第七話「洋上の蜃気楼」1
第一章 錆びついた揺り籠
東皇海。 皇国とユーガリア大陸を隔てる広大な海域は、今日も今日とて鉛色の波が重苦しくうねり、空と海との境界線を曖昧なグレーに溶かしていた。太陽の慈悲すら届かない厚い雲の下、一隻の貨物船が黒い排煙を吐き出しながら、波を切り裂いて進んでいた。
船体に書かれた船名は塗装が剥げて判読不能。甲板には無造作に、そして過積載気味に積み上げられたコンテナの山。 それは、正規の航路図には存在しない、裏社会の動脈を流れる汚れた赤血球の一つ――密輸船だった。
船底に近い、狭い船室。 エンジンの重低音が絶え間なく響き、錆びついた配管からは油混じりの水滴が滲み出している。鉄とカビ、そして染み付いた魚の生臭さが充満するその部屋は、人間が過ごす場所というよりは、貨物の一部として扱われるための保管庫に近かった。
「……最悪の乗り心地ね」
簡易ベッドに突っ伏したまま、キリコ(九十九霧狐)が呻いた。彼女の顔色は、シーツのように蒼白だ。自慢の銀髪も湿気でぺたりと頬に張り付き、いつもならピンと立っているパーカーの下の狐耳も、今は力なく垂れ下がっている。 五感の鋭い妖狐の末裔にとって、この船が発する不協和音と悪臭は、終わりのない拷問に等しかった。
「文句言うなよ。……大統領が用意してくれた、最短ルートだぞ」
床であぐらをかき、愛用のサバイバルナイフを手入れしていたジン(夜刃迅)が、呆れたように、けれどどこか気遣わしげに声をかけた。黒いライダースジャケットを脱ぎ、タンクトップ姿になった彼の背中には、目に見えない黒い翼が畳まれている。 この狭所での圧迫感に、翼が窮屈そうに疼くのを、彼は意思の力で抑え込んでいた。 彼にとっても、ここは快適とは程遠い。だが、相棒の前では弱音を吐かないのが彼の流儀だ。
「わかってるわよ……。でも、臭うの」
キリコが、のそりと身を起こした。 気怠げな動作で前髪をかき上げる。その瞳は、船酔いによる虚ろさの中に、鋭利な警戒の色を宿していた。
「臭う? ……ああ、油と魚の腐った臭いだろ。我慢しろ」
「違うわよ、バカ」
キリコは鼻をひくつかせた。彼女が感じているのは、物理的な嗅覚ではない。もっと深い、霊的な感覚器官が捉えた違和感だ。
「この船……ただの密輸船じゃないわ。もっと、ドロドロした……『死』と『呪い』の匂いがする」
「……あァ?」
ジンが手を止める。 キリコの勘が外れたことはない。彼女が「臭う」と言う時、そこには必ず致命的な何かが潜んでいる。
「船酔いじゃないわ。……私の『眼』が、警告してる」
キリコが懐に手をやると、そこには二つの荷物があった。一つは、天帝・昊天から預かった「漆塗りの小箱」。そしてもう一つは、首から下げた「天帝の勾玉」。衣服越しにも分かるほど、琥珀色の勾玉が微かに熱を帯び、ドクン、ドクンと不規則に脈打っている。それは、近くに強力な邪悪が存在することへの、サイレンのような警告だった。
「……なるほどな。ただの船旅じゃ終わらせてくれねえってか」
ジンが立ち上がり、ライダースのジッパーを上げた。 ナイフを腰に収め、瞳孔を猛禽類のように鋭く細める。
「俺が見てくる。キリコはここで荷物を守ってろ」
「気をつけて、ジン。……さっきから『千里眼』で船内を透視しようとしてるんだけど、船底の一部だけが見えないの」
出航してから数時間。キリコは暇つぶしも兼ねて船内をスキャンしていたが、船の最深部、第3貨物室のあたりだけが、まるでブラックホールのように黒く塗りつぶされていたのだ。高密度の結界。あるいは、視界を飲み込むほどの高質量の魔力。 ただの密輸品を守るにしては、厳重すぎる。
