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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

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9/20

鈴の少女と血海ヴィルマ

 宿場の桟橋には、赤い霧が薄くかかっていた。


 舟が板に近づくと、桟橋の奥から人の声が聞こえた。


 木箱を運ぶ音。


 縄を引く音。


 鍋のふたが鳴る音。


 川の途中では遠くに感じていた人の気配が、ここでは急に近かった。


 レンは舟のへりに手を置いたまま、桟橋を見上げた。


 そこに、少女が立っていた。


 年は十二歳くらい。


 レンたちより少しだけ年上に見える。


 淡い金色の髪を後ろで一つに結び、黒に近い紺色の上着を羽織っていた。白い襟の服はきちんとしているのに、袖口だけは何度も水に濡れたように色が濃くなっている。


 腰の革帯には、小さな小瓶が三つ。


 丸い真鍮(しんちゅう)の道具。


 それから、小さな鈴。


 少女が一歩動くと、ちりん、と控えめな音がした。


 宿場の子にしては、服が少し上等だった。


 けれど、足元は違う。


 湿った桟橋の板を、どこが滑るか知っている歩き方で歩いていた。


 少女は、まず老人の舟を見た。


 舟に積まれた舟塗(ふなぬ)りの壺。


 赤草(あかくさ)の束。


 布に包まれた赤塩灯(あかしおとう)の皿。


 それから、舟の先で黒く揺れている赤塩灯。


 最後に、レンとセラを見た。


「遅かったね。霧?」


「霧だ。途中で少し止められた」


「舟塗りは持ってきた?」


「三壺ある。赤草も少しだ」


「助かる。昨日塗った舟底(ふなぞこ)、まだ乾いてなかったんだよ」


「またか」


「また。塗ったあと、いつまでもべたつく。乾いたと思って水に出しても、舟の進みが悪い」


 少女は壺を見下ろした。


「塗る人の腕じゃないよ。赤塩の方が変」


「分かっているなら早い」


 老人は短く言った。


「前よりはましな分を持ってきた」


「“まし”で直すの、そろそろやめたいんだけど」


「いい赤塩が少ない。文句はヴィルマで言え」


 少女は口元を少しだけ曲げた。


「言って聞く相手なら、とっくに言ってる」


 セラが小声で言う。


「この子、誰?」


 レンは首を横に振った。


 知らない。


 けれど、ただ宿場で働いている子ではなさそうだった。


 少女の目が、今度ははっきりとレンたちに向いた。


「それで、その二人は?」


「川で拾った」


「川で拾ったって、魚みたいに言わないで」


 セラがすぐに言った。


 老人は気にしない。


「渡し場にいた。舟代がなかったから、荷運びを手伝わせた」


「ふうん」


 少女はレンとセラを順番に見る。


「壺は落とさなかった?」


「落としてない」


 セラが答えた。


「それは大事だね」


「大事なの?」


「このあたりではね。壺を落とす子は、舟にも荷にも向いてない」


「落としてないって言ったでしょ」


「だから、まだ話を聞いてる」


「何それ」


「落としてたら、もう話は終わってたってこと」


「嫌な言い方」


「分かりやすいでしょ」


 少女は悪びれもせずに言った。


 それから、少し目を細める。


「どこから来たの?」


 レンは、すぐには答えられなかった。


 セラも黙った。


 老人は、そこを聞かなかった。


 たぶん、わざと聞かなかった。


 腹を空かせていること。


 行く場所を探していること。


 それだけ分かれば十分だ、という顔をしていた。


 けれど、この少女は違う。


 聞く。


 まっすぐに。


