まぁ しょうがない、なんて――
―15年前
名古屋モトーレ・クラブハウス
少し古びた廊下に、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
俺は――中井慎吾。
プロ2年目のサッカー選手だ。
ユースから昇格し、1年間のレンタルを経て、ようやく名古屋へ戻ってきた。
……とはいえ。
戻ってきたからといって、試合に出られるわけじゃない。
むしろ、ここからが本当の勝負だった。
「あっという間にプロ2年目か……」
思わずそんな言葉が漏れる。
隣を歩くのは、同期の長野吾郎。
同じユース出身。
俺と同じく、このクラブで生き残ろうとしている男だ。
「俺たちも、先輩たちみたいに移籍を繰り返すのかな?」
吾郎の言葉に、少しだけ胸が重くなる。
「他のチームってさ、トップにユース出身がもっといるんだけどな…… うちは、その……大型補強を繰り返しちゃうから……」
吾郎が小さく頷いた。
――“外様の名古屋”
そんな言葉を、何度も聞いてきた。
ユースから昇格しても、トップに定着できない。
試合に出られず、2部リーグ、社会人クラブへ。
新しい居場所を探して去っていく先輩たちを、何人も見送ってきた。
――だからこそ、他人事じゃない。
「やっぱ、地元の名古屋モトーレが大好きなんだけどな……」
吾郎がぽつりと言う。
その気持ちは、痛いほど分かった。
「今年から監督になる草彅監督が使ってくれるならいいけど……」
「二十歳の2年目が、そんな急に使われるなんて……無いと思うぞ」
即答。
ため息が漏れる。
「新しい監督も、どんなタイプか分からないし……」
「今回、初めて監督やるらしいな。一応、名古屋モトーレのOBらしいよ、OB会で見たことないけど……」
長野は少し首を傾げた。
「好き嫌い激しい監督だったらどうしよう……」
それが一番怖い。
するとなぜか、長野が笑った。
「おいおい。お前、秋田にいたから知らないだろ」
少し大げさに肩をすくめる。
「去年までのコラピント監督なんて、好き嫌いめちゃくちゃ激しかったからな。俺みたいな、メンバー外常連の選手なんて、完全に眼中になかったし」
「じゃあ俺、試合出られるのかな?」
半分本気で聞く。
「慎吾はまだいいだろ。秋田にいた時からU-22の代表に選ばれてるし」
呆れてるようだ。
「そうかもしれないけど……2列目には神尾さんも平手さんもいるし……」
簡単には頷けない。
そこは、定期的に補強される激戦区。
それでも――
「俺の夢は、欧州リーグで世界に挑戦して、日本代表で結果を出すことだから」
それはずっと変わらない。
いくら世代別代表に選ばれていても。
リーグで活躍しなければ、A代表には届かない。
欧州クラブから声がかかることもない。
――だからこそ。
「ASリーグで活躍して、世界に挑戦するんだ……!」
言葉にすると、少しだけ覚悟が形になる。
「海外行っちゃったら、美帆との関係はどうするんだよ?」
にやりと笑う吾郎。
恋のキューピットは、そこも気になるらしい。
「……ほら、美帆、大学で英語やってるだろ? 将来は英会話講師になりたいって言ってるし、一緒に来てくれたり……いや、希望的観測すぎるか」
少し照れる。
でも、本音はひとつだ。
「ずっと一緒にいたいんだよ」
――この時の俺は、まだ知らない。
――海外挑戦する前に、美帆から逆プロポーズされることを。
そんな俺を、吾郎がニヤつきながら見る。
「いいよな~お前らずっとラブラブで。お前が秋田にレンタルされても、変わらず相思相愛で」
「ほっとけ」
少し照れながら返す。
「……まぁ、そうだけど」
時計を見る。
「もうこんな時間か、そろそろ帰ろうぜ」
「だな。明日も早いし」
帰ろうとした、その矢先――目の前に、一人の男が立っている。
静かな存在感。
落ち着いた目。
声を張るわけでもないのに、不思議と空気が変わる。
「お前さんたちは……こんなに早く会えるんだな」
随分と穏やかな口調だ。
「これからよろしくお願いしますね」
――この人が、新しい指揮官、草彅茂監督……
俺たちは慌てて背筋を伸ばした。
「ミッドフィールダーの中井慎吾です! よろしくお願いします!」
「同じくミッドフィールダーの長野吾郎です! よろしくお願いします!」
「えぇ、知ってますとも。何度も二人の映像を確認しましたからね」
さらりと言う監督に、俺たちは思わず顔を見合わせる。
「そうなんですか!? ありがとうございます!!」
「少しでも戦力になれるよう頑張ります!!」
――すると。
監督は、少し不思議そうな顔をした。
「何言ってるんだ。お前さんたちは、うちの戦力だよ」
その一言が、まっすぐ刺さる。
――去年まで、ほとんど見向きもされなかった俺たちが……?
