第十七話「境界の科学者」3
第三章 雨上がりの空へ
深夜。 東帝都・不死川。 雑居ビルの屋上にある錆びついた給水塔の陰で、ジン(夜刃迅)は一人、フェンス越しに眼下の街を見下ろしていた。
数日前から降り続いていた酸性雨が、ようやく上がった。 分厚い鉛色の雲が切れ、その隙間から蒼白い満月が顔を覗かせている。月光に洗われた摩天楼は、昼間の無機質な表情とは打って変わり、濡れたアスファルトが光を反射して、まるで巨大な宝石箱をひっくり返したかのように煌めいている。
「……向こう側のあの中に、いるんだな」
ジンは、光の海を見下ろして呟いた。 その声は、夜風に溶けて消え入りそうなほど頼りなかった。
先ほど、地下の作戦室でキリコ(九十九霧狐)が言っていた言葉が、脳裏から離れない。『千里眼』が見たという、もう一つの世界。 そこでは、久遠灯たちが、戦いとは無縁の平和な日常を送っているという。
すぐ近くなのに。 この夜景のどこかに、彼女たちの笑顔があるはずなのに。そこは、決して手が届かない場所だ。次元の壁という、ガラス一枚隔てた向こう側。
ジンは、自分の手を見つめた。 無骨で、傷だらけの手。 人を殴り、魔物を切り裂き、血に染まってきた手。平和な世界で生きる彼女たちの手は、きっとこんなに汚れてはいないだろう。
「……会いてえな」
本音が、不意に漏れた。強さに憧れ、背中を追いかけた10年。 あの日の廃寺で、絶望に震えていた自分を救ってくれた、圧倒的なヒーローたち。 記憶を失っている彼女たちに会って、何を言うつもりなのか、自分でも分からない。感謝の言葉か。 それとも、ただの自慢話か。 「あんたたちが守った世界で、俺たちはこんなに強くなったんだぜ」と。
「……感傷に浸るタイプじゃないでしょ?」
背後から、足音が近づいてきた。 振り返らなくてもわかる。10年間、背中を預け合ってきた相棒の気配。
キリコだ。彼女は、パーカーのポケットに手を突っ込み、少し猫背気味に歩いてきた。 その手には、二本の缶コーヒーが握られている。
「ほら」
キリコは、無造作に一本を放り投げた。ジンはそれを受け取り、プルタブを開ける。 カシュッ、という炭酸のような音が、静寂な屋上に響いた。 ブラックの苦味が、乾いた喉を潤す。
「……悪いな」
「別に。……眠れなかっただけよ」
キリコは、ジンの隣に並んでフェンスに寄りかかった。 夜風が、彼女の銀髪と、フードの下の狐耳を優しく揺らす。 彼女もまた、眼下の夜景を見つめていた。 その瞳には、ジンと同じ切なさと、それ以上の強い意志が宿っていた。
「……見えたのか? 向こうの世界」
ジンが問う。
「ええ。……はっきりとね」
キリコは、少し目を伏せた。
「みんな、笑ってたわ。……灯さんは探偵事務所でサボってて、響さんは女子高生やってて。……本当に、馬鹿みたいに平和で、幸せそうだった」
「……そっか」
ジンは、缶コーヒーを一口飲んだ。 胸の奥が、温かくなるような、それでいて締め付けられるような感覚。彼女たちが幸せなら、それでいいはずだ。 それこそが、彼女たちが命を懸けて勝ち取った報酬なのだから。それを壊す権利なんて、誰にもない。
「……怖い?」
キリコが、唐突に尋ねた。
「え?」
「アークステイツ連邦よ。……世界最強の軍事力と、最先端の科学力を持つ大国。そこへ、たった7人で喧嘩を売りに行くのよ? ……正気の沙汰じゃないわ」
アークステイツ。 海の向こうの巨人。 『ゴーストライン』のような化け物を飼い、世界中の技術を独占しようとする覇権国家。 その本拠地、地下要塞『エリア666』に潜入し、最重要人物を奪取する。失敗すれば、国際問題どころか、生きて帰ることさえ絶望的なミッションだ。