 レンは布袋のひもを握った。


「……上の方からです」


「上の方って、便利な言い方だね」


「本当に上の方だから」


 セラが言った。


「じゃあ、どこの村?」


「……」


「言えないんだ」


「言えないんじゃなくて、説明しにくいの」


「宿場では、それを“言えない”って呼ぶよ」


「ミナ」


 老人が低く言った。


「何」


「そのくらいにしろ」


「じいさんは聞かなすぎ」


「聞いても、舟は軽くならん」


「でも、知らない子をそのまま通したら、あとで困ることもある」


「こいつらは腹を空かせていた」


「それは見れば分かる」


「なら、それで十分だ」


「十分じゃない。どこから来たかで、話が変わる」


 二人の言い合いを遮るように、セラが一歩前へ出た。


「わたしたちは逃げてない」


「じゃあ、迷ってる?」


「迷ってもない」


「なら、どこへ行くの?」


 セラは答えなかった。


 レンも、すぐには言えなかった。


 少女――ミナは、二人の顔を見比べた。


「言えないこと、多いね」


「だから、説明しにくいだけ」


 セラが言い返す。


「同じくらい困る」


「嫌な子」


「よく言われる」


 ミナは少しだけ笑った。


 それから、レンの布袋へ視線を落とす。


「その袋」


 レンは布袋を押さえた。


「ずっと握ってるね」


「大事なものです」


「見せられないもの?」


 レンは少し迷った。


 ミナの言い方は、少し意地悪だった。


 けれど、何も知らない子どもの目ではない。


 赤い川を見ている。


 舟塗りを見ている。


 赤塩灯の黒い火を見ている。


 そして、ヴィルマという町を知っている。


 レンはセラを見た。


 セラは不満そうだったが、止めなかった。


「……少しだけなら」


 レンは布袋から、夢札を一枚取り出した。


「これです」


「何、それ」


夢札(ゆめふだ)です」


「夢札?」


「ぼくたちは、この札に描かれた場所を探しています」


「描かれた場所?」


 レンは札の表面を指した。


 古びた札には、薄い線で景色が描かれている。


 赤い水。


 水の上に並ぶ灯り。


 そして、その奥に立つ大きな骨の門。


「赤い海です」


 レンは言った。


「水の上に灯りが並んでいて、奥に大きな骨の門みたいなものがあります」


 ミナの目が細くなった。


「……赤い海と、骨の門」


「知ってるの?」


 セラが聞いた。


「知ってるも何も」


 ミナは川下を見た。


「それは、たぶん血海(けっかい)ヴィルマだよ」


 レンの胸が、小さく鳴った。


「本当に?」


「赤い海。水の上の灯り。骨の門。そこまでそろってるなら、他にはあまりない」


 レンは夢札を見下ろした。


 ここまで来る間、何度も見た絵。


 でも、場所の名前までは分からなかった。


 ようやく、絵と名前がつながった気がした。


「じゃあ、やっぱり」


 ミナはレンを見る。


「君たちは、その夢札に描かれた場所を探して、ヴィルマへ行きたいんだね」


「はい」


「最初からそう言えばいいのに」


「聞き方が嫌だったから」


 セラが言った。


「正直だね」


「そっちほどじゃない」


 ミナは少し笑った。


 それから、夢札ではなくレンの顔を見た。


「もうひとつ聞く」


「何ですか」


「川の途中で、白い魚を見なかった?」


 レンはうなずいた。


「見ました」


「ひれに黒い点は?」


「二つありました」


 ミナの表情が変わった。


 からかうような色が、すっと消える。


「二つ」


「はい」


「昨日、わたしが見た時は一つだった」


 セラが眉を寄せる。


「増えてるってこと?」


 ミナは答えなかった。


