5分間
掲示板の数字が、四分のまま動かないように見えた。
実際には、時間はちゃんと流れていた。ただ、その四分間が、十年分の重さを抱えてゆっくりと過ぎていくだけだった。私たちは並んでベンチに座り、線路のほうを向いて、世間話をはじめた。本当に、どうでもいいことばかりを。
「このへん、よく来るの?」
「ううん」と私は答えた。「友達の引っ越しの手伝いで、たまたま。航くんは」
「仕事。取引先がこっちで」
「そうなんだ」
そうなんだ。私たちは、お互いの「今」を、ひとつずつ確かめるように並べていった。彼の会社が郊外に移ったこと。私が結婚を機に仕事を辞めて、いまはパートをしていること。彼の娘が最近ピアノを習いはじめたこと。雪が、もう何年もこの街では珍しいこと。どれも、十年前の私たちなら絶対に話さなかったような、平らで、波のない話だった。
昔の私たちは、こんなふうには話せなかった。いつも、もっと急いていた。言葉が足りなくて、足りないぶんを苛立ちで埋めて、夜中に電話で泣いて、朝には謝って。愛していたのに、その愛しかたが下手で、お互いを擦り減らしてばかりいた。
それが今は、こんなにも静かに、ピアノの話なんてしている。
「コーヒー、まだブラック?」と、彼が訊いた。
私は驚いて、彼を見た。覚えているのか。私が砂糖もミルクも入れない人間だということを。「うん。……よく覚えてるね」
「いや」彼は少し笑って、自分の缶コーヒーを持ち上げた。微糖、と書いてあった。「俺は、こっちになった。歳だな」
「ふうん。航くん、昔は三本くらい砂糖入れてたのに」
「入れてたっけ」
「入れてた」
入れてた、と言いながら、私の声が少しだけ揺れたのが、自分でもわかった。覚えているのは、私のほうだった。彼が砂糖を入れるときの、スプーンのまわしかた。マグカップの縁の欠け。台所の窓から差し込む、朝の光。そういうものを、私はまだ全部、どこかに仕舞っていた。仕舞ったまま、十年、鍵をかけていた。
風が吹いて、ホームの端の自動販売機が、低く唸った。
雪は、彼のコートの肩で、もうすっかり染みになっていた。私はそれを見ないようにして、自分の手元を見た。指先が、寒さで赤くなっていた。
「真奈さ」と、彼が言いかけて、やめた。
「なに?」
「いや。……なんでもない」
なんでもない。その言葉のかたちを、私はよく知っていた。十年前、彼が本当に言いたいことを呑み込むとき、いつもそうやって笑った。穏やかになったように見えて、その下に、昔のままの彼が一瞬だけ覗いた。言いかけて、やめて、それでもまだ何か言いたそうにしている、不器用な人。
私は、訊かなかった。訊いてしまったら、たぶん、戻れなくなる。私たちはもう、それぞれの場所に帰る人間だった。彼には娘がいて、私には夫がいて、二人の間には、雪の降るホームの、たった三十センチの距離と、十年の歳月があった。
「幸せ?」
訊いたのは、私のほうだった。なぜそんなことを訊いたのか、自分でもわからなかった。言ってから、心臓が冷たくなった。
彼は、しばらく黙っていた。掲示板の数字が、三分に変わるのが視界の隅に映った。雪が、二人の足元に小さな白い縁取りをつくっていた。
「うん」と、彼はようやく言った。前を向いたまま。「幸せだよ。真奈は」
「私も」
私たちは、それきり何も言わなかった。
言葉は、もう要らなかった。要らない、というより、これ以上ひとつでも言葉を足したら、丁寧に積み上げてきたこの五分間が、雪のように崩れてしまう気がした。私は、彼の横顔を見るのをやめて、降りしきる雪を見た。彼も、たぶん、同じ雪を見ていた。同じものを見ているのに、私たちはもう、別々の場所にいた。
遠くで、踏切の音が鳴りはじめた。電車が、近づいてくる音だった。




