第二十話「境界を越える翼」2
第二章 アナザー・ワールド
光のトンネルを抜けた先。乱気流に揉まれていた三人の身体が、唐突に穏やかな重力に捕らえられた。 五感が正常に戻ると、そこは雨の降らない、嘘のように穏やかな夜だった。
東京・新宿。 見慣れたような雑居ビルの屋上。 錆びついた貯水タンクも、ひび割れたコンクリートも、こちらの世界と何ら変わりはない。 だが、決定的に違うものが一つだけあった。
「……空気が、軽い」
ジン(夜刃迅)が着地し、周囲を見渡して呟いた。 こちらの世界の空気には、鉄錆と血の匂い、そして終わらない酸性雨の湿気がない。 排気ガスさえも、こちらの世界よりずっと希薄で、どこか優しく感じる。遠くで響く電車の音や、酔っ払いの笑い声さえもが、平和なBGMのように聞こえる。
ここが、英雄たちが勝ち取り、そして飛ばされた「平和な世界」。
「急ぎましょう。……ゲートが閉じるまで、時間がないわ」
キリコ(九十九霧狐)が、震える足で階段を降りた。彼女たちが向かったのは、築四十年はくだらない古びた雑居ビル。
そこにかかっていた看板の文字を見た。
『久遠探偵事務所』。
「……着いた」
キリコがドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。不用心なほどに。 ドアが開くと、カウベルがカランコロンと間の抜けた音を立てた。
中は無人だった。 使い込まれたスチールデスク。整頓された書類棚。 だが、そこには久遠灯以外の気配はなかった。誰かが集まった形跡も、仲間と撮った写真もない。 何もかもが、存在しない。
壁に貼られているのは、依頼解決の記念写真ではない。 近所の商店街の感謝状や、迷い猫捜索のチラシだけ。彼女はここでは、たった一人で、静かな探偵業を営んでいるのだ。
「……ひとり、なのね」
キリコが呟く。 彼女たちは繋がっていない。 命を預け合う仲間ではなく、互いの存在すら知らない赤の他人。 少し寂しい。けれど、それこそが、彼女たちが望んだ「誰も巻き込まない平和」の形なのだ。 戦う必要がないから、集まる必要もない。
デスクの上には、飲みかけのコーヒーカップと、灰皿があった。 灰皿には、消したての「わかば」が一本、微かに煙を上げている。紫煙が、天井の蛍光灯に向かって揺らめいていた。 つい先程まで、ここに灯がいた証。その残り香だけで、キリコの目頭が熱くなる。
「……灯さん」
キリコは、震える手で懐から『漆塗りの小箱』を取り出した。中身の『白彼岸花』は、ゲートを開く触媒として向こう側の世界に残してきた。今は空っぽだ。 だが、この箱そのものが、あちらの世界――彼らが守り抜いた地獄からのメッセージとなる。
彼女は、デスクの引き出しから便箋とペンを取り出した。 書きたいことは山ほどある。 感謝、尊敬、そして現状の報告。 だが、時間はあまりにも短い。 それに、多くを語ることは、彼女の今の幸せを濁すことになるかもしれない。 こちらの世界の泥を、あちら側に持ち込むべきではない。
キリコは、震える指で一言だけ書き記した。
『ありがとう。貴女たちが守った世界で、私たちは生きています』
たったそれだけの言葉。 だが、それこそが、彼女たちが命を懸けた意味の全てだ。 文字が滲まないように、こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪える。
「……これでいい」
ジンは、灰皿の横に無造作に置かれていた、空になった「わかば」の箱を手に取った。 くしゃくしゃになった、安っぽい紙箱。 コンビニに行けば数百円で買えるゴミ。 だが、彼にとってはどんな聖遺物よりも価値のあるものに見えた。 憧れの人の残り香。 彼女がこの世界で「生きている」という、確かな手触り。
「もらうぜ、リーダー」
彼はそれを、そっと胸ポケットにしまった。 心臓の鼓動が、箱を通して伝わってくる。
「……行きましょう。長居は無粋よ」
沈 黒燼が、入り口で静かに促した。 彼女もまた、この部屋の空気を乱さないよう、煙草を吸うのを我慢していた。
「帰るよ」
滞在時間は数分もない。 ゲートが閉じる前に戻らなければ、二度と帰れなくなる。三人は事務所を出て、階段を駆け下りた。
湿った路地裏を出て、大通りへ向かおうとした、その時。角を曲がってきた人物と、すれ違った。
コンビニの袋を提げた、一人の少女。 フリルのついた私服。 普通の黒目をした、あどけない笑顔。
天羽 祈。
「あ……」
キリコの足が止まる。 心臓が、早鐘を打った。10年前、廃寺で自分たちを庇ってくれた、あの少女。今の彼女には、オッドアイも、灰色の翼もない。ただの、買い物帰りの女の子。
祈は、立ち止まった三人を見上げた。 黒い翼の男、狐耳の女、そして刀を背負った美女。 こちらの世界ではあまりに浮いている、奇妙な格好をしたコスプレ集団。 だが、彼女の瞳に警戒の色はない。この世界には、天使も悪魔も、命を脅かす危険など存在しないからだ。
「……あの、何か落としましたか?」
祈が、優しく声をかけてくる。 その声は、かつて廃寺で聞いた声と同じ温度を持っていた。けれど、そこにはもう「罪悪感」も「痛み」もない。 透き通るような、純粋な善意。
ジンが、顔を背ける。 直視すれば、感情が決壊してしまいそうだったからだ。 名乗ってはいけない。関わってはいけない。 自分たちは、彼女たちが捨て去った「過去」の亡霊なのだから。
「……ううん。何でもないの」
キリコは、溢れ出す涙をこらえ、精一杯の笑顔を作った。声が震えないように、腹に力を入れる。
ただ、これだけは伝えたかった。
「ただ……ありがとうって、言いたくて」
「え?」
祈が小首をかしげる。 見ず知らずの人に感謝される理由がわからない、という顔。 それでいい。 覚えていなくていい。
「ありがとう。……貴女のおかげで、私たちは幸せよ」
キリコは言い捨てると、ジンの背中を押して走り出した。 これ以上ここにいたら、決心が鈍る。 「連れて帰りたい」「また一緒にいたい」と願ってしまう。それは、彼女の今の幸せを壊すことだ。
「……変な人たち」
背後で、祈の呟きが聞こえた。 困惑と、微かな苦笑いの気配。
それでいい。 私たちは、通りすがりの他人でいい。貴女が幸せなら、それでいい。 私たちが生きている世界が、貴女たちが守った証拠なのだから。
「……行くぞッ!!」
ジンが叫び、地面を蹴った。 三人は夜の新宿を疾走し、ビルの屋上に見える次元の裂け目へと向かう。その背中には、確かな希望と、少しの寂しさが乗っていた。
「さよなら、灯さん。祈さん」
キリコの頬を、一筋の涙が伝って風に消えた。 それは、別れの涙ではなく、再会を果たせた喜びの雫だった。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