 桟橋の下を流れる赤い水を、じっと見つめている。


「ミナ?」


「早すぎる」


 小さな声だった。


「魚の病気?」


 セラが聞く。


「魚だけなら、まだまし」


「どういうこと?」


 ミナは赤塩灯を見た。


 火の中心に、黒い揺れがある。


 次に、舟塗りの壺を見た。


 それから、川の水へ視線を戻す。


「舟塗りも乾かない。赤塩灯の火も黒く揺れる。白い魚の点も増えてる」


「全部、ヴィルマに関係あるの?」


 レンが聞いた。


「まだ分からない」


 ミナは短く答えた。


「でも、確かめないといけない」


 それ以上は言わなかった。


 説明ではなく、焦りだけが残った。


「ミナは、ここで何をしてたの?」


 レンが聞く。


「寄っただけ」


「宿場の子じゃないの?」


「違う。わたしはヴィルマの潮読(しおよ)み見習い」


「潮読み……」


 老人が言っていた言葉だ。


 川には川読みがいる。


 血海には、潮を読む者もいる。


「水の色、匂い、泡、魚の動き、鐘の音を見る仕事」


 ミナは腰の小さな鈴を指で押さえた。


「川上から流れてくるものを見てた。魚も、赤塩も、舟塗りも」


「ヴィルマへ戻るの?」


「戻る。白い魚の点が二つになったなら、なおさら」


「じゃあ、乗せて」


 セラがすぐに言った。


 ミナはセラを見る。


「ただで?」


「……お金はない」


「知ってる」


「顔に書いてあるって言う気?」


「言おうと思ったけど、先に言われた」


「言わなくていい」


 ミナは川下へ視線を向けた。


「宿場から先、歩いてヴィルマへ行くのは難しい。水路が多いし、道も切れてる。霧が出たら、よそ者はすぐ迷う」


「だから舟がいる」


「そう。わたしは舟を出せる」


「じゃあ乗せて」


「ただでは嫌」


「だから、お金はないって」


「お金じゃなくてもいい」


 ミナの視線が、セラの髪に止まった。


「その髪留め」


「え?」


「青い石のやつ。それなら舟代にしてもいい」


 セラの手が、反射的に髪へ伸びた。


 小さな三日月形の髪留め。


 青銀色の金属に、深い水色の石がひとつはめ込まれている。


 派手ではない。


 けれど、宿場の赤い灯りの中でも、その石だけは冷たい月の光を持っているように見えた。


「これはだめ」


 セラはすぐに言った。


「じゃあ、舟もだめ」


「他のものにして」


「他に高そうなもの、持ってる?」


 セラは黙った。


 レンも何も言えなかった。


 ミナは淡々と言った。


「ヴィルマまでの潮は簡単じゃない。霧も出る。潮も戻る。今は白い魚までおかしい。危ない舟を出すなら、それくらいは欲しい」


「返してくれるの?」


 セラが聞いた。


 ミナは首を横に振った。


「返すとは言わない」


「は?」


「取引だから。預かるんじゃない。もらう」


「ずるい」


「うん。ずるいよ」


「認めるんだ」


「認める。わたしは舟を出す。あんたたちは舟がいる。取引としては分かりやすい」


「わたしたち、子どもだよ」


「わたしも子どもだよ」


 ミナの声は、そこで少しだけ低くなった。


「だから、ただで危ないことはしない」


 セラはミナをにらんだ。


 ミナも目をそらさない。


 けれど、すぐに言い返す声はなかった。


 セラの指先だけが、髪留めの上で止まっている。


 いつものセラなら、すぐに怒る。


 すぐに前へ出る。


 すぐに、何か言い返す。


 でも、その時だけは違った。


 セラは何も言わず、川下の霧を見た。


 赤い海。


 水の上の灯り。


 骨の門。


 夢札に描かれていた場所が、その先にあるかもしれない。


 レンは胸の奥が痛くなった。


 自分がもっと強ければ。


 自分が何か払えるものを持っていれば。


