 そして、その奥で必死に「こちら側」へ手を伸ばしている、仲間たちの魔力の輝き。
「見つけた……!」
キリコが一点を指差した。光の渦の縁、わずかに空間密度が薄くなっている「ほころび」。 それは、向こう側の世界でエミル・ノスフェラトゥたちが空間固定術式を維持している、唯一の結合点。
「シェンさん! 座標X-20、Y-50! 空間の縫い目を斬って!」
「人使いが荒い狐ね……! 任せなさい!」
シェンが、腰の直刀を抜き放った。 彼女は紫煙を吐き出す暇もなく、全身の気を刃に込める。 狙うは、キリコが示した一点。次元の壁の、最も脆い縫い目。
「《断界刃》ッ!!」
シェンが抜刀し、空間そのものを切り裂いた。 音のない斬撃。 黒い亀裂が走り、乱気流を一瞬だけ両断する。無理やりこじ開けられた傷口が、帰還への道となる。
「今だ! 飛び込め!」
シェンの号令と共に、三人は地面を蹴った。 混沌の渦へと、躊躇なく身を投げる。
ゴオオオオオッ!!
強烈なGが全身を襲う。 世界が裏返るような吐き気。 上下左右の感覚が消え、光と闇が高速で明滅する万華鏡の中を落下していく感覚。 意識が遠のく。肉体が粒子に分解されそうになるのを、必死に自我で繋ぎ止める。
(帰るんだ……! 俺たちの世界へ!)
ジンは、薄れゆく意識の中で、背中の荷物――『黒胎』のケースの重みを確認しようとした。 だが、感覚がない。腕も、足も、背中も。 自分が自分であることさえ曖昧になる、次元の狭間。
ドサッ!!
硬質な衝撃と共に、重力が戻ってきた。 三人の身体は、冷たい床の上に転がり落ちた。
「……ッ、かはっ!」
ジンが空気を求めて喘ぐ。 肺に入ってきたのは、オゾンの臭いと、焦げ付いた鉄の味。 そして、肌を刺すような高濃度の魔力。
「……戻った、か」
顔を上げると、そこは崩壊しかけたエリア666の地下ドームだった。 周囲には、ルカ・ノクスが展開する金色の光の結界と、エミルの空間固定魔術が展開され、暴走する加速器の余波から彼らを守っていた。
「ジン! キリコ! シェン!」
チャーリー・Sが、ボロボロのアロハシャツを揺らして駆け寄ってくる。その背後には、力を使い果たして座り込む李 小蓮と、安堵の涙を流すルカの姿があった。
「おかえりなさい!」
「無事か、若いの! ヒヤヒヤさせやがって!」
仲間たちの声。泥だらけで、傷だらけで、けれど何よりも温かい、現実の感触。 生還した。 想いは届けた。 任務は完了した――はずだった。
ジンは、ふらつく足で立ち上がろうとして、バランスを崩した。 身体が、妙に軽い。
「……あれ?」
背負っていたはずの荷物が、ない。 あの鉛のように重かった、世界の呪いが消えている。
彼は、震える手で背中を確認した。革のハーネス。そのベルトが、半ばから千切れ、無残に垂れ下がっていた。断面は鋭利で、まるで空間そのものに噛み切られたかのようだ。
そこに固定されていたはずの、重厚な金属ケース。 回収したばかりの、世界を滅ぼす種子。 『黒胎』を封印した櫃が、ない。
「……おい、キリコ」
ジンの顔から、血の気が引いていく。心臓が早鐘を打ち、冷たい汗が背筋を伝う。 戦場での恐怖とは違う、取り返しのつかない失敗をした時の、底知れない絶望感。
「ケースが……ねえ」
「え……?」
キリコが青ざめる。 彼女もまた、事態の深刻さを理解し、即座に記憶を巻き戻した。
次元の裂け目を無理やりこじ開け、強烈な乱気流の中を飛び込んだ瞬間。 あの時、シェンの《断界刃》が空間を切り裂いた余波で、時空の歪みが発生した。 その衝撃で、ハーネスが切れたのか?それとも、次元の狭間の圧力に耐えきれず、ケースだけが弾き飛ばされたのか?
だとしたら、あのケースはどこへ行った? 次元の狭間に消えて、永遠にロストしたのか? それならまだいい。 だが、もしも。
三人の視線が、吸い寄せられるように加速器の中央へと向かう。 そこでは、今にも消滅しようとしている次元の裂け目が、最後の瞬きを見せていた。 その向こう側にある、「平和な世界」の光景が、走馬灯のように揺らめいている。
「まさか……」
キリコの声が震えた。彼女の『千里眼』が、最悪の可能性を幻視してしまったからだ。閉ざされゆくゲートの向こう。 平和な新宿の路地裏に、黒い塊が落下していく光景を。
絶望的な予感が、運び屋たちの胸を貫いた。 彼らは知る由もなかった。 自分たちが届けた「希望」と共に、この世界が生み出した最悪の「絶望」をも、あちら側の世界へ落としてきてしまったことに。
「……嘘だろ」
ジンが呻く。 ゲートが閉じた。加速器の光が消え、ドーム内は非常灯の赤い明かりだけに包まれた。
任務は完了した。 だが、その代償として、彼らは新たな、そしてより巨大な罪を背負ってしまったのかもしれない。平和な世界に、一滴の猛毒を垂らしてしまったという罪を。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




