第四話「透明な雨音とインクの染み」2
第二章 透明な壁
事務所を飛び出したバイクは、雨に煙るドラゴンラインを降り、住宅街へと滑り込んだ。 カッパを着た通行人が足早に行き交う中、ジン(夜刃迅)は濡れたアスファルトにタイヤを食い込ませながら、迷路のような路地を慎重に進んでいく。
「……こっちよ。右の角を曲がって、三軒目のアパート」
タンデムシートのキリコ(九十九霧狐)が、耳元で囁く。 彼女の『千里眼』は、封筒に残されたわずかな念を道標に、正確な位置を割り出していた。
到着したのは、築年数の古そうな木造アパートだった。『メゾン・ド・フルール』という剥げかけた看板。雨樋から溢れた水が、錆びた手すりを伝ってコンクリートの土間に落ち、ピチャピチャと寂しい音を立てている。
「……あそこだ」
キリコが指差した先。 二階の角部屋。 カーテンの隙間から、温かなオレンジ色の光が漏れていた。
バイクを降り、雨宿りをするように軒下へ入る。 ふと見上げると、宙に浮いたカズキの霊体が、切なげな表情でその窓を見つめていた。
「サヤカ……」
カズキは、重力を無視してふわりと浮き上がり、二階の窓辺へと近づいた。 ガラス越しに見える室内。そこには、一人の女性がいた。
サヤカ。 長い髪を後ろで束ね、少し疲れたような顔をした女性。彼女は、小さな丸テーブルの前に座り、じっと炎を見つめていた。テーブルの上には、ショートケーキが一つ。そして、その上に立てられた「22」の数字の形をしたロウソクが、ゆらゆらと燃えている。
対面の椅子は、空席だった。二人分の皿とフォークが用意されているが、片方は手つかずのままだ。
「……待ってるんだ」
ジンが、ヘルメットを脱ぎながら低く呟いた。警察からの連絡はまだなのだろうか。それとも、信じたくなくて、奇跡を待っているのだろうか。 彼女は、帰ってくるはずのない恋人を、一人で待ち続けていた。 雨音に紛れて聞こえるはずのない足音を探しながら。
「サヤカ……! 俺は、ここにいるよ!」
カズキが叫び、窓ガラスに手を伸ばした。 その指先が、ガラスの表面に触れる。
だが。
スルッ。
彼の手は、何の手応えもなくガラスをすり抜け、室内の空気を掻いただけだった。叩くことも、震わせることもできない。物理的な干渉力の欠如。彼の声は雨音にかき消され、その姿は彼女の瞳には映らない。
サヤカがふと顔を上げ、窓の方を見た。 カズキと目が合った――ように見えた。 だが、彼女の瞳はカズキを通り越し、ただ雨に濡れる夜の街を見つめているだけだった。
「……う、あ……」
カズキが、絶望に顔を歪める。 目の前にいるのに。 手を伸ばせば届く距離なのに。そこには、生と死を隔てる、分厚くて透明な壁が立ちはだかっていた。 世界が違うのだ。 雨音が、その残酷な事実を冷たく告げている。
「……残酷なもんだな」
ジンが吐き捨てるように言った。彼は、背中の翼が疼くのを感じた。理不尽な死。残された者の痛み。それは、彼自身がかつて味わった苦味と同じだ。
キリコは、千里眼でカズキの記憶をより深く読み取った。数日前。彼女へのプレゼント――誕生石のネックレスを買った帰り道。 幸せな未来を夢見て、横断歩道を渡っていた瞬間。 信号無視のトラック。 ブレーキ音。衝撃。 そして、暗転。
即死だった。 彼は、自分が死んだ瞬間さえ認識できず、ただ「サヤカに会いたい」「渡さなきゃいけない」という一心だけで、魂の残滓となって現世に留まっていたのだ。
「……入るわよ」
キリコは、パーカーのフードを目深に被り直した。 感情を殺し、ただの「運び屋」としての顔を作る。 同情は、時に仕事を鈍らせる。
彼女は階段を上がり、205号室のインターホンを押した。
ピンポーン。
長い沈黙の後、ドアチェーンがかかったまま、扉が数センチだけ開いた。
「……はい?」
隙間から覗くサヤカの目は、赤く腫れ上がっていた。 声は枯れ、憔悴しきっている。 おそらく、警察からの連絡は既に受けていたのだろう。 死体確認に向かう前の、最後の現実逃避だったのかもしれない。
