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第39話 逃げなくちゃ!

(大変……っ!)


 今までさほど深く考えていなかった「もし捕まったら」という想像が、不意に現実の重みを帯びてくる。

 自分が後宮から追い出されるのはもちろん、レイやキラ、ユンカもただでは済まない。

 あらぬ疑いをかけられ、牢獄に閉じ込められるかもしれない。そうなれば故郷の両親にも話は及ぶ。


(逃げなきゃ……!)


 ルルタは走りながら外套の紐をとき、庭に地面に投げ捨てる。次いでにそこら中に臭い袋をまき散らす。

 辺りにキツい刺激臭が立ちのぼった。鼻から息を吸い込んだ瞬間、涙と鼻水があふれ出す。

 ゲホゲホと咳き込みながら、ルルタは必死で闇の中を駆ける。むき出しになった足や腕に木の枝や茂みが引っかかり傷だらけになったが、痛みはまったく感じなかった。

 後ろでは人の声や犬の吠え声が聞こえ、辺りが明るくなっていくのがわかった。


(ど、どうしよう)


 とにかく、逃げられるところまで逃げ続けるしかない。

 ルルタは必死に走り続けた。

 背後の声や灯りは、どんどん大きくなっていく。

 息が切れ、胸が破れんばかりに動悸が激しくなる。足が鉛のように重くなり、「逃げなければ」という思いとは反対に足元がおぼつかずもつれるようになってきた。


「……こっちだ!」


 そんな声が背後から微かに聞こえてくる。


(こ、来ないでえ~)


 思わず目をつぶった瞬間。

 不意にルルタの体は宙に浮かんだ。

 何かにつまずいた。

 そう認識した時には、ルルタの体は水面に投げ出されいた。

 水しぶきが上がり、ルルタは水の中に落下した。



21.


 暗い水の中を必死でもがくと、何とか体が上昇した。

 ルルタは勢い良く水面から顔を出し、大きく息を吐く。派手に咳をし、落ちた瞬間に飲んでしまった水を吐き出す。

 息を整えホッとしたのもつかの間、「音がしたぞ」という声と共に灯りが近づいてくるのが見えた。

 辺りを見回すが、とても地面に這い上がる暇はない。ルルタは再び水面に潜り息を止める。


(……く、苦しい)


 この闇夜だ。

 水の中に入れば兵士の追跡は振り切れるだろう。

 そう思うが、人が離れるまでとても息が持ちそうにない。体内で空気が膨張し、爆発しそうだ。


(し、死んじゃうっ!)


 これ以上、とても耐えられない。

 そう体が悲鳴を上げると同時に、ルルタは勢いよく水面に顔を出した。


「おいっ、何か音がしなかったか?」

「俺が見に行く」


 水の外に頭を出すと同時に、さほど遠くない場所から声が聞こえ、みるみるうちに松明の明かりが近づいてくる。

 再び水の中に入るか、対岸に向かうか、いちかばちか近くの岸辺に這い上がり逃げるか。

 どれも選ぶことが出来ないうちに、煌々(こうこう)と松明の火がかざされた。

 炎に照らされた若い兵士は、まじまじと水に浸かっているルルタのことを見ている。


「おおい、そっちはどうだ」


 遠くから響く別の兵士の声を聞いた瞬間、体から力が抜け、池の中に沈みそうな心地がした。

 もうダメだ。

 ルルタはたまらず目をつぶる。

 その時、頭上から兵士の声が響いた。

 

「こっちには何もない。池で魚が跳ねただけだ。奥の庭を探してくれ」

(え?)


 ルルタは恐る恐る目を開ける。

 若い兵士は、仲間が離れたことを確認すると、岸辺に膝をつき、片手をルルタのほうへ差しのべた。


「掴まれ」


 ルルタは言われるがまま、兵士の手を掴む。

 兵士は松明をかかげたまま、岸辺に這い上がるルルタの体を支えた。


「ずぶ濡れじゃないか。大丈夫か?」

「は、はい。あ、ありがとうございます」


 ルルタはブルブルと震えながら礼を言う。さほど寒い季節ではなかったことは幸いだったが、それでも夜風に当たると体が冷えてくるのがわかる。

 もっと長い時間池の中にいたら、しんの臓が止まっていたかもしれない。


「あの……何で」


 助けてくれたのか。

 そうルルタが尋ねるより早く、若い兵士は心底感心したように言った。


「あんた、お妃さまに『不当解雇』されたことに文句を言いにいくんだろ?」

「ふ……?」

(ふとーカイコ?)


 聞き慣れない用語に首を傾げたものの、歯の根が噛み合わずうまく言葉が出てこない。

 兵士は松明をかかげて、池の奥の暗がりを指さした。


「この池を渡って、建物沿いに右手に回り込んだところが寵妃さまのお部屋のお庭だ」


 兵士は心配そうに、ガタガタと震えているルルタを見る。


「本当に大丈夫か? 早く温まらないと傷寒しょうかんで倒れるぞ」

「だ、大丈夫です」


 兵士は「頑張れよ」と激励しつつ、照れたように付け加えた。


「俺があんたのことを助けたって、あのに伝えてくれよ。颯爽としていて格好良くて頼りがいがあったって」

「ふぁ、ふぁい」


 同僚の兵士たちをなるべく近寄らせないようにするから。

 若い兵士はそう言って来た道を戻っていった。

 ルルタは震えながら池の浅い部分に足を踏み入れる。足下から冷えが這い上ってきて、体の震えが止まらなくなる。

 

(行かなきゃ)


 ルルタは血の気がなくなっているだろう唇を噛みしめて、池の中を進んだ。


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