 セラが、こんな顔をしなくてもよかったのに。


「セラ、いいよ」


 レンは言った。


「別の方法を探そう」


 セラは首を横に振った。


「ないでしょ」


 小さな声だった。


「今、ないでしょ」


 レンは答えられなかった。


 老人も、何も言わなかった。


 川下へ行くには舟がいる。


 そして、その舟を出せるのは、目の前のミナだった。


 セラはゆっくり髪留めを外した。


 淡い髪が、肩の横へ少しこぼれる。


 青銀の髪留めは、セラの手のひらの上で静かに光っていた。


 その光だけが、赤い宿場の中で冷たかった。


「……渡す」


 セラは言った。


「でも、忘れないで」


 ミナは黙っていた。


「それは、わたしの大事なものだったってこと」


 ミナの顔から、少しだけ笑みが消えた。


「覚えておく」


「絶対に」


「取引相手の顔と品物は忘れない」


 ミナは言った。


「損するから」


「最後までそれか」


 セラは苦い顔をした。


 けれど、声は震えていた。


 セラは髪留めを差し出した。


 ミナはそれを受け取ると、腰の革袋には入れなかった。


 首から下げていた小さな布包みを開き、その中へ丁寧にしまった。


 その仕草を見て、レンは少しだけ息を吐いた。


 雑には扱っていない。


 でも、戻ってくる約束はない。


 セラの横顔は、いつもより少し遠く見えた。


「取引成立」


 ミナは言った。


「舟は出す。ヴィルマまで乗せてあげる」


 セラはほどけた髪を手で押さえたまま、短く答えた。


「……うん」


 その手は、髪を直しているというより、そこにあったものがなくなったことを隠しているように見えた。


 出発の準備は、思ったより早く終わった。


 ミナは宿場の男から小さな木箱を二つ受け取った。


「これも運んで」


「まだ働かせるの?」


 セラが言う。


「舟に乗る荷物。先に積まないと、あんたたちの座る場所が決められない」


「そういうことなら、最初からそう言って」


「最初からそう言ったら、文句が減ってつまらないでしょ」


 セラは言い返そうとして、やめた。


 代わりに木箱を持ち上げる。


「落とさなければ、少し広い方に座らせてあげる」


「それは本当?」


「本当。狭いと落ちやすいからね」


「急にちゃんとしてる」


「落ちた子を拾う方が面倒だから」


 レンとセラは木箱をミナの小舟へ運んだ。


 宿場で粥を一杯もらい、湯気の中で急いで食べた。


 セラはあまり話さなかった。


 髪留めを外した髪を、何度も手で押さえている。


 いつもの場所に指が触れるたび、何もないことを確かめてしまうみたいだった。


 レンは何か言おうとして、言えなかった。


 ありがとう。


 ごめん。


 どちらも違う気がした。


 出発の前、レンは老人に頭を下げた。


「ありがとうございました」


「沈むなよ」


「はい」


 老人は川下を見た。


「水と火をよく見ろ」


「水と火?」


「泡が増えた水と、黒く揺れる火には近づきすぎるな」


 老人はそれだけ言って、(かい)を肩に担いだ。


 セラが小さく手を振る。


 老人は返事の代わりに、櫂を一度だけ持ち上げた。


 それで別れは終わった。


 ミナの舟は、宿場の端にあった。


 老人の舟より少し細く、低い。


 先端には赤塩灯ではなく、青白い小さな灯りが下がっている。


 灯りの下には、丸い真鍮の輪がついていた。


 風もないのに、輪はかすかに揺れている。


「これ、何?」


 セラが聞いた。


「潮の向きを見る道具」


「風じゃなくて?」


「風も見る。水も見る。音も見る」


「見えないものばっかり」


「見えるものだけで進むと、潮では迷う」


 ミナは舟へ乗り込んだ。