「……『黒狐便』です」
キリコは、ドアの隙間から身分証を見せた。怪しい者ではないと示すための、最低限の礼儀。
「カズキ様から、お届け物です」
「……え?」
サヤカの動きが止まった。 カズキ。 その名前を聞いた瞬間、彼女の瞳に光が戻った。チェーンが外され、ドアが大きく開く。
「カズキから……ですか? あの、彼は……彼は今どこに!?」
すがるような視線。 「生きているかもしれない」という、縋るような希望。 だが、キリコはその希望を肯定することはできなかった。 彼女ができるのは、ただ真実を届けることだけ。
「……申し訳ありません。ご本人は、来られません」
キリコは、懐から封筒を取り出し、両手で差し出した。泥と血の汚れを拭い取った、パステルカラーの封筒。
サヤカは目を見開き、震える手でそれを受け取った。見慣れた筆跡。 彼が選んだ便箋。
「……あ……」
彼女は、その場で封を開けた。中に入っていたのは、飛び出す仕掛けのついたバースデーカードと、便箋が一枚。そこには、震えるような文字で、愛の言葉が綴られていた。
『サヤカへ。誕生日おめでとう』
『いつも支えてくれてありがとう。サヤカの笑顔を見るたびに、俺は幸せ者だって思うよ』
『これからも、ずっと一緒にいよう。来年も、再来年も、お婆ちゃんになっても、こうやって祝わせてほしい』
『愛してる』
それは、未来への約束だった。今となっては、永遠に叶うことのない、嘘になってしまった約束。
「う、ぁ……あぁぁ……ッ!」
サヤカの喉から、声にならない嗚咽が漏れた。 彼女はその場に泣き崩れ、手紙を胸に抱きしめた。インクの文字が、涙で滲んでいく。
「嘘よ……嘘よ……! ずっと一緒だって……言ったじゃない……!」
彼女の悲鳴が、狭い廊下に響き渡る。 カズキの霊体は、彼女の足元に跪き、震える肩を抱こうとした。
「サヤカ……! ごめん……ごめんな……!」
だが、やはり触れることはできない。 彼の手は虚しく空を切り、彼女の涙を拭うことさえできない。 伝えたい言葉は山ほどあるのに、声は風音に混じって消えてしまう。
「俺は……俺はここにいるのに……! なんで……なんで気づいてくれないんだよぉッ!」
カズキが絶叫する。 その姿が、ノイズのように激しく明滅し始めた。霊体の輪郭が崩れ、黒い霧のようなものが滲み出す。
「マズいな」
ジンが、一歩前に出た。
「悲しみと後悔が強すぎる。……このままじゃ、自分を見失って悪霊化しちまうぞ」
未練は鎖だ。強すぎる想いは、時として魂を現世に縛り付け、怨念へと変質させる。このままでは、彼はサヤカを祟る悪霊になりかねない。
「……じれったいわね」
キリコが、舌打ちをした。彼女はパーカーを脱ぎ捨て、銀色の髪を振り乱した。その頭頂部で、狐耳がピンと立つ。 彼女の瞳が、金色に輝き始めた。
「ジン。……結界を張って」
「おい、まさか……やる気か?」
「ええ。……追加料金、たっぷり頂くわよ」
キリコは、崩れ落ちているサヤカと、暴走しかけているカズキの間に割って入った。
「貸してあげるわ」
キリコは、カズキの霊体に向かって言った。
「私の体。……霊媒としての器」
「え……?」
カズキの動きが止まる。
「アンタの言葉、私が代わりに伝えてあげる。……いえ、アンタ自身が伝えなさい」
古来より、白狐衆は神や霊をその身に降ろす「依り代」としての役割を担ってきた。 だが、それは術者の精神を削り、魂を摩耗させる危険な行為だ。 他人の人生と感情を、ダイレクトに受け止めることになるのだから。
「時間は三分。……それ以上は、私が保たない」
キリコは印を結び、カズキの手を――触れられないはずの手を、ガシリと掴んだ。
「入りなさい! ……最後のデートよ!」
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




