第八十五話 カウンセリングルーム
「よく来てくれたね。ちょうど新しいお菓子を買ってきたところなんだ。とりあえず、お茶でもしていかないかい?」
一階校舎の西側に、カウンセリングルームと名付けられた教室がある。
坂進高校がスクールカウンセラーを導入した当初は保健医との兼任で、保健室の一角に間仕切りを作っただけの簡易的なものだった。
だが、生徒が本当に胸の内を打ち明けるには、誰にも聞かれない専用の場が必要だと判断され、空き教室を改装して宛てがわれたのだ。
その部屋こそ、齋藤にとっての「城」であった。
いつもと変わらない、毎回繰り返される笑顔での挨拶。
だが、長く通ってきた矢附は今日は困惑していた。
先生と呼ぶのもすっかり癖になってしまい、自分の悩みを話すよりも毎度違うお菓子を楽しみに来ていた場所――それが、この部屋だったからだ。
戸口で立ち止まる矢附の背を押すように、和美は何事もない顔で中へと進んだ。
「高城さんは、コーヒー派? 紅茶派?」
以前に訪れたとき、和美は断った。あれは一年前。
姉を失い、ただ喪失を語るために来た日だった。
救いを求めたわけでもなく、ただ失った事実を並べただけの訪問。
「……コーヒーを。ミルクと砂糖を一つずつでお願いします」
「よろこんで」
頷いた齋藤は奥の棚へ向かう。矢附の分を聞かないのは、いつも同じものを頼むからだ。
「か、和美……どうするの?」
あれほど警戒しろと忠告してきた和美が、あっさり齋藤の招待を受け入れた。
それが矢附を余計に戸惑わせる。彼女が噛みつき、矢附が止める――そんな展開すら想定していたからだ。
「“話し相手”という役割を、まだ楽しむつもりなんですか?」
矢附の問いに答える代わりに、和美は齋藤へと視線を向けた。
「わかるかい? せっかく築いた立場だ。簡単に手放すには惜しいんだよ。別の場所で同じことを始めるのは造作もないけどね――厄介なことに、この部屋を、いや、この街を離れるのがどうにも困難でね」
コーヒーとレモンティーを用意した齋藤は、部屋の中央に置かれた黒い革張りのソファーへと二人を促した。
校長室から回された古びた客用ソファーで、座るたびにギッギッと革が軋む。
緊張をほぐすべき場で、この不快な音は逆効果だと和美は思った。
「困難、というのは?」
好戦的に出るのは得策ではない。まずは情報を引き出すべきだ。
和美はそう考え、会話を続けた。戦えば勝ち目はない――それを忘れてはならない。
「ああ、その前に。君たちはどこまで状況を把握しているのかな? 僕と小早志さんが“存在を消していた”から、ほとんど掴めていないんじゃないかな?」
「存在を消すって……どうして?」
矢附も話を聞く番だと悟り、問いを重ねる。
「西生家の判断ミスさ。小早志さんは鬼として覚醒してしまった。とはいえまだ生まれたてでね。このままでは君――高城さんの白鬼の力の解除に巻き込まれて消えてしまうところだった。彼女は白鬼に否定された緑鬼の残滓を纏い、それを力としていたからだ。それごと“無かったこと”にされるところだったんだよ。だから避難した。力を再構成するまで、世界から存在を消すことでね。僕も同じさ。一度彼女に殺され、白鬼の力で蘇ったから。いやぁ、助かったよ。ありがとう」
にこやかに言い添える齋藤。
白鬼の力が勝手に動いていたと知り、和美は眉をひそめた。
制御できていたつもりが、結局は鬼の力に翻弄されている――そう突きつけられたようだった。
矢附や笠原にまとわりついていた“残滓”も、もし白鬼による再生の結果ならば……望んだはずの「無かったこと」とは真逆だ。
「じゃあ……小早志さんを私たちがまた認識できているのは……」
矢附は喉を鳴らしながら言葉を続けた。
あの時止められなかった責任は、西生家だけではない。自分にもある。
「その通り。小早志さんは鬼としての再構成を果たした。元から僕の手には余る存在だったが、さらに厄介になったよ。ああ――おめでとう、大失敗だね」
微笑を崩さぬまま齋藤はコーヒーを口に運んだ。
黒く熱い液体が、彼の内側へ静かに流れ込んでいった。




