第七話「洋上の蜃気楼」2
第二章 黒き悪夢の顕現
「……御託はいい」
ジン(夜刃迅)は、短く吐き捨てると、背中の黒いライダースジャケットを内側から引き裂いた。筋肉が隆起し、漆黒の羽毛が空気を震わせる。
バサァッ!!
彼の背中から、巨大な黒い翼が爆発的に展開された。 それは鳥の柔らかさなど微塵も感じさせない。一枚一枚が研ぎ澄まされた刃のように鋭く、冷たい金属光沢を放っている。 かつて「黒翼の眷属」と呼ばれ、天使の座を追われた一族の末裔が持つ、罪と罰の象徴。
「邪魔するなら……斬るぞ」
『堕天の斬撃』。
ジンが甲板を蹴った。鋼鉄の羽根が擦れ合い、キィンという不快な高周波を奏でる。彼は重力を無視した軌道で加速し、弾丸となって夜 華琳へと突っ込んだ。
「ふふっ。……元気な殿方」
華琳は動じない。 彼女は優雅に背中を向け、大胆に開いたドレスの背中を、月のない夜空へと晒した。そこに刻まれた「影紋」が、ドクンと脈打ち、紫色の光を放つ。
「出でよ、我が影――《黒紋召魔》」
彼女の足元から伸びる影が、タールのように膨れ上がり、一瞬にして立体化した。現れたのは、影で構成された巨大な魔獣。狼のようであり、虎のようでもあり、そして何よりもおぞましい不定形の怪物。
ガアアアアッ!!
影獣が咆哮し、巨大な爪を振るう。 ジンの翼と、影の爪が激突した。
ズドォォォォン!!
衝撃波がコンテナを吹き飛ばし、鉄板を飴細工のようにひしゃげさせる。火花が散り、海面が白く波打つ。
「くっ……! 質量があるのか!?」
ジンが舌打ちをする。影でありながら、物理的な攻撃力を持ち、さらに液状化してジンの斬撃を受け流す。 翼の刃が影を切り裂いても、すぐに再生し、絡みついてくる。 物理法則を無視した、厄介な相手だ。
「さあ、踊りましょう? ……月が出るまで、たっぷりと」
華琳は、コンテナの上で優雅に指揮を執る。 彼女の指先の動きに合わせて、影獣は変幻自在に形を変え、ジンを四方八方から追い詰めていく。
一方、船底の狭い船室。 甲板からの衝撃音が響く中、キリコ(九十九霧狐)は立ち上がった。
「……ジンが始めたわね」
加勢に行こうとドアノブに手をかけた、その瞬間だった。 世界が歪んだ。
視界が、テレビの砂嵐のようにざらつく。錆びついた鉄の壁が、ドロドロと溶け出し、黒い霧となってキリコを取り囲む。 上下感覚がなくなり、重力が狂う。足元の床が抜け、底なしの沼へと沈んでいく感覚。
「……ッ、幻術?」
キリコは冷静に両手で印を結び、『千里眼(狐の窓)』で術の構成を見破ろうとする。幻覚ならば、その核となる「術式」があるはずだ。それを見つけ出し、破壊すればいい。
だが、指で作った窓の向こうに見えたのは、術者の姿ではなかった。
彼女が最も恐れ、心の奥底に蓋をしてきた、決して忘れることのできない過去の光景だった。
ザザッ……ザザザッ……。
雨の音。冷たく、肌を打つ、酸性雨の音。鉄と油の臭いが消え、代わりに漂ってきたのは、腐った木材と、焦げた畳の臭い。
「……ここ、は」
キリコが目を見開く。 そこは、船室ではなかった。
10年前。東帝都・浅修羅。 路地裏の奥深くに忘れ去られたように佇む、朽ちかけた廃寺。 雨漏りする本堂の中で、幼いキリコとジンが、身を寄せ合って震えていたあの夜。
『殺せ! 異端を逃がすな!』
『穢れた血を根絶やしにしろ!』
外からは、怒号と足音が近づいてくる。 「混血狩り」を行う天使と悪魔の軍勢。 純血種たちが、自分たちのような「半端者」を殺すために包囲網を敷いている。
「嫌だ……。来ないで……!」
キリコの口から、幼い頃の自分の声が漏れる。 恐怖で足が動かない。隠れる場所もない。殺される。ここで、終わる。
その時。一人の少女が、キリコたちの前に立ちはだかった。
ボロボロのエプロンドレスを着た、オッドアイの少女。天羽 祈。
『……大丈夫。私が守るから』
祈は、震える手で杖を構え、たった一人で軍勢に立ち向かった。 彼女の背中から、光と闇が混じり合った「灰色の翼」が噴き出す。
だが、現実は残酷だった。 数で勝る敵の猛攻。祈の結界が砕かれ、光の矢と闇の炎が、彼女の華奢な体を貫く。
ドスッ!
