第26話 落ち込んでなんかいられない。
15.
「ルルタ! 花瓶から水がこぼれているよ」
声が耳に届いてルルタはハッとした。
大広間に続く回廊の両脇を彩る花瓶に花を活けていたが、無意識に詰め込みすぎて水が廊下に滴り落ちている。
慌てて床を拭こうとして屈んだ瞬間、額を花瓶にぶつけた。
「危ないっ」
グラグラと揺れ出した背の高い花瓶をユンカが慌てて支えた。花瓶が倒れれば、中身が盛大にルルタの体に降り注ぐところだった。
「ふうっ、ルルタ、大丈夫だった?」
「うん、ありがとう」
小さな声で呟くと、ルルタは背中を丸めて床に流れた水を布で吸いとる。
その姿に、ユンカは気遣わしげな視線を向けた。
「寵妃さま、まだ陛下のところから戻ってこないね」
「うん……」
暗い雰囲気で頷いたルルタに、ユンカは励ますように明るい声をかける。
「大丈夫だよ、お戻りになったらすぐにお声がかかるって」
「うん……」
ルルタは立ち上がって、再び花瓶の中の花を整え出す。
ここのところ、宮廷内の動きが慌ただしい。地方の有力貴族がひっきりなしに参内し、そのたびに歓迎の宴が開かれる。ルルタたち侍女もその準備や接待のために駆り出されている。
侍女たちにとっては上流貴族たちの目に留まる絶好の機会である。揃いの侍女のお仕着せ姿をしている中でも何とか目立とうと、それぞれに工夫をこらしている。宴続きの浮足立った華やかな雰囲気も加わり、宮廷内は活気に満ち溢れていた。
そんな中でルルタは一人、暗い顔をしていた。
言い合いをした次の日、シャナラはルルタに会うことなく国王の下へ渡った。
それから半月も経つのに、一向に後宮に戻るという知らせが来ない。
国王の寵を得ているシャナラは、これまでも「渡る」と半月以上帰ってこないことはあった。
だがそんな時でも、シャナラはやむをえぬ事情でいわば一時外出しているだけであり、必ず自分が留守を守っている部屋へ戻って来る。
二人で交わした約束によって絆が結ばれているのだ。
そういう確たる思いがあった。
だが今は……。
もしかしたらシャナラは戻って来たとしても、自分を呼んではくれないかもしれない。
そんな不安が厚い雲のようにルルタの心を塞いでいる。
「また、そんな辛気臭い顔しているの?」
「キラ……」
キラはルルタの隣りに立つと、手早く花瓶に活けられた花を調えた。
「早くしないと、出迎えの準備が終わらないわよ。早いかたは三の刻には到着するのに」
キラはルルタの顔を見て、ハアッと息を吐いた。
「そんなこれみよがしに落ち込むなら、部屋に戻りなさいよ。周りが気を遣うでしょ」
「キラ」
言い過ぎだよ。
ユンカが慌ててそう言う前に、ルルタがしょんぼりと呟いた。
「そうだよね、ごめん」
キラの言うことは尤もだ。
いくら落ち込むような出来事があっても、それは他の人には関係がない。まして仕事の場でそれを表に出して雰囲気を悪くするなど、身勝手と言われても仕方がない。
それに。
自分がこんな態度では、主君であるシャナラの評判も落とす。
表に出ることのない主に代わって周囲に気を配り、朋輩に好印象を抱かせ、宮廷内での人間関係を安定させるのも、侍女の大事な務めだ。
主同士の関係が侍女同士の関係に反映すると同時に、侍女の人間関係が宮廷内の秩序や主の立場に影響を及ぼす。
侍女と主君は、ただの主従、上下関係にあるのではない。侍女は主君の宮廷生活を支える土台であり、存在そのものが主の一部なのだ。
さほど長くない宮廷生活の中で、ルルタはそう学んだ。
(シャナラさまに会ったことがない人たちは、私の後ろにシャナラさまを見ている)
シャナラがいない時も、シャナラ付きの侍女として恥ずかしくないように務めを果たす。決してシャナラの評判を落とすようなことはしない。
留守は任せて欲しい。
シャナラの前でそう大見得を切ったではないか。
ルルタは顔を上げる。
自分の悩みや不安に閉じこもって、侍女の本分をおろそかにしてはならない。今は目の前の仕事をこなすことに集中しなければ。
先程までとは打ってかわって、きびきびと動き出したルルタを見てキラはホッと息を吐き出す。
「まったく。世話が焼けるんだから」
「キラって、ほんと……」
「何よ?」
ジロッと横目で睨まれて、ユンカは満面の笑みを浮かべたまま大げさな仕草で手で口をふさぐ。
キラは何か言いたげな顔でユンカを眺めていたが、再びルルタのほうへ目を向けた。
「あの子、本当に寵妃さまが好きよね」
「うん。だから『喧嘩しちゃった』って落ち込んでいるんだよね」




