第八十六話 向き合わない
「あー、そうそう。質問からだいぶ遠回しになっちゃったけどね。僕がこの街を離れることが困難になったのは――その小早志さんのせいなんだよ」
微笑みを崩さず、しかし困ったように肩をすくめる齋藤。だが、その声音には困惑よりも愉悦が混じっている。
「小早志さんのせい?」
鬼と鬼との繋がりについて耳にしたことはあったが、その干渉がどれほどのものか和美は知らなかった。鬼の記憶は他の鬼にも流れ込む――いや、鬼とはそもそも一個体として捉えるべき存在で、引き継ぎではなく共有に近いのだろう。
だが和美には他の鬼の記憶が流れ込むことはなかった。なぜか。その答えを、彼女はまだ誰にも問えていなかった。
「彼女を覚醒に導いた感情は、まぁ見事に増幅してね。それを警戒して西生家が総動員さ。聞いてないのかい? 西生奈菜さんから」
問われ、和美は素直に首を横に振った。情報を引き出すためでもこちらの手の内を渡す気はなかったが、どうせ齋藤は知ったうえで問うている――和美はそう判断した。
矢附も同じだった。日頃のカウンセリングでも、齋藤の質問は答えを既に握ったうえでの確認にすぎなかったからだ。
「ああ、なるほど。高城さんを祓いの対象から外すために遠ざけているんだね。鬼即滅の信念を掲げてる連中もいるのに、どうやって言いくるめたんだろうねぇ、西生奈菜さんは」
楽しげにそう言うと、齋藤は再びカップを口に運ぶ。
和美と矢附は緊張のあまり手をつけられずにいた。
「ああ、ほら。遠慮せずに飲みなよ。冷める前にね」
湯気はもう小さくなっている。
「あー、そうか。笠沼正太君を祓ったことを今さら悔いているのかもしれないね。職務を全うしただけ、そう割り切るには小早志さんの存在が大きすぎた。だから続けて人を祓わぬよう、交渉したんだろう。罪悪感だけじゃなく、実際の損失も出してしまったからね。反省してるのさ、西生家も、分家も」
実損。その言葉に矢附の脳裏に浮かぶのは、共に消えていたもう一人の記憶――「顎」と呼ばれていた祓い師の姿。
実損とは、彼の死を指すのだと悟った瞬間、悲鳴が漏れそうになり矢附は慌てて口を押さえた。
「高城さんは知らないだろうね。君に皆が気を取られている裏で、人知れず殺された男がいた。まあ、自ら悪手を踏んだんだから殺されても仕方がなかった。だから、哀しまなくてもいいんだよ矢附さん。彼の死は自業自得――殺したから殺されただけの話さ。人や鬼の間ではよくあることだ」
まるでカウンセラーを思い出したかのように、齋藤は取ってつけた慰めを口にする。
矢附はそれを拒むように俯いた。今はまだ、直視できる事実ではなかった。
「やめて。責めるような言い方は。あなたの言葉は、わざと人を追い詰めるから嫌いだわ」
矢附を庇うように和美が言い放つ。
齋藤のやり方――「受け入れなくてもいい」と提案し、逆に受け入れざるを得なくさせる。いじめだと認識させ、姉の死を「補填すべき喪失」だと提示してきた、あのやり方だ。
「はは、はっきり嫌いと言われると先生ショックだなぁ。嫌われないよう気をつけてるつもりなんだけど。ほら、僕は皆に《向き合わない》という選択肢を勧めてたりするんだよ。心なんて簡単に壊れるからね。小早志さんにも向き合わない選択を提案したけど――まあ、無理だったけどね」
向き合わない。傷を癒すため、傷つかないための手段。だが「向き合わない」対象があると示された時点で、その存在を意識せざるを得なくなる。
「人って、難しいね。まったく」
微笑みを崩さず、齋藤はまた肩をすくめた。




