第十三話「白き彼岸花」2
第二章 箱の中の海
ルシウス・クロウリーは、黒い灰と化した『黒胎』の残骸から視線を外し、祭壇のもう一方へ向き直った。そこには、キリコ(九十九霧狐)が命がけで運び、天帝・昊天から託された『漆塗りの小箱』が鎮座している。
黒漆の艶やかな表面に、金粉で描かれた繊細な蒔絵。一見すれば、国宝級の美術品に過ぎない。だが、この地下聖堂の凍てつくような空気の中で、その小箱だけが異質な熱量を帯びていた。まるで、箱そのものが一つの心臓であり、ドクン、ドクンと静かに脈打っているかのような錯覚。
「……鍵は、私か」
ルシウスは、右手に握りしめていた聖遺物『ゴルゴダ』の結晶片を、ゆっくりと小箱へ近づけた。 接触まで、あと数センチ。
キィィィィン……。
耳鳴りのような共鳴音が響いた。 聖遺物の白銀の輝きと、小箱から漏れ出す黄金のオーラが干渉し合い、火花のような光の粒子が舞い散る。鍵穴など存在しない。だが、互いの「因果」が噛み合い、不可視のロックが外れていく感触が、ルシウスの指先に伝わってきた。
「開けるぞ」
ルシウスが箱の縁に指をかけ、静かに持ち上げる。 抵抗はなく、蓋は吸い込まれるように音もなくスライドした。
カッ……。
中から溢れ出したのは、地下室の薄暗い照明を凌駕するほどの、透き通るような青白い燐光だった。それは、直視しても目を焼かない。深海の底から水面を見上げた時のような、優しく、そしてどこまでも深い光。
そこに収められていたのは、宝石でも、機械でも、古文書でもなかった。クッションとなるビロードの上に、ぽつんと一つ、硝子細工のように透き通る物体が置かれていた。 球根。 そしてそこから伸びる、繊細な茎と、蕾の状態にある花弁。
「……彼岸花?」
ルカ・ノクスが、吸い寄せられるように祭壇へ歩み寄り、呟いた。 彼女が知る彼岸花は、死を連想させる鮮血の赤だ。 だが、目の前にあるそれは、この世の何色にも染まっていない、無垢なる「白」だった。 花弁の一枚一枚が、光そのもので編まれているかのように、物質感を希薄にさせている。
『白彼岸花』。
「植物ではないですね」
シスター・ノアが、包帯で覆われた目のまま、その光を感じ取って言った。 彼女は、かつてH.L.O.H.の聖女として、数多の超常現象に触れてきた。その感覚が、この物体の正体を冷徹に分析する。
「これは……質量を持った『情報』です。……10年前のあの日、世界が書き換わる瞬間に発生した莫大な因果エネルギーが、奇跡的な確率で結晶化したもの……」
ノアは、見えない手で空気を撫でるように、箱の上空に手をかざした。
「聞こえます。……微細なノイズ。いいえ、これは『声』です。誰かの、切実な願いの残響」
「声……?」
キリコが狐耳をピクリと動かす。 確かに聞こえる。風の音のような、ラジオの周波数を合わせる時の砂嵐のような音。 その奥底に、聞き覚えのある、懐かしい声色が混じっている気がした。
「キリコ。……覗いてみてくれ」
ルシウスが、祭壇から一歩下がり、場所を譲った。 彼の碧眼は、期待と、それ以上の恐怖に揺れていた。 この箱の中身を見る資格があるのは、過去に縛られた自分ではなく、未来を見通す目を持つ者だけだと悟ったかのように。
「貴女の『眼』なら……この光の向こう側が見えるはずだ」
「……わかったわ」
キリコは、ゴクリと唾を飲み込んだ。心臓が早鐘を打っている。 この光を見ているだけで、魂が吸い込まれそうになる。 だが、拒否はできない。 これを見るために、ここまで走ってきたのだから。
キリコは両手を組み、独特な印を結んだ。 人差し指と親指で輪を作り、それを重ね合わせる。意識を研ぎ澄まし、脳のリミッターを外す。
『千里眼(狐の窓)』。
「……見せてみなさいよ。アンタの正体を」
彼女は片目をつぶり、指で作った小さな窓から、光り輝く球根の中心を覗き込んだ。
ヒュッ。
覗き込んだ瞬間、キリコの意識が肉体から剥がれ落ちた。 足元の床が消え、重力が逆転する。彼女は、光の渦の中へと真っ逆さまに落下していった。
視界が反転する。 物理的な距離を超え、時間の壁を超え、そして――この世界を構成する次元の壁さえも透過していく。
ノイズが走る。ザザッ……ザザザッ……。 色のないトンネルを抜けた先に、鮮やかな「色彩」が爆発した。
「……っ!?」
キリコは息を呑んだ。彼女の網膜に映し出されたのは、このミサイア共和国の白亜の街並みでも、皇国の古都でもなかった。
そこには、抜けるような「青空」が広がっていた。