「了解。……ヤバそうなら、すぐにトンズラするさ」
ジンは部屋を出た。 錆びついた鉄の廊下。 エンジンの振動が足裏に伝わってくる。通路を行き交う船員たちは皆、帽子を目深に被り、無言で作業を続けていた。 ジンがすれ違いざまに肩を叩いても、彼らは反応すらしなかった。視線が合わない。呼吸のリズムが一定すぎる。その足取りは機械的で、まるで糸で吊られた人形のようだった。
(……生気がねえ)
ジンは確信した。 この船の乗員は、すでに「中身」がない。何者かの術式によって意識を乗っ取られ、操られている操り人形だ。 この船は、既に「乗っ取られている」。
ジンは鉄階段を駆け上がり、甲板に出た。 冷たい海風が頬を打つ。 月明かりすらない曇天の下、積み上げられたコンテナの影が、迷路のように伸びている。 波の音が轟く中、ふと、それとは異なる音が耳に届いた。衣擦れの音。 そして、甘い香の匂い。
「……お待ちしておりました、黒翼の運び屋」
コンテナの上から、鈴を転がすような、涼やかで妖艶な声が降ってきた。ジンがハッとして見上げると、そこには一人の少女が立っていた。
夜の闇に溶け込むような、濡れた漆黒の長髪。 黄金色に怪しく輝く瞳は、猫のようにしなやかで、残酷な光を帯びている。 深くスリットの入った黒いチャイナドレスから、白磁のような美脚を大胆に覗かせていた。 その美貌は、息を呑むほどに整っている。十代後半に見えるが、その纏う空気は数百年を生きた魔女のように濃密だ。
そして何より異様なのは、彼女の背中だった。 ドレスの背中が大きく開いており、その肌には、生地越しにもわかるほど禍々しい紋様――「影紋」が刻まれていた。 紋様は生き物のように蠢き、ぼんやりと紫色の光を放っている。
夜 華琳。凰華共和国・国家治安局「黒冠」所属の特級道士。
「……誰だ、テメェ」
ジンが低く唸り、ナイフを構える。 少女からは、人間離れしたプレッシャーが放たれていた。 それは、以前戦ったアークステイツのサイボーグ兵たちとは違う、もっと根源的で、生理的な嫌悪感を催す「魔」の気配。東洋の呪術の粋を集めた、生ける兵器の匂い。
「名は華琳。……以後、お見知り置きを」
彼女は、コンテナの上で優雅に一礼した。 その動作一つひとつが、舞踊のように洗練されている。
「貴方たちが持っている『小箱』……そして、この船の積荷。全て回収させていただきます」
彼女は微笑んだ。 だが、その笑顔は友好的なものではない。 捕食者が、網にかかった獲物を見る時の、慈悲深き残酷さ。
「積荷だァ? ……俺たちが運んでるのは小箱だけだ。……人の荷物に手ェ出すんじゃねえよ」
「あら。……ご存じないの?」
華琳は、くすりと笑った。 その笑い声が、夜の海に溶けていく。
「貴方たち、自分が何を運ばされているのか、その足元の船底に何があるのか……何も知らずに乗っているのね」
華琳は、足元のコンテナをヒールでコツコツと叩いた。その音は、船底に眠る「何か」を目覚めさせるノックのように、重く、深く響いた。
「この船には……世界を滅ぼしかねない『種』が眠っているのですよ」
彼女の黄金の瞳が、細められた。 そこには、一国を背負うエージェントとしての冷徹さと、未知の力を前にした享楽的な色が混じり合っていた。
「さあ、渡していただきましょうか。……痛い目を見る前に」
華琳の背中の「影紋」が、強く発光した。 彼女の影が、タールのように膨れ上がり、実体を持って鎌首をもたげる。交渉の時間は終わりだ。 夜の海上で、運び屋と道士の殺し合いが始まろうとしていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




