第四話「透明な雨音とインクの染み」3
第三章 魂の口寄せ
フッ……。
キリコの身体から力が抜けた。糸の切れた操り人形のように、彼女の膝がガクンと折れる。だが、倒れる寸前で踏みとどまったその立ち姿は、先ほどまでの彼女のものとは決定的に異なっていた。
銀色の髪が、見えない風に揺れる。 閉じていた瞳がゆっくりと開かれる。 その瞳孔の奥に宿っていた、冷徹な運び屋の光は消え失せている。代わりにそこに在ったのは、困ったように眉を下げ、愛おしさと切なさを湛えた、青年の眼差しだった。
『……サヤカ』
キリコの口から、紡がれた声。 声帯はキリコのものだ。高い、少女の声。 だが、その抑揚、間の取り方、息遣い。すべてが、サヤカが何年も聞き続け、愛してきた男のものだった。
サヤカが、弾かれたように顔を上げる。 涙で濡れた瞳が、目の前の銀髪の女性を見つめる。 知らない人。怪しい業者。 頭ではそう分かっているはずなのに、心が、魂が、震えるほどに叫んでいた。 「彼だ」と。
「カズキ……? カズキ、なの……?」
震える手が、虚空を彷徨うように伸ばされる。 キリコは、その手をそっと握り返した。今度は、すり抜けない。生身の肉体が持つ、確かな体温と質量。
『ああ。……ごめんな、遅くなって』
キリコは、不器用に、しかし力強くサヤカを引き寄せた。抱擁。雨に濡れた服が触れ合い、冷たさと温かさが混じり合う。
「う、あぁぁ……! カズキ、カズキぃ……!」
サヤカの感情が決壊した。 彼女はキリコの胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。 ずっと聞きたかった鼓動。 ずっと触れたかった温度。もう二度と手に入らないと思っていたものが、今、奇跡のようにここにある。
『誕生日、おめでとう。……プレゼント、気に入ってくれたか?』
カズキは、サヤカの背中を優しく撫でた。 その手つきは、彼が生前、彼女を慰める時にいつもしていた癖そのものだった。
サヤカの手には、封筒と一緒に渡された、泥と血で汚れた小さな箱が握られていた。中には、誕生石のネックレスが入っている。 彼が最期まで守り抜いた、愛の証。
「うん、うん……! 嬉しい、嬉しいよぉ……!」
『よかった。……これからは、もう俺がいなくても、ちゃんと笑うんだぞ』
「嫌だ! いなくならないで! ずっと一緒だって……!」
サヤカが、縋り付くように腕に力を込める。このまま離さなければ、彼はどこへも行かないのではないか。 そんな叶わない願いを込めて。
『ごめん。……約束、守れなくて』
カズキの声が震える。 彼にとっても、これは残酷な奇跡だ。触れ合えば触れ合うほど、別れの時が辛くなる。 自分がもうこの世の住人ではないことを、残酷なまでに突きつけられる。
だが、それでも。 伝えたかった。インクの染みた手紙だけでは伝えきれない、「愛してる」という言葉の温度を。
二人は雨音の中で、最初で最後の、魂の会話を交わした。思い出話。些細な喧嘩の謝罪。 そして、未来への願い。時間は、残酷なほどに早く過ぎ去っていく。三分間という砂時計の砂が、最後のひと粒まで落ちようとしていた。
『……そろそろ、時間だ』
キリコの身体が、微かに発光し始めた。 憑依の限界。 生者の器が、死者の魂を拒絶し始めている。
「嫌……行かないで……!」
『泣くなよ、サヤカ。……お前の笑顔が、俺は一番好きなんだ』
カズキは、サヤカの涙を親指で拭った。その指先が、光の粒子となって崩れ始める。
『幸せになれよ。……俺の分まで』
最期のキス。 唇が触れ合った瞬間、キリコの身体から力が抜けた。
フワッ……。
光の粒子が、キリコの背中から抜け出し、天井をすり抜けて夜空へと昇っていく。 カズキの霊体は、もう未練に縛られた地縛霊の姿ではなかった。 満足げに微笑み、光の中に溶けていく、清らかな魂。
「カズキぃぃぃッ!!」
サヤカの絶叫が、アパートの廊下に木霊する。 キリコは、膝から崩れ落ちそうになるのを、ジンに支えられて踏みとどまった。 激しい眩暈と、吐き気。 他人の人生を背負い、その感情の奔流を受け止めた反動が、精神を削り取っている。
「……終わったか」
ジンが、短く問う。 キリコは、荒い息を吐きながら頷いた。
「ええ。……配達完了よ」
サヤカは、床に座り込み、胸に抱いたネックレスの箱と手紙を見つめていた。 もう泣いてはいなかった。その瞳には、深い悲しみと共に、前を向こうとする微かな意志の光が宿っていた。ちゃんと、さよならが言えたから。 愛されていた証拠を、その身に刻み込めたから。
「……ありがとう。黒狐便さん」
サヤカは、深々と頭を下げた。
「貴方たちのおかげで……私は、明日も生きていけます」
「礼には及ばないわ。……仕事だもの」
キリコは、パーカーのフードを被り直し、努めてクールに振る舞った。 だが、その目尻は少し赤かった。 彼女の中にも、カズキの感情の残滓――サヤカへの愛おしさが、温かく残っていた。
雨が上がった。 分厚い雲が切れ、隙間から満月が顔を出す。濡れたアスファルトが月光を反射し、世界を銀色に染め上げていく。
キリコは、フラつく足でジンのバイクに戻った。ヘルメットを被る手が、まだ少し震えている。
「……お節介な狐だ」
ジンが、呆れたように、しかし優しく言った。霊媒などというリスクの高い手段を使わなくても、荷物は届けられたはずだ。 だが、彼女はそれを選んだ。 「想い」を届けるのが、黒狐便の流儀だから。
「うるさいわね。……オプション料金、ふんだくってやるわ」
キリコは強がったが、その横顔は少し寂しげで、そして誇らしげだった。形のない荷物を運ぶ仕事。 それは時に、自分たちの心をも削り取る。だが、届けた先に生まれる「何か」がある限り、彼らは走り続ける。 その「何か」が、かつて自分たちを救ってくれた英雄たちの背中に、少しでも近づくための道標だと信じて。
「帰ろう、ジン。……ラーメン食べたい」
キリコが、ジンの背中に頭を預けた。憑依の疲労で、お腹と背中がくっつきそうだ。
「へいへい。……チャーシュー増しでな」
「大盛り。……ニンニクも入れて」
「色気がねえな」
ジンが苦笑し、エンジンを吹かす。 爆音が、湿った夜の空気を震わせる。
銀狐と黒翼。 二人は、雨上がりの街を疾走する。テールランプの赤い光が、濡れた路面に長い尾を引き、闇の中へと消えていく。
次の依頼が、また彼らを待っている。 誰かの想いを、誰かに届けるために。彼らの夜は、まだ終わらない。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