「乗って。でも、勝手に立たない。水に手を入れない。荷物をまたがない」


「子ども扱いしないで」


「子どもでしょ」


「あんたもでしょ」


「わたしは舟を出せる子ども。そこが違う」


 セラはむっとしたが、それ以上は言わなかった。


 レンは慎重に舟へ乗った。


 セラも続く。


 舟は少し揺れたが、すぐに水へなじむように戻った。


 ミナは綱をほどき、細い櫂を水に差した。


 宿場の桟橋がゆっくり離れていく。


 赤い霧の中で、老人の姿が小さくなる。


 レンはもう一度だけ頭を下げた。


 ミナの舟は川下へ進んだ。


 宿場を過ぎると、川は急に広くなった。


 左右の岸が遠くなる。


 赤草は少なくなり、代わりに低い杭が水の中に並び始めた。


 杭には赤い紐や、骨で作られた札が結ばれている。


 水面には白い泡が浮かび、ところどころに黒い筋が混じっていた。


 匂いも変わった。


 川泥の匂いに、少しだけ塩の匂いが混ざる。


 舌の奥が、かすかにしょっぱくなるような匂いだった。


「このあたりから、川じゃなくなる」


 ミナが言った。


血海(けっかい)に入る手前。流れと潮が混ざる場所」


「見て分かるの?」


 セラが聞く。


「見ても分かる。匂いでも分かる。音でも分かる」


 ミナは櫂を止め、耳を澄ませた。


 レンも耳を澄ませる。


 最初は、何も分からなかった。


 水の音。


 霧の音。


 遠くの鳥の声。


 けれど、しばらくすると、水の音の奥に、ゆっくり押し返すような響きがあった。


 川が前へ進もうとしている。


 その下から、別の水が戻ってくる。


 そんな音だった。


「今、戻った」


 ミナが言った。


「何が?」


「潮」


 セラが首をかしげる。


「見えないけど」


「見えるものだけ見てると迷うって言ったでしょ」


「それ、便利な言い方」


「便利だよ。だいたい勝てるから」


「勝つために言ってるんだ」


「負けるために話す人、いる?」


 セラは少し黙った。


「……やっぱり、ずる賢い」


「ありがとう」


「褒めてない」


「知ってる。でも、ずる賢い方が生き残れるよ。特に、子どもは」


 その言葉だけ、少し冷たかった。


 レンはミナの横顔を見た。


 十二歳くらい。


 セラより少しだけ年上。


 それなのに、潮を読み、舟を出し、大人相手に荷を受け取っていた。


 ずる賢い。


 でも、それは悪いことをするためというより、負けないためのものに見えた。


 舟の前で、白いものが水面を横切った。


 レンは息を止めた。


 白い魚だった。


 透き通った体。


 薄いひれ。


 ひれには、黒い点が三つあった。


「あ」


 セラも気づく。


「三つ」


 ミナの手が止まった。


「……早すぎる」


 声が小さかった。


 からかうような響きは、もうなかった。


「昨日は?」


 レンが聞く。


「一つ」


 ミナは短く答えた。


「さっき、君たちが見た時は二つ。まだ半日も経ってない」


 それ以上、説明しなかった。


 ただ、舟の向きを変えた。


 白い魚は、赤い水の中でふらつきながら進んでいく。


 まるで、見えない何かから逃げているみたいだった。


「悪いの?」


 セラが聞いた。


 ミナは少し遅れて答えた。


「悪い」


「何が?」


「水か、潮か」


 ミナは唇を結んだ。


「たぶん、両方」


 白い魚は時々水面へ浮かび、また沈む。


 黒い点は、赤い水の中でも見えた。


 まるで、小さな穴がひれに空いているみたいだった。


 しばらく進むと、遠くから鐘の音が聞こえた。


 ごん。


 低い音。


 けれど、最後が少しかすれた。


 レンは顔を上げた。


「鐘の音?」


潮鐘(しおがね)


