第六十二話 ゆらゆらと揺れる
それは、一年前の夕暮れだった。
夏の手前、吹き抜ける風にはまだ涼しさが残り、太陽の光は真上からではなく、斜めに差し込む優しげな熱を帯びていた。季節の変わり目の空気が、なぜかいつもより澄んで感じられる、そんな日のことだった。
高城和美は、四つ年上の姉を心から尊敬していた。
幼い頃からずっと、姉は彼女の光だった。何かに怯えたとき、傷ついたとき、心細くて眠れない夜も、姉の笑顔があるだけで和美は安心できた。姉がそばにいてくれるから、自分は大丈夫なのだと、そう思って育ってきた。
けれど、その姉は二年前、他県の大学に進学するため家を出て行った。
見送りの日、和美は玄関で泣きじゃくった。まるで世界の終わりのように。中学生だった彼女には、頼れる存在がいなくなるという現実が、どうしようもなく恐ろしかった。
姉は一人暮らしを始めたが、すぐに大学でできた恋人と同棲を始めたという。母からその話を聞かされた和美は、顔も知らぬ男に姉を奪われたような気がして、胸が焼けるような嫉妬に襲われた。誰とも関わりたくなくなり、学校でも孤立を選んだ。
けれどそんな和美に、手を差し伸べてくれたのもまた姉だった。
帰省は叶わずとも、定期的に電話をくれた。最初の一年、和美はその連絡を無視し続けたが、やがて自分から折れるようにして通話を再開した。姉と話せる。それだけで、また少しだけ前を向けた。
昨晩、電話口の姉は、どこか元気がなかった。 疲れちゃった、とぽつりと漏らすその声に、和美は深くも考えずに「だったら帰ってきたらいいじゃん」と答えた。
姉は少し沈黙したのち、かすれるように「そうだね」と呟いた。
そのときのか細い声を、和美はただの疲労だと思い込み、深くは気に留めなかった。
──姉なら大丈夫。
どんなに辛くても、また立ち上がれるはず。
だって、あの優しくて強いお姉ちゃんなら──。
次の日の放課後。和美は足取り軽く家の玄関を開けた。
「ただいま!」と、家中に響くほどの声を張る。古びた木造の家では、小さな声でも階上までよく通る。
けれど返事はなかった。
父は仕事、母は買い物。だが、玄関には見慣れた姉の靴が並んでいた。
「お姉ちゃん、帰ってるー?」
返事はない。寝ているのだろうか、それとも何かに夢中になっていて気づかないのかもしれない。
早く会いたい。その気持ちだけで、和美は二階へと急いだ。姉の部屋の前に立ち、軽くノックをする。しかし、やはり反応はなかった。
──ぎぃ、ぎぃ。
天井が軋むような音が、どこか遠くから聞こえてくる。
胸の奥に重たいものが沈むような感覚。嫌な予感が脊髄を伝って冷たく這い上がる。
和美は震える指でドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。
ゆら、ゆら、ゆら──。
薄明かりの中、天井から垂れ下がるロープ。その先には、揺れている姉の身体。
項垂れた首、虚ろな瞳。目から涙が流れ、口元から涎が垂れていた。
その姿は、決して美しくなどなかった。それでも夕陽は無情に部屋へ差し込み、その影を黄金に染めていた。
和美は、あのとき自分があげた悲鳴のことを、今でも忘れられない。忘れようとしても、何度も蘇ってくる。まるで自分の声とは思えない、おぞましいほどに割れた絶叫だった。
その日を境に、和美は変わった。
彼女は人を助けようとするようになった。あのとき助けられなかった姉。その悔いを埋めるようにして、誰かの支えになろうとした。
救われなくてもいい。壊れても構わない。ただ、あの日の自分を赦す理由が欲しかった。
高校指定のスクールカウンセラー・斎藤に会ったとき、彼は言った。
「それでは、君は救われることはないよ」
けれど和美は、ただこう答えた。
「それでもいいんです。これをやめたら、私はきっと──壊れるから」
姉のようにはなりたくない。けれど、姉の苦しみに気づけなかった自分が、生きていていいとも思えない。
そんな相反する思いの中で、彼女は『お手伝い』を始めた。
盲信のように、冒涜のように、暴力のように、狂気すれすれに。
和美は、誰かを救おうと動いた。叫ぶように、祈るように、探し続けた。
救うことでしか、自分が壊れていないと証明できなかった。
贖罪。そんな言葉では足りない。けれど、唯一の拠り所だった。
そうして彼女は、鬼となった。
斎藤の手を借りるまでもなく、自らの手で鬼へと堕ちた。
青でも、赤でも、緑でもない、無垢なる白。
すべての色を抱え込み、すべての色を消し去る白。
あの日、夕焼けに染まる姉の姿を見たとき、和美の頭の中に広がったのは、何も考えられなくなるほどの、真っ白だった。