東帝都のように見えたが鉛色の雲も、肌を焼く酸性雨もない。 澄み渡るブルーと、真っ白な入道雲。 太陽の光が優しく降り注ぎ、街路樹の緑が鮮やかに輝いている。空気は美味しく、風は穏やかだ。
「……なに、ここ」
キリコの知る東帝都とは、決定的に「匂い」が違っていた。 そこには、戦いの傷跡がない。 ビルを破壊した爪痕も、魔王城の影も、10年前の大災害の記念碑もない。 ただ、平和で、退屈で、どうしようもなく穏やかな日常が流れている。
視点が、カメラのレンズを切り替えるように移動する。
――新宿、雑居ビルの屋上。 『久遠探偵事務所』の看板。 雨漏りのするソファで、一人の女性が足を投げ出して座っていた。 銀色の長髪。気だるげな瞳。 口元には、安煙草「わかば」。
久遠 灯。
彼女は、M500も、真紅の翼も持っていなかった。ただの探偵として、浮気調査の報告書を面倒くさそうに眺め、あくびをしている。 その顔には、1000年の孤独も、世界を背負った重圧も刻まれていない。あるのは、平和ボケした、しかし幸福な倦怠感だけ。
――渋谷、スクランブル交差点。 女子高生たちの笑い声。 タピオカドリンク片手に、ショーウィンドウを覗き込む二人の少女。
辰巳 響と、美咲。
響の背中に龍の気配はなく、美咲の首に勾玉はない。 「テストやばくね?」「響ちゃん、また赤点?」 そんな、ありふれた会話。 響が美咲の肩を叩き、美咲が鈴のような声で笑う。そこには、捕食者と被捕食者の悲劇的な関係など微塵もない。 ただの、どこにでもいる親友同士。
――池袋、ライブハウス。 まばゆいスポットライト。 ステージの中央で、汗を煌めかせながら歌い踊る少女。地下アイドルグループのセンター、MIRUA(白雪美流愛)。 客席の最前列では、お揃いの法被を着た双子――アリアとカルアが、殺意の代わりにサイリウムを握りしめ、枯れるほどの声援を送っている。 「お姉様ーッ!!」「尊いですわーッ!!」 その空間は、純粋な熱狂と愛だけに満ちていた。
――秋葉原、大学病院。 白衣を翻し、廊下を闊歩する女性医師。 鉄鏡花。 すれ違う看護師たちが、憧れの眼差しで彼女を見送る。 彼女の腕は、無機質な義手ではなく、温かい生身の手だった。 その手は、誰かを傷つけるためではなく、救うためだけに使われている。
――歌舞伎町、コンカフェ『しゅがーぽいずん』。 「萌え萌えキュン♡」 フリルのエプロンドレスを着た少女が、オムライスに絵を描いている。天羽 祈。 彼女の瞳は、普通の黒目だった。オッドアイのコンプレックスも、出生の呪いもない。 客の笑顔に囲まれ、彼女自身も心からの笑顔を浮かべている。
誰も傷ついていない。誰も、世界の命運なんて背負っていない。 誰も、血の味を知らない。 ただの人間として、当たり前の、退屈で、かけがえのない幸せを享受している。
「……あ……」
キリコの喉から、震える声が漏れた。 それは、あまりに眩しく、そして残酷な光景だった。
「見える。……彼女たちが」
キリコは、現実世界へと意識を引き戻された。 地下室の冷たい空気が、汗ばんだ肌に張り付く。 彼女は膝から崩れ落ち、床に手をついた。 目から、止めどなく涙が溢れてくる。
「キリコ!?」
ジンが駆け寄り、彼女の体を支える。
「おい、どうした! 何が見えたんだ!?」
キリコは、ジンの腕を掴み、彼を見上げた。 その瞳は、見てはいけない楽園を見てしまった罪悪感と、どうしようもない安堵に揺れていた。
「……生きてる」
キリコの声が、地下室に響く。
「生きてるわ……。別の世界線で、幸せに……」
その言葉の意味を理解した瞬間。 ルシウスとノアが顔を見合わせ、そして痛ましげに目を伏せた。壁際で様子を伺っていたチャーリーが、苦い顔で手にしたウィスキーの小瓶をあおり、空になった瓶を握りつぶした。
彼らは悟ったのだ。10年前の「白紙の審判」の真実を。
世界はリセットされたのではない。 「戦いのない平和な世界」と、「戦いの傷跡が残るこの世界」に、分岐したのだと。そして、英雄たちは、その功績への報酬として、あるいは世界からの追放として、平和な世界へと送り出されたのだと。
「……そうか」
ルシウスが、呻くように呟いた。彼は祭壇の上の白い花を見つめた。
「これは……彼女たちが生きている証であり、同時に、我々との決別の証か」
硝子越しの日常。 絶対に交わることのない、二つの世界。 その境界線が、今、キリコの『千里眼』によって観測されてしまった。シュレーディンガーの箱が開かれ、残酷な幸福が確定したのだ。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




