鈴の少女と血海ヴィルマ
宿場の桟橋には、赤い霧が薄くかかっていた。
舟が板に近づくと、桟橋の奥から人の声が聞こえた。
木箱を運ぶ音。
縄を引く音。
鍋のふたが鳴る音。
川の途中では遠くに感じていた人の気配が、ここでは急に近かった。
レンは舟のへりに手を置いたまま、桟橋を見上げた。
そこに、少女が立っていた。
年は十二歳くらい。
レンたちより少しだけ年上に見える。
淡い金色の髪を後ろで一つに結び、黒に近い紺色の上着を羽織っていた。白い襟の服はきちんとしているのに、袖口だけは何度も水に濡れたように色が濃くなっている。
腰の革帯には、小さな小瓶が三つ。
丸い真鍮の道具。
それから、小さな鈴。
少女が一歩動くと、ちりん、と控えめな音がした。
宿場の子にしては、服が少し上等だった。
けれど、足元は違う。
湿った桟橋の板を、どこが滑るか知っている歩き方で歩いていた。
少女は、まず老人の舟を見た。
舟に積まれた舟塗りの壺。
赤草の束。
布に包まれた赤塩灯の皿。
それから、舟の先で黒く揺れている赤塩灯。
最後に、レンとセラを見た。
「遅かったね。霧?」
「霧だ。途中で少し止められた」
「舟塗りは持ってきた?」
「三壺ある。赤草も少しだ」
「助かる。昨日塗った舟底、まだ乾いてなかったんだよ」
「またか」
「また。塗ったあと、いつまでもべたつく。乾いたと思って水に出しても、舟の進みが悪い」
少女は壺を見下ろした。
「塗る人の腕じゃないよ。赤塩の方が変」
「分かっているなら早い」
老人は短く言った。
「前よりはましな分を持ってきた」
「“まし”で直すの、そろそろやめたいんだけど」
「いい赤塩が少ない。文句はヴィルマで言え」
少女は口元を少しだけ曲げた。
「言って聞く相手なら、とっくに言ってる」
セラが小声で言う。
「この子、誰?」
レンは首を横に振った。
知らない。
けれど、ただ宿場で働いている子ではなさそうだった。
少女の目が、今度ははっきりとレンたちに向いた。
「それで、その二人は?」
「川で拾った」
「川で拾ったって、魚みたいに言わないで」
セラがすぐに言った。
老人は気にしない。
「渡し場にいた。舟代がなかったから、荷運びを手伝わせた」
「ふうん」
少女はレンとセラを順番に見る。
「壺は落とさなかった?」
「落としてない」
セラが答えた。
「それは大事だね」
「大事なの?」
「このあたりではね。壺を落とす子は、舟にも荷にも向いてない」
「落としてないって言ったでしょ」
「だから、まだ話を聞いてる」
「何それ」
「落としてたら、もう話は終わってたってこと」
「嫌な言い方」
「分かりやすいでしょ」
少女は悪びれもせずに言った。
それから、少し目を細める。
「どこから来たの?」
レンは、すぐには答えられなかった。
セラも黙った。
老人は、そこを聞かなかった。
たぶん、わざと聞かなかった。
腹を空かせていること。
行く場所を探していること。
それだけ分かれば十分だ、という顔をしていた。
けれど、この少女は違う。
聞く。
まっすぐに。
レンは布袋のひもを握った。
「……上の方からです」
「上の方って、便利な言い方だね」
「本当に上の方だから」
セラが言った。
「じゃあ、どこの村?」
「……」
「言えないんだ」
「言えないんじゃなくて、説明しにくいの」
「宿場では、それを“言えない”って呼ぶよ」
「ミナ」
老人が低く言った。
「何」
「そのくらいにしろ」
「じいさんは聞かなすぎ」
「聞いても、舟は軽くならん」
「でも、知らない子をそのまま通したら、あとで困ることもある」
「こいつらは腹を空かせていた」
「それは見れば分かる」
「なら、それで十分だ」
「十分じゃない。どこから来たかで、話が変わる」
二人の言い合いを遮るように、セラが一歩前へ出た。
「わたしたちは逃げてない」
「じゃあ、迷ってる?」
「迷ってもない」
「なら、どこへ行くの?」
セラは答えなかった。
レンも、すぐには言えなかった。
少女――ミナは、二人の顔を見比べた。
「言えないこと、多いね」
「だから、説明しにくいだけ」
セラが言い返す。
「同じくらい困る」
「嫌な子」
「よく言われる」
ミナは少しだけ笑った。
それから、レンの布袋へ視線を落とす。
