第七話「洋上の蜃気楼」3
第三章 原罪の泥
意識が、暗い水底へと沈んでいく。 キリコ(九十九霧狐)の視界を埋め尽くすのは、10年前の雨と炎、そして天羽祈が流した血の赤色だった。 過去の罪悪感が、鎖となって手足を縛り、呼吸を奪う。 黎 雲閻の冷たい指先が喉元に食い込み、魂を啜り取ろうとしている。
(……ごめんなさい。……やっぱり私は、何も守れない……)
諦めが、甘い毒のように思考を麻痺させる。 このまま眠ってしまえば楽になれる。 もう、誰も傷つけなくて済む。
その時だった。
ドクン。
キリコの胸元で、何かが熱く脈打った。 それは、衣服の下に隠していた琥珀色の宝石。 京帝の師匠・葛葉から託された護符、『天帝の勾玉』。
中心に封入された昊天の血が、キリコの危機に呼応して黄金の輝きを放った。 その光は、単なる物理的な光ではない。「邪悪を祓い、迷える魂を正道へと導く」という、天帝の絶対的な権能そのもの。
「……ッ、はぁ!」
キリコが、弾かれたように目を見開いた。 金色の光が、彼女の脳髄を侵食していた黒い霧を、瞬く間に蒸発させていく。肺に空気が戻る。心臓が早鐘を打つ。幻覚の炎が消え、目の前には薄汚れた船室の天井と、驚愕に目を見開く雲閻の顔があった。
「な……!? 何だ、その光は……!」
雲閻が、焼かれたように手を引っ込める。 キリコは、荒い息を吐きながら、寝台から滑り降りた。膝が震える。だが、瞳には確かな理性の光が戻っていた。
天帝の加護が、精神汚染を浄化し、彼女の心を「今」へと引き戻したのだ。 過去の傷は消えない。罪悪感も残っている。 だが、今の彼女は、あの日の無力な子供ではない。 祈に救われ、師匠に鍛えられ、そしてジン(夜刃迅)という相棒と共に歩んできた、プロの「運び屋」だ。
「……人のトラウマを勝手に覗いて、三流映画みたいに上映するんじゃないわよ!」
キリコの怒号が響く。 彼女は両手を顔の前で交差させ、高速で印を結んだ。 白狐衆に伝わる、精神干渉を焼き払う退魔の秘儀。
「『狐火』・浄化ッ!!」
ボオォォォッ!!
キリコの全身から、青白い炎が噴き出した。 それは熱を持たない、霊的な炎。だが、雲閻の操る『黒魘』の霧にとっては、この上ない猛火となって襲いかかる。 部屋に充満していた悪夢の残滓が、次々と焼き払われ、霧散していく。
「なっ……!? 私の《黒魘》を!?」
雲閻が驚愕し、後退る。 彼の呪術は絶対のはずだった。トラウマを持たない人間などいない。 だが、彼女はそのトラウマごと、自分自身を肯定して炎に変えたのだ。
「隙ありっ!」
キリコは、その隙を見逃さず、スカートのスリットから隠し持っていた小型拳銃を抜いた。 装填されているのは、鉛玉ではない。 高純度の退魔の塩と、聖水を練り込んだ特殊弾。
ズドン!!
乾いた発砲音が狭い船室に反響する。
「ぐぉッ!?」
弾丸が、雲閻の左肩を貫いた。肉体的なダメージよりも、霊的な激痛が彼を襲う。 雲閻は苦悶の表情で舌打ちをし、自らの体を黒い霧へと変化させた。
「……憶えていろ、小娘!」
彼は床板の隙間へと染み込むようにして、床下へと逃亡した。 気配が遠ざかる。向かう先は、船の深層。
「逃がさない!」
キリコは部屋を飛び出した。彼女の『千里眼(狐の窓)』は、雲閻が向かった先――この船の「核」がある場所を、赤いラインで捉えていた。
第3貨物室。 これまで結界で閉ざされ、透視できなかった「開かずの間」。 そこに、全ての答えがある。
キリコが鉄階段を駆け下り、船底の貨物エリアへと辿り着いた時、そこには既に先客がいた。
甲板での戦闘を切り抜け、船内へ突入していたジンだ。 彼のライダースは切り裂かれ、肩から血を流しているが、その背中の黒い翼は鋭く尖り、殺気を放っている。
そして、彼と対峙するように立っている二つの影。肩を押さえる雲閻と、涼しい顔で佇む夜 華琳。
「キリコ! 無事か!」
「ええ。……それより、あれを見て」
四人の視線が、部屋の中央にある巨大なコンテナに注がれる。 厳重にロックされていたはずの扉が、戦闘の余波でひしゃげ、半開きになっていた。
「……なんだ、これ」
ジンが息を呑む。 コンテナの隙間から溢れ出していたのは、この世のものとは思えない、ドス黒く、そして生々しく脈打つ粘着質の「泥」だった。その泥からは、世界を滅ぼすような絶望の匂いが立ち昇っている。
「……ジン。これ、あの時の……」
