第八十四話 祭りが始まる
坂進高校文化祭、当日。
和美がそれを思い出したのは、学校に着いて教室に入った瞬間だった。
誰かの声が耳元で響いた――そう認識した途端、それが誰の声だったかを思い出したのだ。
小早志真理亜。
その名前を、その存在を、今まで忘れていたことに和美は愕然とする。
数日で忘れられるはずのない存在を、なぜか記憶から欠いていた。
ただの忘却ではない。消失、あるいは隠蔽――そう呼ぶ方が近かった。
しかもその感覚は、和美だけのものではなかった。
――ひっ。
教室のあちこちから、短い悲鳴が漏れ始める。
特に女生徒の声が多かった。
何が起きたのかと驚く生徒もいれば、ただ怯えきった表情を浮かべる者もいる。
二年B組にとって小早志真理亜は一年下の生徒で、もとから知っている者は多くない。
けれど部活や委員会、学年を越えた交流の場で彼女を知る生徒は確かにいた。
その生徒たちの頭の中に――思い出すのではなく、突如として「現れる」小早志真理亜という存在。
それは、記憶の霞が晴れる感覚ではなかった。
むしろ突然、曲がり角から飛び出されたような衝撃に近い。
だが脳裏に焼きついたイメージは、生徒としての彼女ではなく、緑色の《何か》としての小早志真理亜だった。
――私は許さない。
そう訴えかけてくる、《何か》。
生徒たちが抱いたのは、ただ恐怖だった。
和美自身も、その言い表せぬ恐怖に身体を震わせていた。
耳にこびりついた怨嗟の声が、今にも首を絞めそうな錯覚。
冷たい指先が首筋を這い上がってくるような感覚。
小早志真理亜の幻影を見た生徒たちは、逃れようと宙を必死にかき消す仕草を始める。
周囲は驚き、恐怖し、制止しようとするが――怯えた者たちには声は届かない。
和美も震えを抑えて止めに入ったが、効果はなかった。
「和美……小早志さん、鬼になったの?」
喫茶店風に飾られた教室の隅で、震える体を抱え込むように屈んだ矢附が問う。
答えはすでに心の奥で持っていた。だが、それを口にすれば確定してしまう。
だから矢附は、和美に縋るように問いかけたのだ。
けれど和美は、何も言えず――ただ震えながら頷いた。
その仕草を見て、矢附は悟る。
自分たちが誤ったのだと。その結果が今なのだと。
胸を締めつける痛みが、罪悪感なのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。
あの日の屋上には、名のある鬼と、そして――奈菜に呼ばれていた齋藤がいた。
そうだ。齋藤。スクールカウンセラーの齋藤。
その名もまた、「思い出す」のではなく記憶の中に唐突に「現れた」。鬼として。
「齋藤先生が……小早志さんを変えたの?」
「わからない。けど、齋藤の気配が突然現れたのには、きっと意味がある」
和美は白鬼の力で得た察知の能力で、齋藤がカウンセリングルームに姿を現したことを感じ取っていた。
「鬼を察知する力だったよね? 和美、その力で小早志さんの場所はわからないの?」
矢附の問いに、和美は首を横に振る。
「小早志さんの気配がさ、何処にでもあるの。教室のあちこちに、何人もいるみたいに。……多分、小早志さんを知ってる人のところに現れてるんだと思う」
すぐ横に立っているようにも思えるし、矢附に寄り添っているようにも見える。
はっきりした像のときもあれば、空気の揺らぎのように曖昧なときもある。その違いが何によるのかはわからなかった。
「……じゃあ、小早志さんを探すのは難しいね。齋藤先生の場所は?」
「カウンセリングルーム。……って、舞彩、齋藤に会いに行く気?」
矢附は震える足を抑えつつ頷いた。
和美は慌てて首を横に振る。
「齋藤はただのカウンセラーじゃない。この状況を作ったかもしれない、鬼以上に危険な存在なんだよ。気軽に会いに行ける相手じゃない」
「でも和美……今をどうするか知るには、それしか方法がないでしょ。今日も西生さんは来てないみたいだし、頼れない」
そう言って矢附は立ち上がり、和美を促した。
困惑する和美だったが、何もしないわけにもいかない。
渋々、頷くことにした。