「その袋」
レンは布袋を押さえた。
「ずっと握ってるね」
「大事なものです」
「見せられないもの?」
レンは少し迷った。
ミナの言い方は、少し意地悪だった。
けれど、何も知らない子どもの目ではない。
赤い川を見ている。
舟塗りを見ている。
赤塩灯の黒い火を見ている。
そして、ヴィルマという町を知っている。
レンはセラを見た。
セラは不満そうだったが、止めなかった。
「……少しだけなら」
レンは布袋から、夢札を一枚取り出した。
「これです」
「何、それ」
「夢札です」
「夢札?」
「ぼくたちは、この札に描かれた場所を探しています」
「描かれた場所?」
レンは札の表面を指した。
古びた札には、薄い線で景色が描かれている。
赤い水。
水の上に並ぶ灯り。
そして、その奥に立つ大きな骨の門。
「赤い海です」
レンは言った。
「水の上に灯りが並んでいて、奥に大きな骨の門みたいなものがあります」
ミナの目が細くなった。
「……赤い海と、骨の門」
「知ってるの?」
セラが聞いた。
「知ってるも何も」
ミナは川下を見た。
「それは、たぶん血海ヴィルマだよ」
レンの胸が、小さく鳴った。
「本当に?」
「赤い海。水の上の灯り。骨の門。そこまでそろってるなら、他にはあまりない」
レンは夢札を見下ろした。
ここまで来る間、何度も見た絵。
でも、場所の名前までは分からなかった。
ようやく、絵と名前がつながった気がした。
「じゃあ、やっぱり」
ミナはレンを見る。
「君たちは、その夢札に描かれた場所を探して、ヴィルマへ行きたいんだね」
「はい」
「最初からそう言えばいいのに」
「聞き方が嫌だったから」
セラが言った。
「正直だね」
「そっちほどじゃない」
ミナは少し笑った。
それから、夢札ではなくレンの顔を見た。
「もうひとつ聞く」
「何ですか」
「川の途中で、白い魚を見なかった?」
レンはうなずいた。
「見ました」
「ひれに黒い点は?」
「二つありました」
ミナの表情が変わった。
からかうような色が、すっと消える。
「二つ」
「はい」
「昨日、わたしが見た時は一つだった」
セラが眉を寄せる。
「増えてるってこと?」
ミナは答えなかった。
桟橋の下を流れる赤い水を、じっと見つめている。
「ミナ?」
「早すぎる」
小さな声だった。
「魚の病気?」
セラが聞く。
「魚だけなら、まだまし」
「どういうこと?」
ミナは赤塩灯を見た。
火の中心に、黒い揺れがある。
次に、舟塗りの壺を見た。
それから、川の水へ視線を戻す。
「舟塗りも乾かない。赤塩灯の火も黒く揺れる。白い魚の点も増えてる」
「全部、ヴィルマに関係あるの?」
レンが聞いた。
「まだ分からない」
ミナは短く答えた。
「でも、確かめないといけない」
それ以上は言わなかった。
説明ではなく、焦りだけが残った。
「ミナは、ここで何をしてたの?」
レンが聞く。
「寄っただけ」
「宿場の子じゃないの?」
「違う。わたしはヴィルマの潮読み見習い」
「潮読み……」
老人が言っていた言葉だ。
川には川読みがいる。
血海には、潮を読む者もいる。
「水の色、匂い、泡、魚の動き、鐘の音を見る仕事」
ミナは腰の小さな鈴を指で押さえた。
「川上から流れてくるものを見てた。魚も、赤塩も、舟塗りも」
「ヴィルマへ戻るの?」
「戻る。白い魚の点が二つになったなら、なおさら」
「じゃあ、乗せて」
セラがすぐに言った。
ミナはセラを見る。
「ただで?」
「……お金はない」
「知ってる」
「顔に書いてあるって言う気?」
「言おうと思ったけど、先に言われた」
「言わなくていい」
ミナは川下へ視線を向けた。
「宿場から先、歩いてヴィルマへ行くのは難しい。水路が多いし、道も切れてる。霧が出たら、よそ者はすぐ迷う」
「だから舟がいる」
「そう。わたしは舟を出せる」
「じゃあ乗せて」
「ただでは嫌」
「だから、お金はないって」
「お金じゃなくてもいい」
ミナの視線が、セラの髪に止まった。
「その髪留め」
「え?」
「青い石のやつ。それなら舟代にしてもいい」
セラの手が、反射的に髪へ伸びた。
小さな三日月形の髪留め。
青銀色の金属に、深い水色の石がひとつはめ込まれている。
派手ではない。
