第二話「迷子の旋律と錆びたオルゴール」1
第一章 雨の訪問者
東帝都・不死川。 かつては物流とビジネスの中心地として栄華を誇ったこの街も、再開発の波に飲み込まれ、今や光と影が極端に分断された歪な迷宮と化していた。摩天楼が雲を突き刺すようにそびえ立つ表通りから一本裏に入れば、そこにはレトロな時代から時が止まったかのような、湿った路地裏が広がっている。
その谷底にある雑居ビルの一室、『黒狐便』の事務所を、冷たい雨が執拗に叩いていた。窓ガラスを流れる雨粒が、都市のネオンを滲ませ、世界を水槽の底のように変えている。室内の蛍光灯は寿命が近いのか、チカチカと不安定に明滅し、積み上げられた段ボール箱の影を揺らしていた。
「……ふあぁ」
キリコ(九十九霧狐)は、書類と空き缶が散乱するスチールデスクに突っ伏して、大きな欠伸をした。 彼女の銀髪からは、パーカーのフードの下に隠しきれない白い狐耳がピョコリと飛び出し、不満げに震えている。その耳は、雨音に混じって聞こえる遠くのサイレンや、上の階の住人の足音、そして相棒の呼吸音を、意志とは無関係に拾い続けていた。
「暇ねえ、ジン。……雨の日は、古傷が痛むわ」
キリコは気だるげに呟き、椅子の背もたれから垂れ下がったふさふさの尻尾を揺らした。 古傷。それは肉体的な痛みではない。10年前、「白紙の審判」の日に刻まれた、魂の欠落感だ。 雨が降ると、あの日の湿った空気と、助けてくれた「誰か」の温もりが蘇り、胸の奥がきりきりと痛むのだ。
「お前に古傷なんてねえだろ。……寝違えただけだ」
部屋の隅で、ジン(夜刃迅)が黙々と腹筋運動を続けていた。彼は上半身裸で、玉のような汗を流している。 引き締まった筋肉が収縮するたびに、その背中に刻まれた二つの大きな傷跡――普段は視認できないように術式で隠蔽された「黒い翼」の気配が、陽炎のように揺らめき、微かな質量を持って漂っている。彼もまた、雨の音に何かを感じているのか、その表情は険しい。
「冷たいこと言わないでよ。……ああ、退屈。世界が滅びるくらいの事件でも起きないかしら」
「縁起でもねえこと言うな。……平和が一番だろ」
ジンが起き上がり、タオルで汗を拭う。 その時、錆びついた鉄製のドアが、遠慮がちにノックされた。
コン、コン。
雨音にかき消されそうなほど小さな、しかし確かな意思を感じさせる音。
「……客か?」
ジンが動きを止める。 こんな雨の日の、こんな深夜に近い時間に、まともな客が来るとは思えない。 借金取りか、あるいは厄介ごとか。 ジンはライダースジャケットを羽織り、警戒心を露わにしてドアノブに手をかけた。
ギィィ……。
蝶番が悲鳴を上げ、ドアが開く。 そこに立っていたのは、予想外の人物だった。
ずぶ濡れになった、小柄な老婆だった。 時代遅れのモンペに、綻びた手編みのカーディガン。 白髪は雨で濡れて額に張り付き、その顔には深い皺が刻まれている。そして何より、その瞳は白濁し、焦点が定まっていなかった。認知症を患っていることは、一目でわかった。
「……いらっしゃいませ。黒狐便へようこそ」
キリコが、瞬時に営業用の笑みを浮かべて立ち上がり、パイプ椅子を勧める。 彼女の狐耳と尻尾は、すっと消えて見えなくなっていた。 人間社会に溶け込むための、最低限の擬態。
老婆――ウメは、おどおどと室内を見回し、そして震える手で懐から布包みを取り出した。大切そうに、壊れ物を扱うように。
「……これを、届けておくれ」
彼女の声は、枯れ木の枝が擦れるような、掠れた音だった。
「……荷物ですか?」
キリコが問うと、ウメは無言で布包みを開いた。中から出てきたのは、手のひらサイズのアンティーク・オルゴールだった。 かつては美しい装飾が施されていたであろう木箱。だが今は、その金属部分は赤く錆びつき、蓋の蝶番は壊れ、塗装は剥げ落ちていた。 どう見ても、ただのガラクタにしか見えない。ゴミ捨て場から拾ってきたと言われても信じてしまうだろう。
「宛先は?」
「ケンジ……私の、孫のケンジに」
ウメは、虚空を見つめながら繰り返した。 その視線は、目の前のキリコたちではなく、遠い過去、あるいは存在しない誰かを見ているようだった。
