再会
雪は、降りはじめたばかりだった。
改札を抜けてホームに出たとき、頬に冷たいものが触れて、空を見上げた。灰色の薄い膜の向こうから、ためらうように白いものが落ちてくる。傘を持ってこなかったことを悔やみながら、私は屋根のある場所まで歩いて、電光掲示板を見上げた。次の電車まで、あと五分。
夕方の駅は、人がまばらだった。年の暮れの平日、世界がどこか手持ち無沙汰にしている時間。私はコートの襟を立て、マフラーに顎を埋めた。冷気が足元から這い上がってくる。鞄の中で携帯が震えて、夫からの短い連絡だった。夕飯は要らない、遅くなる。そう、とだけ返して、私は携帯を仕舞った。べつに、寂しいわけではない。ただ、空気の薄い場所に立っているような心細さが、雪の降る夕方にはいつもある。
ベンチに腰を下ろそうとして、隣に人がいることに気づいた。
なんとなく目をやって、それから、息が止まった。
その人は、私を見ていた。見ていた、というより、見つけてしまった、という顔をしていた。十年という時間が、その横顔の上を確かに通り過ぎていた。けれど、私はその人を間違えようがなかった。眉のかたち。少しだけ右に傾く首。コートの肩に、私と同じように雪を乗せたまま、彼はそこにいた。
「真奈」
声が、十年ぶりに私の名前を呼んだ。
低くなったその声を、けれど私の身体は覚えていた。覚えてしまっていた、と言うべきかもしれない。塞いだはずの場所が、奥のほうで小さく軋んだ。私は喉の渇きを呑み込んで、できるだけ穏やかに見えるように笑った。たぶん、うまく笑えていた。大人は、そういうことが上手になる。
「航くん。……うそ、びっくりした」
「だよな」と彼は言って、少しだけ目尻を下げた。「俺も、いま、心臓が止まるかと思った」
私たちは、それきり言葉を探した。何から話せばいいのか、わからなかった。十年は長すぎて、けれど五分は短すぎた。雪が、私たちの間の沈黙に静かに降り積もっていく。線路の向こうの倉庫の屋根が、少しずつ白くなっていくのが見えた。
「元気、だった?」
ようやくそれだけ言うと、彼は「うん」と頷いた。「まあ、ふつうに。仕事もそれなりに。真奈は」
「私も、ふつうに」
ふつうに。その言葉のなかに、どれだけのものを畳んで隠したことだろう。彼の左手に、薄い金属の輪があるのが見えた。私はとっさに、自分の左手をコートのポケットの奥に押し込んだ。隠す必要なんてないのに。お互い、もう、隠さなくていい場所にいるのに。
「子ども、いるの?」と、私のほうから訊いた。
「ひとり。五歳。女の子」彼の声が、わずかにやわらかくなった。父親の声だった。私の知らない、十年分の彼の声。「真奈は?」
「私は、まだ。……夫と、ふたり」
夫、という単語を口にした瞬間、彼の表情が一瞬だけ揺れた。ほんの、まばたきほどの揺れ。すぐに彼はまた穏やかな顔に戻って、「そっか」とだけ言った。その「そっか」の中に何が入っていたのか、私は深く考えないことにした。考えれば、足元の薄い氷が割れてしまいそうだった。
掲示板の数字が、四分に変わった。
雪は、いつのまにか少し強くなっていた。ホームの照明に照らされて、無数の白い粒が斜めに流れていく。誰かの落とした傘が、風で軋む音がした。アナウンスが、間延びした声で次の停車駅を告げている。
私は、隣に座る人のコートの肩を見ていた。そこに乗った雪が、彼の体温で少しずつ溶けて、濃い染みになっていく。十年前にも、こんなふうに雪を見た日があった気がした。あったのか、なかったのか。記憶は、雪のように曖昧で、触れればすぐに消えてしまう。
「変わらないね」と、彼がふいに言った。
「うそ。おばさんになったよ」
「変わってないよ」彼は前を向いたまま、繰り返した。「全然」
その横顔を、私はもう見られなかった。線路の先の、暗くなりはじめた空を見た。雪が、降りつづけていた。