けれど、宿場の赤い灯りの中でも、その石だけは冷たい月の光を持っているように見えた。
「これはだめ」
セラはすぐに言った。
「じゃあ、舟もだめ」
「他のものにして」
「他に高そうなもの、持ってる?」
セラは黙った。
レンも何も言えなかった。
ミナは淡々と言った。
「ヴィルマまでの潮は簡単じゃない。霧も出る。潮も戻る。今は白い魚までおかしい。危ない舟を出すなら、それくらいは欲しい」
「返してくれるの?」
セラが聞いた。
ミナは首を横に振った。
「返すとは言わない」
「は?」
「取引だから。預かるんじゃない。もらう」
「ずるい」
「うん。ずるいよ」
「認めるんだ」
「認める。わたしは舟を出す。あんたたちは舟がいる。取引としては分かりやすい」
「わたしたち、子どもだよ」
「わたしも子どもだよ」
ミナの声は、そこで少しだけ低くなった。
「だから、ただで危ないことはしない」
セラはミナをにらんだ。
ミナも目をそらさない。
けれど、すぐに言い返す声はなかった。
セラの指先だけが、髪留めの上で止まっている。
いつものセラなら、すぐに怒る。
すぐに前へ出る。
すぐに、何か言い返す。
でも、その時だけは違った。
セラは何も言わず、川下の霧を見た。
赤い海。
水の上の灯り。
骨の門。
夢札に描かれていた場所が、その先にあるかもしれない。
レンは胸の奥が痛くなった。
自分がもっと強ければ。
自分が何か払えるものを持っていれば。
セラが、こんな顔をしなくてもよかったのに。
「セラ、いいよ」
レンは言った。
「別の方法を探そう」
セラは首を横に振った。
「ないでしょ」
小さな声だった。
「今、ないでしょ」
レンは答えられなかった。
老人も、何も言わなかった。
川下へ行くには舟がいる。
そして、その舟を出せるのは、目の前のミナだった。
セラはゆっくり髪留めを外した。
淡い髪が、肩の横へ少しこぼれる。
青銀の髪留めは、セラの手のひらの上で静かに光っていた。
その光だけが、赤い宿場の中で冷たかった。
「……渡す」
セラは言った。
「でも、忘れないで」
ミナは黙っていた。
「それは、わたしの大事なものだったってこと」
ミナの顔から、少しだけ笑みが消えた。
「覚えておく」
「絶対に」
「取引相手の顔と品物は忘れない」
ミナは言った。
「損するから」
「最後までそれか」
セラは苦い顔をした。
けれど、声は震えていた。
セラは髪留めを差し出した。
ミナはそれを受け取ると、腰の革袋には入れなかった。
首から下げていた小さな布包みを開き、その中へ丁寧にしまった。
その仕草を見て、レンは少しだけ息を吐いた。
雑には扱っていない。
でも、戻ってくる約束はない。
セラの横顔は、いつもより少し遠く見えた。
「取引成立」
ミナは言った。
「舟は出す。ヴィルマまで乗せてあげる」
セラはほどけた髪を手で押さえたまま、短く答えた。
「……うん」
その手は、髪を直しているというより、そこにあったものがなくなったことを隠しているように見えた。
出発の準備は、思ったより早く終わった。
ミナは宿場の男から小さな木箱を二つ受け取った。
「これも運んで」
「まだ働かせるの?」
セラが言う。
「舟に乗る荷物。先に積まないと、あんたたちの座る場所が決められない」
「そういうことなら、最初からそう言って」
「最初からそう言ったら、文句が減ってつまらないでしょ」
セラは言い返そうとして、やめた。
代わりに木箱を持ち上げる。
「落とさなければ、少し広い方に座らせてあげる」
「それは本当?」
「本当。狭いと落ちやすいからね」
「急にちゃんとしてる」
「落ちた子を拾う方が面倒だから」
レンとセラは木箱をミナの小舟へ運んだ。
宿場で粥を一杯もらい、湯気の中で急いで食べた。
セラはあまり話さなかった。
髪留めを外した髪を、何度も手で押さえている。
いつもの場所に指が触れるたび、何もないことを確かめてしまうみたいだった。
レンは何か言おうとして、言えなかった。
ありがとう。
ごめん。
どちらも違う気がした。
出発の前、レンは老人に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「沈むなよ」
「はい」