 ミナの声が硬くなる。


 もう一度、鐘が鳴る。


 ごん。


 今度も、音は途中でかすれた。


 レンには、誰かが大きく息を吸おうとして、途中で苦しくなったように聞こえた。


「変な音」


 セラがつぶやいた。


 ミナは答えなかった。


 舟の先についた真鍮の輪が、かすかに震えている。


 水面の泡が増えた。


 赤い水の上を、白い泡が小さく弾けながら流れていく。


 ミナはその泡を見て、櫂を握り直した。


「……流れが逃げてない」


「え?」


「ヴィルマには潮門(しおもん)がある」


 ミナがぽつりと言った。


「潮門?」


「潮を通す門。そこが、詰まってるのかもしれない」


 それだけ言って、ミナは口を閉じた。


 けれど、その目はずっと川下を見ていた。


 白い魚は、濃い赤い霧の方へ進んでいく。


 舟も、その後を追った。


 霧が少しずつ薄くなった。


 その向こうに、赤い灯りが浮かんでいる。


 一つではない。


 二つでもない。


 川の上に、星みたいに赤塩灯が並んでいた。


 水の上に建つ家。


 低い桟橋。


 赤い塩を乾かす棚。


 黒い杭の列。


 屋根から屋根へ渡された縄。


 そこに吊るされた赤草。


 水面近くには、小さな舟がいくつもつながれている。


 その奥に、骨でできた大きな門の影が見えた。


 レンは息をのんだ。


「あれが……」


 ミナが櫂を握り直した。


血海(けっかい)ヴィルマ」


 赤い水の町は、夕霧の中でぼんやり光っていた。


 きれいだった。


 水の上に浮かぶ赤い灯り。


 白い霧ににじむ屋根。


 川面に映る、いくつもの光。


 まるで町全体が、赤い夢を見ているみたいだった。


 レンは布袋を押さえた。


 夢札の絵と似ている。


 赤い水。


 水の上の灯り。


 奥に立つ骨の門。


「夢札の絵と同じ?」


 セラが聞いた。


「似てる」


「じゃあ、ここなんだ」


「たぶん」


「たぶんで来ちゃったね」


「うん」


「でも、来た」


 セラはほどけた髪を押さえながら、赤い町を見上げた。


「来たなら、探すだけ」


 ミナが横目でセラを見る。


「単純」


 セラは言い返そうとして、やめた。


 その代わり、町を見た。


 きれいなだけではなかった。


 赤塩灯の火はどれも、中心に黒い揺れを抱えている。


 水面には白い泡が浮かび、桟橋の下では、赤い水がゆっくり渦を巻いていた。


 魚売り場らしい棚が見えた。


 けれど、そこに白い魚はいない。


 干された網だけが、風もないのに少し揺れていた。


 ミナは舟を外れの船着き場へ寄せる。


 桟橋に近づくと、町の音が聞こえてきた。


 人の声。


 木箱を引きずる音。


 水をくむ音。


 赤塩をかき集める、ざりざりという音。


 そのどれもがにぎやかなのに、どこか息をひそめているようだった。


 舟が桟橋に触れた。


 こつん、と小さな音がする。


 ミナは綱を杭にかけた。


「着いたよ」


 レンは舟から降りる前に、もう一度町を見た。


 血海ヴィルマ。


 夢札に描かれた赤い海の町。


 その中心で、黒い火が揺れている。


 ミナは骨の門の影を見たまま、低く言った。


「潮が、止まりかけてる」


 その時、遠くで潮鐘が鳴った。


 ごん。


 けれど、音は伸びなかった。


 町へ届く前に、途中で切れた。


 赤い灯りが、ひとつ黒く揺れる。


 次の音は、来なかった。

第9話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、レンとセラが夢札に描かれた赤い海の町、血海(けっかい)ヴィルマへ向かう回でした。


新キャラクターのミナは、ヴィルマの潮読(しおよ)み見習いです。

少しずる賢く、言い方もきついですが、この世界で子どもが生き抜くための強さを持っています。


セラが髪留めを渡す場面は、今回の大事な分岐点でした。

大切なものを失ってでも先へ進む。

その選択が、この先の旅にどう響いていくのかも見てもらえたら嬉しいです。


赤い海。

黒く揺れる火。

点が増えていく白い魚。

途中で切れる潮鐘。


ヴィルマでは、何かが静かに壊れはじめています。


次回、レンたちはヴィルマの町へ足を踏み入れます。

夢札の手がかり、潮の異変、そしてミナが隠している町の事情。


この先、ヴィルマで何が起きると思いますか?

よければ、感想や予想、「こんな続きを見たい」というアイデアを聞かせてもらえるとうれしいです。


感想、評価、ブックマーク、リアクションなども、物語を続ける大きな励みになります。

少しでも面白いと思っていただけたら、応援してもらえるとうれしいです。

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