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第38話 暗い庭の中

 ルルタはその後ろで黒い外套を身につけ、頭にフードをかぶった。


「後宮に残っている兵士は融通のきかない間抜けかやる気のない奴だけだ。大丈夫だと思うが」


 そう言いつつも、レイの表情は不安そうだった。


「いいか、見つかって警護犬に追いかけられたら、打ち合わせ通り臭い袋を撒き散らしてから池に飛び込めよ。煙も出るから兵士たちの目眩ましにもなるはずだ」

「ふぁっ! ふぁい!」

「馬鹿! 声が大きい」


 緊張の面持ちで返事をするルルタの口を、レイは慌てて塞ぐ。

 その時、誰かが廊下の奥から小走りに駆けてきた。

 二人はギョッとし、我知らず手を取り合うようにして人影を見つめる。


「良かった、間に合った」


 暗闇から出てきた大柄な人影は、二人の前で立ち止まるとふうっと大きく息をついた。


「ユンカ!」

「何だ、お前か。脅かすな」


 ユンカはレイに軽く頭を下げると、ルルタのほうを向いた。


「ルルタ、今日、後宮に残っている衛兵さんに知り合いがいる子が、ルルタのことを話しておいてくれたって」

「ほんと?」


 ユンカは頷くと笑顔で言った。


「ほら、あの子だよ。前に衣裳室で寵妃さまの陰口を言っていた」


 ルルタは意外さに目を見張る。


「協力してくれたの?」

「うん」


 ユンカは頷きながらルルタの手を取った。


「みんなルルタのことを応援しているんだよ」


 胸に込み上げてくるものがあり、ルルタは声を詰まらせた。同僚である侍女たちの顔を思い浮かべながら、ユンカの手を握りしめる。


「ありがとう、ユンカ」

(みんなも……)


 ルルタはユンカの手を離すと、フードを目深にかぶり直す。


「ルルタ、気を付けて」

「ドジを踏むなよ」


 振り返って軽く手を振ると、ルルタは廊下の通用口から薄暗い庭へと下りていった。



23.


 庭は思ったよりも暗かった。後宮から漏れ出る光が届かなくなると、足元すらよく見えない。

 暗闇に塗り込められたような視界の奥から、時折、奇妙な虫の鳴き声や風で木立が揺れる音が聞こえてくる。まるで見も知らぬ異界に引きずり込まれたかのようだ。


(建物から離れるとこんなに暗いんだ)


 覚えた道を辿れば、シャナラの部屋まで半刻足らずで辿り着けるはずだ。

 ともすれば恐怖ですくみ上がりそうになる気持ちを叱咤して、ルルタは慎重に歩を進める。

 ようやく暗闇に目が慣れてきたころ、不意に足下で大きな音が鳴り響く。

 ルルタは息を呑んで、その姿勢のまま静止する。

 暗闇に包まれた世界はシンと静まりかえって、何も起こる様子はない。

 ホッと息を吐き、再び暗闇の中に足を踏み出す。

 心が恐怖に呑まれれば、一歩も歩けなくなる。

 ルルタは努めて、別のことを考えた。


 故郷にいる父のこと、母のこと、姉のこと。

 家族にはまだ、レイとの婚約のことは知らせていない。宮廷の権門であるクランスカ家は、地方の豪商にすぎない父や母からすれば雲の上の人たちだ。何の前置きもなく「婚約を申し込まれた」と伝えたら目を回してしまう。

 レイからもしばらく内密にするように言われていた。


「寵妃さまからはお叱りを受けた。まずはお前のあるじである寵妃さまや、お前の親に話を通すのが筋だろうと。それは確かに僕の手落ちだ」


 以前、婚約の話になった時に、レイが珍しく気まずそうな顔つきでそう言った。


「僕としてもお前を軽んじるつもりはない。正式に婚約したら格式を調えて公表するつもりだ。寵妃さまが代親だいおやを引き受けて下さると言っていたから、婚約披露もそれにふさわしいものにしないとな」

