第四話「透明な雨音とインクの染み」1
第一章 六月の水槽
東帝都は、三日続きの長雨に沈んでいた。鉛色の雲が摩天楼の頂を隠し、降り止まぬ酸性雨が都市の輪郭をぼやけさせている。 不死川のオフィス街は、灰色のカーテンとガラス張りのビル群に閉ざされ、まるで巨大な水槽の底のような、重苦しい息苦しさを孕んでいた。
路地裏にある古い雑居ビル。元は小さな倉庫だったその3階、『黒狐便』の事務所内もまた、飽和した湿気に支配されていた。コンクリート打ちっぱなしの壁に貼られた依頼書が湿気を吸ってしなり、鉄製の棚からは微かな錆の匂いが漂う。
「……カビが生えそう」
キリコ(九十九霧狐)は、窓ガラスを伝う雨の滴を指先でなぞりながら、深い溜息をついた。 彼女の自慢の銀髪も湿気を含んで重たげに垂れ下がり、パーカーのフードの下にある狐耳は、不快そうにペタンと寝てしまっている。尻尾も力なく椅子から垂れ下がり、時折ピクリと痙攣するだけだ。
「湿気は毛並みに悪いのよ。……ねえ、ジン。聞いてる?」
部屋の奥、一段高くなったガレージスペース。 そこでジン(夜刃迅)は、無言のまま作業に没頭していた。愛車である大型バイク『黒狐号』のメンテナンスだ。 このビルには大型の業務用エレベーターがあり、ジンは「外に置いておくと酸性雨で痛む」と言い張って、毎回バイクを事務所の中に持ち込んでいるのだ。
「……五月蝿いぞ、キリコ。口動かす暇があったら手を動かせ」
「動かしてるわよ。……指先だけね」
キリコが窓ガラスに指で狐の絵を描いた、その時だった。
コン、コン。
鉄のドアがノックされた。音はしなかった。 階段を上がる足音も、エレベーターが動く気配も、何もなかったはずだ。ただ突然、錆びついた鉄扉の向こう側に、誰かが「立った」気配だけがした。
キリコの狐耳が跳ね上がる。 ジンが手を止め、オイルまみれのレンチを握り直す。
「……どうぞ。鍵は開いてるわ」
キリコが声をかけると、蝶番がきしむ音と共にドアが開いた。 湿った風と共に、一人の青年が入ってきた。
二十歳前後だろうか。チェックのシャツにチノパンという、大学のキャンパスにいそうなありふれた服装。 育ちの良さそうな、穏やかな顔立ちをしている。
だが、違和感があった。外はバケツをひっくり返したような土砂降りだというのに、彼は傘を持っていなかった。それなのに、彼の服も、髪も、一滴も濡れていないように見えた。 いや、濡れてはいる。水滴が張り付いている。だが、その水滴が床に落ちないのだ。 重力を無視して、ただそこに「在る」だけの水。
「……いらっしゃいませ。黒狐便へようこそ」
キリコは、いつもの営業スマイルを浮かべて椅子を勧めた。 だが、その涼やかな瞳は笑っていなかった。 彼女は、テーブルの下で印を結んでいた。『千里眼(狐の窓)』。 指で作った窓から覗く世界で、青年の足元は――透けていた。
床板の木目が、彼のスニーカーを通してはっきりと見えている。
青年は、勧められた椅子には座らず、入り口付近で立ち尽くしていた。 バイクのオイルの臭いと、雨の匂いが混じる室内で、彼だけが無臭の空白として存在している。
「あの……ここなら、届けてくれるって聞いたんです」
青年の声は、チューニングの合わないラジオのノイズのように頼りなかった。
「どんなものでも、必ず……」
彼は、震える手で懐から一通の封筒を取り出した。パステルカラーの可愛らしい封筒。だが、その端には泥の汚れと、乾いて変色した赤黒い染み――血痕が付着していた。
彼はそれを、恐る恐るデスクの上に置いた。 ことり、という音はしなかった。
「これを……サヤカに。僕の恋人に、届けて欲しいんです」
青年は名をカズキと名乗った。彼は、自分が死んでいることに気づいていないのか、あるいは認めたくないのか、まるでこれからデートの待ち合わせに向かうかのような口調で話す。 だが、その言葉の端々には、「もう会えないかもしれない」という予感と、底知れない絶望が滲んでいた。
「急ぎなんです。……今日が、彼女の誕生日だから」
カズキは、すがるような目で二人を見た。 プレゼントを渡すはずだった日。 「おめでとう」を言うはずだった日。 その未来が、唐突に断ち切られた無念。
ジンが、無言で封筒を手に取った。重さがない。 物質としてそこにあるように見えるが、質量を感じない。 この世の理から外れかけ、消滅を待つだけの、不安定な残留思念の塊。
「……中身は?」
ジンが短く問う。
「手紙と……カードです。……渡せなかったんです」
カズキの声が震える。雨音が強くなり、窓ガラスを叩く。 それは、彼の泣き声のようにも聞こえた。
「……引き受けた」
ジンは、封筒を懐にしまった。生きているか死んでいるかなど、黒狐便には関係ない。依頼があり、荷物があり、届け先があるなら、運ぶのが流儀だ。 たとえそれが、黄泉の国からの配達便だとしても。
「報酬は、後払いでいい」
ジンが言うと、カズキの霊体は、安心したように輪郭を緩ませた。
「……ありがとうございます」
彼の姿が、室内の湿気に溶けるように薄れていく。だが、その気配は消えなかった。 未練という名の鎖が、彼を現世に縛り付けている。 この荷物を届けるまで、彼は成仏できない。
「行くぞ、キリコ」
ジンはライダースジャケットを羽織り、ジッパーを上げた。そして、ガレージスペースに停めてあった『黒狐号』に跨る。セルを回すと、爆音が室内の空気を震わせた。
「ええ。……雨のドライブも、悪くないわね」
キリコがパーカーのフードを被り直し、タンデムシートに飛び乗る。彼女の瞳は、すでに「見えない道」を捉えていた。
ジンがリモコンを操作すると、事務所の壁の一部――業務用エレベーターの扉が重々しく開いた。その向こうには、雨に煙る不死川の街並みが広がっている。
「飛ばすぞ」
バイクがエレベーターに乗り込む。 一階へ降り、そのまま雨の街へと飛び出していく。
宛先は、生者の世界。依頼人は、死者の国。二つの世界を繋ぐ、短い旅が始まる。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