「あの子は……迷子になってしまったんだよ。……私が、叱ったから。……あの日、私が……」
彼女の言葉は断片的で、要領を得ない。「ケンジ」という名前と、「渡さなければならない」という焦燥感だけが、老いた肉体を突き動かしている。 記憶の糸が切れ、自分が誰で、ここがどこなのかさえ曖昧になっているのかもしれない。 それでも、このオルゴールを届けるという使命だけが、彼女を現世に繋ぎ止めている。
「……おいおい。壊れてるぜ、これ」
ジンがオルゴールを手に取り、検分した。 ゼンマイは固着して巻けず、シリンダーも錆びついて動かない。 振ってみても、カラカラと乾いた音がするだけだ。 機能的に死んでいる。
「こんなガラクタ届けて、どうすんだよ。……孫ってのも、どこにいるか分かってねえんだろ?」
ジンの言葉は冷たいが、それは老婆を傷つけないための彼なりの配慮でもあった。 叶わない希望を持たせることは、時として残酷な結果を招く。
だが、キリコは首を横に振った。
「いいえ。……中身は詰まっているわ」
キリコは、両手で独特な印を結んだ。人差し指と親指で輪を作り、それを重ね合わせる。古来より、異界を覗くために使われてきた呪術的な構え。
『千里眼(狐の窓)』。
キリコは片目をつぶり、指で作った小さな窓からオルゴールを覗き込んだ。
世界が一変する。 物理的な色彩が退き、情報の奔流が視界に飛び込んでくる。錆びついた金属の表面に、幾重にも重なった「想い」の層が見えた。
(……すごい)
それは、執念に近い残留思念だった。後悔。愛情。寂しさ。 そして、夕暮れの帰り道、温かい夕食の匂い、繋いだ手の感触。それらが、錆の層の下に、琥珀の中の虫のように鮮明に保存されている。
さらにその奥底に、奇妙なノイズが混じっているのをキリコは見た。それは、10年前のあの日――『白紙の審判』以前の記憶。 世界中が混乱し、多くのものが失われた大災害の最中でさえ、決して手放さなかった「孫との約束」。 この老婆の記憶は、認知症によって混濁しているようでいて、実は一番大切な核の部分だけは、あの日のまま風化せずに残っていたのだ。
「引き受けましょう、ウメさん」
キリコは、狐の窓を解き、オルゴールを大切に布で包み直した。 その瞳には、プロの運び屋としての誇りと、微かな哀愁が宿っていた。
「この音色、必ずお孫さんに届けます。……ウチは、絶対に紛失しませんから」
ウメを保護し、警察と福祉事務所に連絡した後、二人は捜索を開始した。 手掛かりは「ケンジ」という名前と、ウメの持つ微かな「血縁の匂い」だけ。 広大な東帝都で人一人を探すのは、砂漠で針を探すようなものだ。
だが、彼らには武器がある。
キリコが再び『千里眼』を発動する。 今度は、都市全体を俯瞰するように意識を拡大する。無数の情報の糸。 その中から、ウメの想いと繋がっている、細く、切れかかった糸を手繰り寄せる。
数分後。 キリコがカッと目を開いた。額に脂汗が滲んでいる。
「……見えたわ。場所は『第13居住区』」
「ゲッ。……吹き溜まりかよ」
ジンが嫌そうに顔をしかめる。第13居住区。 再開発の光が届かない、巨大な高架下のスラム街。社会からあぶれた半グレ、不法滞在の亜人、そして違法改造されたサイボーグたちがたむろする、治安の空白地帯だ。警察さえも介入を避ける、無法の掃き溜め。
「孫ってのは、そこで何してんだ?」
「……ろくなことじゃなさそうね。糸の色が濁ってる」
キリコは、パーカーを羽織り直した。 その表情は引き締まっている。
「ロクなことになってねえな」
ジンは、黒いライダースジャケットのジッパーを首元まで上げた。 その背中で、見えない翼が殺気を帯びて蠢く。荒事になる予感。 だが、依頼を受けた以上、届けるのが流儀だ。
「行くぞ、キリコ。……雨が強くなる前に片付ける」
二人は事務所を出て、地下駐車場に停めてあった愛車――大型バイクに跨った。 エンジンがかかり、重低音が地下に響く。 テールランプが赤い残像を残し、二人は雨の不死川へと滑り出した。
ターゲットは、闇の底。届け物は、錆びついた愛。銀狐と黒翼が、夜の街を疾走する。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