「あ……ぅ……」
祈が血を吐いて膝をつく。 それでも彼女は、倒れなかった。 背後にいるキリコたちを守るために、自らを盾にして立ち続ける。
『逃げて……! 早く……!』
祈の叫び。 飛び散る鮮血が、キリコの頬にかかる。熱い。痛いほどに熱い、命の温度。
「……あ、あぁ……」
現在のキリコが、その場に崩れ落ちた。 これは幻覚だ。わかっている。 あの日、実際には灯たちが駆けつけ、祈は助かった。 だが、この光景は、キリコの心に刻まれた「もしも」の恐怖であり、消えない罪悪感そのものだった。
私が弱かったから。 私たちが足手まといだったから。 あの人は傷ついた。血を流した。 もし私に力があれば。もし私が戦えれば。
『……そうだ。全てお前のせいだ』
霧の中から、陰湿で、粘着質な男の声が響いた。黒い人民服を着た、細目の男。 凰華共和国・国家治安局「黒冠」の尋問官、黎 雲閻。
彼は、燃え盛る廃寺の幻影の中を、幽霊のように歩いてくる。 その手には、呪符が握られている。
「お初にお目にかかります、白狐のお嬢さん。……いい傷をお持ちですね」
雲閻は、霧の中で嗤った。 彼の固有能力《黒魘》。相手の深層心理にあるトラウマを読み取り、物理的な質量を持つ「悪夢」として現実に染み出させる呪術。心の傷をこじ開け、そこから精神力を吸い尽くす、最悪の拷問。
『お前が弱かったから、あの人は傷ついた。……お前が生き残ったから、世界の均衡は崩れた』
雲閻の言葉と共に、幻影の炎がキリコの肌を焼く。 ジジジッ……! 幻ではない。実際に熱を感じ、皮膚がただれ、焦げる臭いがする。 精神的なダメージが、肉体へのフィードバックとして現れているのだ。
「……くっ、ぅ……!」
キリコは喉を押さえて悶える。 呼吸ができない。 祈の流した血の赤色が、視界を埋め尽くしていく。
『お前は無力だ。10年前も、今も。……ただ守られるだけの、寄生虫だ』
「ちが……う……。私は……」
『違わないさ。お前がここで倒れれば、外で戦っている相棒も死ぬ。……また、お前のせいで誰かが死ぬんだ』
「やめ……ろ……!」
『認めろ。お前には何も守れない』
雲閻が、霧の中から実体化し、キリコの喉元に冷たい指を這わせた。その指先から、絶望が注入される。 生きる気力を奪い、廃人へと変えるための呪い。
「素晴らしい絶望だ。……その恐怖こそが、我が糧となる」
雲閻の指が、キリコの首を絞め上げる。
「……終わりだ、白狐の末裔よ。……お前の魂は、ここで砕け散る」
キリコの意識が、暗闇へと沈んでいく。10年前の雨音だけが、遠くで響いていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