「えっ……寵妃さまがルルタの代親に?」


 そばで聞いていたキラとユンカは驚きを露にする。

 代親は多くの場合、妙齢の子女を持たない宮廷人が自分と縁のある者に養子養女という身分を与える時に用いられる制度だ。

 一度、代親となれば、社会的には実親と同じ後見人として扱われる。


「お前の身分は、クランスカ家に迎えるには低すぎる。お祖父さまをどう説得するか考えていたんだが、寵妃さまが代親として立って下さるなら反対すまい。むしろ両手もろてをあげて賛成するだろうな」


 そう言いながらも、レイは釈然としない顔つきでジロジロとルルタを眺める。


「本当にわからんな。保証書の件といい……何で寵妃さまはお前にここまでするんだ?」


 シャナラが自分にこれほど良くしてくれ、何とか守りたいと思ってくれていることは本来、ありがたいと思うことなのだろう。

 だがルルタの心には、なぜシャナラは一方的にあれこれ与えようとするだけで、まずは自分の気持ちを聞いてくれないのか。そういう不満がある。

 なぜ何も言わず何も聞かず、ただ遠ざけようとするのか。

 シャナラが自分に何かをしたい、その立場を守りたいと思ってくれているように、自分もシャナラのそばで役に立ちたい、何としても守りたいと思っているのだ。


(お会いしたら、うんと聞いていただかなくちゃ)


 ともすれば不安と恐怖で震えそうになる心を振るい立たせるために心の中で呟く。

 ふと。

 ルルタは辺りの景色を見渡した。


(あれ? そろそろ池が見えてくるはずだけど)


 辺りは真っ暗で、木々らしき陰の固まりが揺れているだけだ。

 水場が近づけば、視界の広がりや匂いでわかるのではないか。


(えっと、今はたぶん西の表回廊沿いにいるはず……)


 ルルタはこのふた月、空いている時間はずっと眺めていた後宮と庭園の地図を懸命に思い浮かべる。

 西の表回廊から、後宮の最も奥まったところへ行く。そこから裏手に回り込めば、シャナラが与えられている私的な庭へ辿りつくはずだ。

 西の表回廊の周りは巨大な池があり、回廊の一部がその池を渡る橋になっている。

 その池がそろそろ見えてくるはずだ。

 だが、水音ひとつ聞こえてこない。

 方角を間違えて、思ったよりも宮廷から離れてしまっているのかもしれない。

 王宮の庭は広大だ。端から端まで行けば、人の足だと半日がかりの距離がある。

 後宮から逃げ出した国王の愛人と衛兵が、庭から出ることができず今でも彷徨っている。

 そんな話が誠しやかに囁かれているくらいだ。


(このまま迷ったら……もしかして私も)


 ルルタはぶるぶると身を震わせる。


(万が一迷ったら、風の向きで方角を確認して、わかるところまで引き返せ)


 出立前にレイに言われたことをルルタは思い出す。

「物の本に書かれていた」と大威張りで言っていたが、キラとユンカは疑わしげな顔つきをしていた。

 だが今は、それに従うしかない。


(ええっと、風が流れてきているほうから来たから風下に戻らないと)


 そう考え振り返った瞬間、ルルタはハッとして動きを止める。

 先のほうで、小さな点のように灯りが揺れているのが見えた。


(人……?)


 いなくなってくれないか。

 そんなルルタの願いも虚しく、灯りは少しずつ大きくなっていく。


(こっちに来る……!)


 ルルタは慌てて、中腰になり速足で奥へと駆けていこうとした。

 この距離ならまだ見つかっていないかもしれない。

 しかし、そんな楽観的な観測はすぐに打ち砕かれる。

 遠くのほうがにわかに騒がしくなり、微かにだが犬の吠え声が聞こえてきた。


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