キリコの声が震える。 彼女の脳裏に、以前の出来事が蘇る。 東帝都のドラゴンライン。アークステイツ軍と争奪戦を繰り広げた、トレーラーの積荷。あの時、カプセルから溢れ出し、アスファルトを溶かした「黒い泥」と全く同じものだ。
「ああ。……間違いない」
ジンが低く唸る。
「あの時、全部踏み潰したはずだったが……まだ残ってやがったか」
『黒胎』。
10年前、魔界の門が開いた際に世界各地へ飛散した、魔界の残滓。 アークステイツはこれを『黒い遺産』とも呼び、兵器転用を目論んでいた。 そして今、凰華共和国もまた、この危険物を手に入れようとしている。
「……ふふ。お気づきになりましたか」
華琳が、口元を広い袖で隠して笑った。
「そうよ。私たちの狙いは、その『黒胎』。……貴方たちの小箱は、ついでに頂こうと思っただけ」
「……ついでだァ?」
ジンが翼を広げ、臨戦態勢を取る。アークステイツの時と同じだ。 大国どもは、この世界の平和などどうでもいい。 ただ力を求め、禁断の果実を奪い合っている。
「こんなもん、持ち帰らせるわけにはいかねえな」
「ええ。……この泥は、世界を汚すわ。ここで止めなきゃいけない」
キリコも、胸元の勾玉を握りしめ、ジンの隣に並ぶ。 一触即発。狭い船底で、四人の殺気が交錯する。
だが、その時。
ボォォォォォ――ッ!!
腹の底に響くような、重低音が船全体を揺らした。汽笛の音だ。 それも、入港を告げる長い警笛。
「……ッ」
「……到着したようね」
華琳が、構えていた手を下ろし、武器を収めた。 彼女は、天井を見上げるようにして、不敵に微笑む。
「ここはもう、我々の領海……魔都・虹海の海域よ」
船のエンジンの音が変わり、減速の振動が伝わってくる。 入港の手続きが始まり、沿岸警備隊や港湾労働者たちが近づいてくる気配がする。 これ以上の戦闘は、第三者――特に、この虹海を実質的に支配する「四神」の介入を招くことになる。隠密行動を旨とする黒冠としても、それは避けたい事態だ。
「チッ……」
雲閻が、恨めしげにキリコを睨みつけた。彼はまだ、自分の術を破られた屈辱を忘れていない。
「勝負はお預けです。……獲物は、逃がしませんから」
彼は黒い霧となり、華琳の影に溶け込むようにして姿を消した。華琳もまた、優雅に一礼し、闇の中へと後退する。
「歓迎しますわ、運び屋さん。……魔都の夜は、長いですよ」
二人の気配が、完全に消滅した。 彼らは諦めたわけではない。 ホームグラウンドである虹海の街で、より確実に、より残酷な方法で襲ってくるつもりだ。
「……チッ。逃げられたか」
ジン(夜刃迅)が舌打ちをして、翼を背中へと収納する。緊張が解け、傷の痛みが戻ってくる。
目の前には、脈打つ『黒胎』のコンテナが残されたままだ。 これをどうするか。 放置すれば、必ず黒冠の手に渡り、悪用される。だが、自分たちだけで処理できる代物ではない。触れるだけで汚染されかねない危険物だ。
「……運びましょう」
キリコ(九十九霧狐)が、決意を込めて言った。 彼女は、コンテナの扉を閉め、厳重にロックを掛け直した。
「どこへ?」
「宛先変更よ。……この危険物を処理できる場所へ」
キリコは、船壁の向こう、虹海の方角を見据えた。
「この街には……伝説があるわ」
「伝説?」
「表社会の警察も、裏社会のマフィアも手出しできない、絶対的な守護者たちがいるって。……師匠(葛葉)が言っていたわ。『虹海には、大陸最強の四神が眠っている』って」
キリコは、震える手でコンテナに触れた。
「もしその噂が本当なら……。このバケモノじみた『泥』を抑え込めるのは、彼らしかいない」
賭けに近い判断だ。だが、このまま海上で抱え込んでいても、いずれ黒冠の増援に囲まれるか、泥に船ごと飲み込まれるのがオチだ。 ならば、毒を以て毒を制す。 この街の「主」に、厄介ごとを預けるしかない。
「……なるほどな。伝説の怪物に、怪物をぶつけるってか」
ジンがニヤリと笑った。 無謀だが、筋は通っている。
「まずは上陸よ。……忙しくなるわね、ジン」
「へっ。……退屈しなくていいこった」
船が、極彩色のネオンが輝く港へと滑り込んでいく。 東洋の魔窟、虹海。 怪しい光に彩られた摩天楼と、混沌としたスラムが同居する街。
新たな出会いと、さらなる激闘が待つ場所。 黒狐と黒翼の旅は、いよいよ大陸へと上陸する。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