老人は川下を見た。
「水と火をよく見ろ」
「水と火?」
「泡が増えた水と、黒く揺れる火には近づきすぎるな」
老人はそれだけ言って、櫂を肩に担いだ。
セラが小さく手を振る。
老人は返事の代わりに、櫂を一度だけ持ち上げた。
それで別れは終わった。
ミナの舟は、宿場の端にあった。
老人の舟より少し細く、低い。
先端には赤塩灯ではなく、青白い小さな灯りが下がっている。
灯りの下には、丸い真鍮の輪がついていた。
風もないのに、輪はかすかに揺れている。
「これ、何?」
セラが聞いた。
「潮の向きを見る道具」
「風じゃなくて?」
「風も見る。水も見る。音も見る」
「見えないものばっかり」
「見えるものだけで進むと、潮では迷う」
ミナは舟へ乗り込んだ。
「乗って。でも、勝手に立たない。水に手を入れない。荷物をまたがない」
「子ども扱いしないで」
「子どもでしょ」
「あんたもでしょ」
「わたしは舟を出せる子ども。そこが違う」
セラはむっとしたが、それ以上は言わなかった。
レンは慎重に舟へ乗った。
セラも続く。
舟は少し揺れたが、すぐに水へなじむように戻った。
ミナは綱をほどき、細い櫂を水に差した。
宿場の桟橋がゆっくり離れていく。
赤い霧の中で、老人の姿が小さくなる。
レンはもう一度だけ頭を下げた。
ミナの舟は川下へ進んだ。
宿場を過ぎると、川は急に広くなった。
左右の岸が遠くなる。
赤草は少なくなり、代わりに低い杭が水の中に並び始めた。
杭には赤い紐や、骨で作られた札が結ばれている。
水面には白い泡が浮かび、ところどころに黒い筋が混じっていた。
匂いも変わった。
川泥の匂いに、少しだけ塩の匂いが混ざる。
舌の奥が、かすかにしょっぱくなるような匂いだった。
「このあたりから、川じゃなくなる」
ミナが言った。
「血海に入る手前。流れと潮が混ざる場所」
「見て分かるの?」
セラが聞く。
「見ても分かる。匂いでも分かる。音でも分かる」
ミナは櫂を止め、耳を澄ませた。
レンも耳を澄ませる。
最初は、何も分からなかった。
水の音。
霧の音。
遠くの鳥の声。
けれど、しばらくすると、水の音の奥に、ゆっくり押し返すような響きがあった。
川が前へ進もうとしている。
その下から、別の水が戻ってくる。
そんな音だった。
「今、戻った」
ミナが言った。
「何が?」
「潮」
セラが首をかしげる。
「見えないけど」
「見えるものだけ見てると迷うって言ったでしょ」
「それ、便利な言い方」
「便利だよ。だいたい勝てるから」
「勝つために言ってるんだ」
「負けるために話す人、いる?」
セラは少し黙った。
「……やっぱり、ずる賢い」
「ありがとう」
「褒めてない」
「知ってる。でも、ずる賢い方が生き残れるよ。特に、子どもは」
その言葉だけ、少し冷たかった。
レンはミナの横顔を見た。
十二歳くらい。
セラより少しだけ年上。
それなのに、潮を読み、舟を出し、大人相手に荷を受け取っていた。
ずる賢い。
でも、それは悪いことをするためというより、負けないためのものに見えた。
舟の前で、白いものが水面を横切った。
レンは息を止めた。
白い魚だった。
透き通った体。
薄いひれ。
ひれには、黒い点が三つあった。
「あ」
セラも気づく。
「三つ」
ミナの手が止まった。
「……早すぎる」
声が小さかった。
からかうような響きは、もうなかった。
「昨日は?」
レンが聞く。
「一つ」
ミナは短く答えた。
「さっき、君たちが見た時は二つ。まだ半日も経ってない」
それ以上、説明しなかった。
ただ、舟の向きを変えた。
白い魚は、赤い水の中でふらつきながら進んでいく。
まるで、見えない何かから逃げているみたいだった。
「悪いの?」
セラが聞いた。
ミナは少し遅れて答えた。
「悪い」
「何が?」
「水か、潮か」
ミナは唇を結んだ。
「たぶん、両方」
白い魚は時々水面へ浮かび、また沈む。
黒い点は、赤い水の中でも見えた。
まるで、小さな穴がひれに空いているみたいだった。
しばらく進むと、遠くから鐘の音が聞こえた。
ごん。
低い音。
けれど、最後が少しかすれた。
レンは顔を上げた。
「鐘の音?」
「潮鐘」
ミナの声が硬くなる。
もう一度、鐘が鳴る。
ごん。