ジンは、空を見上げた。 月が、雲に隠れようとしている。暗闇が世界を包み込む。 だが、ジンの目は輝きを失っていなかった。
「……まさか」
ジンは、口元を吊り上げて笑った。 それは、強がりではない。 心の底から湧き上がる、昂揚感。
「ワクワクするじゃねえか」
ジンは、フェンスを握りしめた。 金属が軋む音がする。
「相手にとって不足なしだ。……世界最強? 上等だろ。俺たちは、その世界を救った英雄の意志を継ぐ者だ」
「……ふふっ」
キリコもまた、笑みをこぼした。
「そうね。……私たち、世界を敵に回そうとしてるのよ? ……最高に『マッド』で『ポップ』な展開じゃない」
運び屋風情が、国家に喧嘩を売る。 常識で考えれば自殺行為だ。だが、常識なんてクソ食らえだ。かつて灯たちがやったことと同じだ。 神だろうが、魔王だろうが、国家だろうが。 守りたいものの前では、全ての壁はただの通過点に過ぎない。
「……違いない」
ジンは、残りのコーヒーを一気に飲み干し、空き缶を片手で握りつぶした。 ベコッ、という音が、決意の固さを示す。
背中の筋肉が隆起し、ライダースの生地を通して、黒い翼の気配が膨れ上がる。 もう、迷いはない。
「行くぞ、キリコ。……最高のデリバリーだ」
ジンが振り返る。 そこには、屋上の入り口で待機していた仲間たちの姿があった。
チャーリー・Sが、ニヤリと笑って親指を立てる。ルカ・ノクスが、聖剣を抱いて深く頷く。 エミル・ノスフェラトゥが、静かな闘志を瞳に宿している。 李 小蓮が、待ちきれない様子で足踏みをしている。 沈 黒燼が、紫煙を吐き出しながら刀に手を掛ける。
全員が、同じ方向を向いている。 東の海を越えた、遥か彼方の大陸へ。
「ええ。……必ず届けるわ」
キリコもまた、夜空を見上げた。 その瞳には、すでに海の向こうの景色が映っているようだった。
「ドクター・ダイゴ。……そして、次元を超える翼。全部まとめて、この手に掴み取る」
風が吹いた。 雨上がりの湿った空気を吹き飛ばすような、強く、乾いた風。 それは、新しい冒険の始まりを告げる合図だった。
三日後。東帝都の郊外、地図に存在しない極秘飛行場。滑走路には、一機の漆黒の輸送機が待機していた。 常盤大統領が極秘裏に手配した、最新鋭のステルス輸送機。 その機体は、闇夜に溶け込むようなマットブラックで塗装され、鋭利な刃物のようなシルエットをしている。
「……準備はいいか?」
タラップの前で、ジンが全員に問いかける。
「うん! ……アメリカ観光、楽しみだね!」 シャオが元気に答える。
「……観光じゃないですよ、シャオちゃん」 ルカが苦笑する。
「フン。……退屈しないといいけど」 シェンが欠伸をする。
全員が乗り込むのを確認し、ジンとキリコもタラップを上がった。 ハッチが閉まる。 重厚な密閉音が、外界との隔絶を告げる。
「Take off(離陸)」
パイロットのアナウンスと共に、ジェットエンジンが咆哮を上げた。 凄まじいGが全身をシートに押し付ける。 機体は滑走を始め、そしてふわりと浮き上がった。
眼下には、東帝都の夜景が広がっている。 宝石を散りばめたような光の海。 その中にある、小さな事務所。 帰るべき場所。
(行ってきます)
キリコは心の中で呟いた。
(待っててください、灯さん。……必ず、会いに行きます)
機体は高度を上げ、雲を突き抜けた。 月明かりが、黒い機体を銀色に照らす。 目指すはアークステイツ連邦。摩天楼のゴーストと、狂気の科学者が待つ、鋼鉄の国へ。
物語は、次の舞台へと飛翔する。 次元の壁を越えるための、最後の鍵を求めて。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