「まず長野。お前さんは、ボランチだけじゃなくどこでもできるだろ? お前さんみたいなのがベンチ外にいるとは思わなかった。大もうけと言っていいんじゃないのかな」
吾郎が隣で目を丸くする。
完全に飲まれているようだ。
「あ、ありがとうございます……大もうけ……」
「そしてお前さん」
背筋が伸びる。自分の番だ。
「去年の秋田ではサイドハーフだったようだが……うちでは本職のトップ下だからな。お前が1年間トップ下で出続けるなら5位にはなれる。それ以上は、お前さんの運と努力次第」
心臓が跳ねた。
この感情は、少し言語化が難しい。
「レンタル中だった俺まで……見てくれてるんですね」
”何言ってんだお前”って言いたそうな顔で見てくる。
「そりゃ、名古屋モトーレを勝てるチームにしてくれって頼まれたから。お前さんたちを預かる以上、知っておくのは当たり前。それが出来なきゃ、上に立っちゃダメ」
――まだチーム始動前なのに。
――俺たちのことを、そこまで見ている。
――こんな監督、初めてだった。
そして――気づけば、口が勝手に動く。
「もしかして……レンタルから戻ってこれたのって、草彅監督のおかげなんですか?」
「そうだよ」
あっさり返ってきた。
「いやぁ、フロントに交渉行くの大変だったよ」
まるで他人事みたいに笑う。
「今シーズンもレンタルさせるって話だったから。まぁ、そのまま実績ある選手を補強して、飼い殺しされるのがオチでしょう。だけどこれからは、”オレ流”でやらせてもらう」
――オレ流……
「でも俺たち、1部ではそんなに試合出てないですよ? それに……名古屋ユースでトップに定着できた人なんて、数えるほどしか……」
吾郎の戸惑いもよく分かる。
俺たちが感じる――事実、現実だ。
俺も続く。
「俺も、2部で出てただけです。1部に付いていけるかどうか……」
俺の言葉に、監督は少しだけため息をつく。
「こりゃ神尾と平手はまだまだ安泰だな。超えたいってやつが、まだまだいないもの」
その言葉が痛い。
でも、目を逸らせない。
「実績で言えば、誰だって最初はそうなんだ。それとも、優勝するのに過去の実績が関係あるとでも?」
「そんなことはないです!」
思わず即答する。
「……ないですけど……」
だけど声が小さくなる。
そんな俺に、監督は続ける。
「お前さんたちは、まだ2年目だからって思ってないか?」
静かだ。だからこそ、重い。
「チャンスは、待っていても平等には来ないぞ。“まぁ、しょうがない”と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう」
――しょうがないだけの選手。
その言葉が、頭の中で何度も響いた。
「それでももし、世界と闘いたいなら……遅いくらいだと思うんだがな」
――違う。
――俺は世界と闘いたい。
――世界を超えたい。
――日本のサッカーを、もっと上へ連れていきたい。
不安なんて、もちろんある。
本当にできるのか。
通用するのか。
――でもここで覚悟しなかったら、多分一生後悔する。
そんな気がしたんだ。
「監督!!」
気づけば、声を張っていた。
「俺、やりますよ!!」
胸の奥から絞り出す。
「監督のサッカーを学んで、世界に行きたいです!!」
監督は、そのままあまり感情を出さずに小さく頷いた。
だけど――心なしか嬉しそうに感じる。
「去年までのチームなんて関係ない。お前さんたちは他のやつらと違って、頭を使ってサッカーをできるはずだ。心配しようがしまいが、このリーグで上位にはさせてやる。だからそこからは、自分で見つけてみろ――”この世界で、生きていける何か”を」
――この監督、今までの誰とも違う。
でも……嫌いじゃない。
むしろ、この人に応えたいと思った。
「よろしくお願いします!!!!」
深く頭を下げる。
こうして、俺と吾郎は、草彅茂監督と出会った。
名古屋モトーレにとって。
そして、俺たち自身にとって。
本当のサッカー人生が始まった瞬間だった。