今度も、音は途中でかすれた。
レンには、誰かが大きく息を吸おうとして、途中で苦しくなったように聞こえた。
「変な音」
セラがつぶやいた。
ミナは答えなかった。
舟の先についた真鍮の輪が、かすかに震えている。
水面の泡が増えた。
赤い水の上を、白い泡が小さく弾けながら流れていく。
ミナはその泡を見て、櫂を握り直した。
「……流れが逃げてない」
「え?」
「ヴィルマには潮門がある」
ミナがぽつりと言った。
「潮門?」
「潮を通す門。そこが、詰まってるのかもしれない」
それだけ言って、ミナは口を閉じた。
けれど、その目はずっと川下を見ていた。
白い魚は、濃い赤い霧の方へ進んでいく。
舟も、その後を追った。
霧が少しずつ薄くなった。
その向こうに、赤い灯りが浮かんでいる。
一つではない。
二つでもない。
川の上に、星みたいに赤塩灯が並んでいた。
水の上に建つ家。
低い桟橋。
赤い塩を乾かす棚。
黒い杭の列。
屋根から屋根へ渡された縄。
そこに吊るされた赤草。
水面近くには、小さな舟がいくつもつながれている。
その奥に、骨でできた大きな門の影が見えた。
レンは息をのんだ。
「あれが……」
ミナが櫂を握り直した。
「血海ヴィルマ」
赤い水の町は、夕霧の中でぼんやり光っていた。
きれいだった。
水の上に浮かぶ赤い灯り。
白い霧ににじむ屋根。
川面に映る、いくつもの光。
まるで町全体が、赤い夢を見ているみたいだった。
レンは布袋を押さえた。
夢札の絵と似ている。
赤い水。
水の上の灯り。
奥に立つ骨の門。
「夢札の絵と同じ?」
セラが聞いた。
「似てる」
「じゃあ、ここなんだ」
「たぶん」
「たぶんで来ちゃったね」
「うん」
「でも、来た」
セラはほどけた髪を押さえながら、赤い町を見上げた。
「来たなら、探すだけ」
ミナが横目でセラを見る。
「単純」
セラは言い返そうとして、やめた。
その代わり、町を見た。
きれいなだけではなかった。
赤塩灯の火はどれも、中心に黒い揺れを抱えている。
水面には白い泡が浮かび、桟橋の下では、赤い水がゆっくり渦を巻いていた。
魚売り場らしい棚が見えた。
けれど、そこに白い魚はいない。
干された網だけが、風もないのに少し揺れていた。
ミナは舟を外れの船着き場へ寄せる。
桟橋に近づくと、町の音が聞こえてきた。
人の声。
木箱を引きずる音。
水をくむ音。
赤塩をかき集める、ざりざりという音。
そのどれもがにぎやかなのに、どこか息をひそめているようだった。
舟が桟橋に触れた。
こつん、と小さな音がする。
ミナは綱を杭にかけた。
「着いたよ」
レンは舟から降りる前に、もう一度町を見た。
血海ヴィルマ。
夢札に描かれた赤い海の町。
その中心で、黒い火が揺れている。
ミナは骨の門の影を見たまま、低く言った。
「潮が、止まりかけてる」
その時、遠くで潮鐘が鳴った。
ごん。
けれど、音は伸びなかった。
町へ届く前に、途中で切れた。
赤い灯りが、ひとつ黒く揺れる。
次の音は、来なかった。
第9話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、レンとセラが夢札に描かれた赤い海の町、血海ヴィルマへ向かう回でした。
新キャラクターのミナは、ヴィルマの潮読み見習いです。
少しずる賢く、言い方もきついですが、この世界で子どもが生き抜くための強さを持っています。
セラが髪留めを渡す場面は、今回の大事な分岐点でした。
大切なものを失ってでも先へ進む。
その選択が、この先の旅にどう響いていくのかも見てもらえたら嬉しいです。
赤い海。
黒く揺れる火。
点が増えていく白い魚。
途中で切れる潮鐘。
ヴィルマでは、何かが静かに壊れはじめています。
次回、レンたちはヴィルマの町へ足を踏み入れます。
夢札の手がかり、潮の異変、そしてミナが隠している町の事情。
この先、ヴィルマで何が起きると思いますか?
よければ、感想や予想、「こんな続きを見たい」というアイデアを聞かせてもらえるとうれしいです。
感想、評価、ブックマーク、リアクションなども、物語を続ける大きな励みになります。
少しでも面白いと思っていただけたら、応援してもらえるとうれしいです。




