宿場へ向かう小舟
壺は、見た目よりずっと重かった。
昼前の渡し場には、赤い川の湿った匂いが広がっていた。
朝の霧はまだ川面に残っている。けれど、さっきより少しだけ薄くなり、川向こうの赤草もぼんやり見えるようになっていた。
小屋の裏にある作業場から、小舟のそばまでは十歩ほどしかない。
けれど、セラが片側を持ち、レンが反対側を持っても、その十歩はずいぶん長く感じた。
壺の底には、赤黒いものがずっしり入っている。
歩くたびに、中身がゆっくり揺れた。
「重い」
セラが言った。
「うん」
レンも答えた。
老人は小舟の横に立って、短く言った。
「舟の横まで運んでくれ。まだ積まなくていい」
レンは顔を上げた。
「舟に乗せないんですか?」
「まだ口を縛ってない。倒れたら中身がこぼれる」
「中身って、この赤黒いの?」
セラが壺の中をのぞき込む。
赤黒いものは、泥より濃く、油より重そうだった。表面に、薄い赤い光が浮いている。
「舟塗りだ」
老人は言った。
「舟の腹に塗る。川の水は木を傷めるからな。これを塗れば、少しはもつ」
「これを売りに行くの?」
「川下の宿場にな」
「血海ヴィルマまでは行かないの?」
「わしが行くのは宿場までだ。そこから先は、別の舟を探せ」
ヴィルマ。
その名前を聞いて、レンは川下を見た。
白い魚が消えた方角。
赤い川が流れていく先。
その先にある町のことを、レンはまだ何も知らない。
名前だけが、少し不気味に胸に残った。
老人は壺を指差した。
「まずは、それを運べ。舟の横に並べる。口を上にしろ。揺らすな」
「注文が多い」
セラが言う。
「こぼすよりましだ」
レンは両手に力を入れた。
壺の表面は少し湿っていて、指が滑りそうになる。赤黒い舟塗りの匂いが近くなった。
赤草の乾いた匂い。
川泥の湿った匂い。
それから、赤塩の鉄に似た匂い。
その全部が混じっている。
二人はゆっくり歩いた。
足元には小石がある。
川の近くの土は湿っていて、踏むと少し沈んだ。
小舟のそばには、同じような壺が三つ並んでいた。どれもまだ舟には積まれていない。口には布がかぶせられているものもあれば、まだ開いたままのものもある。
老人は空いている場所を足で示した。
「そこへ置いてくれ」
レンとセラは、壺をゆっくり下ろした。
ごとん、と鈍い音がした。
セラが大きく息を吐く。
「落とさなかった」
「まだ一つだ」
老人は言った。
「まだあるの?」
「ある」
「粥って、そんなに高いの?」
「腹が減ってる時の粥は高い」
セラは何か言い返そうとして、やめた。
たぶん、正しいと思ったのだ。
次に、老人は作業場の柱に吊るされた赤草を指差した。
「その赤草を舟の横へ運んでくれ。壺のあとに積む」
「これは軽い?」
「軽い。だが散らすな」
赤草は乾いていて、持ち上げると、ぱりぱりと小さな音を立てた。
レンとセラは束を抱え、小舟の横へ運んだ。赤草は舟塗りに混ぜる材料で、余った分は宿場でも使うらしい。
作業場と小舟の間を何度も往復するうちに、太陽は少し高くなっていた。
川岸の赤草には光が当たり始めている。
けれど、川の真ん中にはまだ白い霧が残っていた。流れの上に薄くかぶさり、川下の方をぼかしている。
壺と赤草を運び終えると、老人は古い布と縄を持ってきた。
「次は壺の口を縛る」
老人は壺の口に布をかぶせ、縄を二重に巻いた。
「川で揺れる。ゆるいと中身が漏れる」
レンは老人の手元を見た。
老人の指は節くれ立っていた。けれど縄を扱う動きは早く、迷いがない。輪を作り、締め、余った縄を壺の首に巻き込む。
「やってみろ」
老人が縄を一本、レンに渡した。
レンは見よう見まねで壺の口に巻いた。
けれど、結び目が少しゆるい。
老人が指で引くと、すぐにほどけた。
「だめだな」
「すみません」
「謝る前に、もう一回だ」
レンはうなずいた。
今度は、布を押さえながら縄を二重に巻く。結び目を作り、強く引いた。
指が痛くなる。
でも、さっきより締まった。
老人は少しだけうなずいた。
「さっきよりはいい」
セラも隣で結んでいた。
こちらは縄がぐるぐる巻きになって、壺の首のところで大きなこぶみたいになっていた。
「強そうじゃない?」
セラが言った。
老人はレンの結び目と、セラの結び目を見比べた。
「ちんちくりんの坊主の方は、まだ筋がいい」
レンは少し顔を上げた。
「ぼくですか?」
「他に坊主がいるか」
老人は次に、セラの結び目を指差した。
「こっちの嬢ちゃんはだめだ。力で縛ってるだけだ」
セラがむっとした。
「力があるのはいいことでしょ」
「力だけなら、荷物も壺も壊す」
「……そんなにだめ?」
「川に出る前なら、やり直せる。川に出てからほどけたら、終わりだ」
セラは壺の首にできた大きな結び目を見た。
少し悔しそうに口を曲げる。
「もう一回やる」
「もう一度やってみな」
セラは縄をほどいた。
今度は老人の手元をちゃんと見てから、布を押さえ、縄を巻き直した。
さっきより結び目は小さくなった。
老人はそれを見て、短く言った。
「それなら運べる」
セラは小さく息を吐いた。
壺の口をすべて縛り終えると、老人は小舟の中を指差した。
「次は積む。壺は真ん中。赤草は後ろ。木箱は前。木箱は濡らすな」
「壺を真ん中に置くのは?」
レンが聞いた。
「重いからだ。端に寄せると舟が傾く」
「赤草は後ろ?」
「軽い。濡れてもすぐ乾く」
「木箱は?」
「赤塩灯の皿が入ってる。割れたら売れん」
何をどこに置くのか。
どうしてそこに置くのか。
老人の言葉は短かったが、理由ははっきりしていた。
レンは少し安心した。
分からないまま動くより、ずっとましだった。
二人は縛った壺を、今度は舟へ運び入れた。
さっきより難しかった。
舟に乗せる時、足場が揺れる。
レンが舟べりに片足をかけると、小舟がぐらりと動いた。
「端を踏むな。真ん中だ」
老人が低く言った。
レンはあわてて足を戻した。
二人は息を合わせて、壺を舟の真ん中へ下ろした。
ごとん。
舟が少し沈む。
でも傾かなかった。
老人がうなずく。
「次だ」
そうして、壺を三つ積んだ。
赤草の束を後ろへ置く。
木箱は老人が自分で持ち、舟の前の乾いた場所へ置いた。
木箱の隙間から、欠けた赤塩灯の皿が見えた。
荷を積み終えるころには、昼が近づいていた。
太陽は高くなったはずなのに、渡し場は明るくなりきらなかった。
川の上の霧が、朝より濃くなっていたからだ。
水面から白い息のように立ち上がり、向こう岸の赤草をぼんやり隠している。
レンの腕は少し震えていた。
セラも手のひらを見ている。
「赤くなった」
セラの指先には、赤黒い塗りが少しついていた。
「こすると広がるぞ」
老人が言った。
セラはこすろうとしていた手を止めた。
「先に言って」
「間に合っただろ」
「ぎりぎりね」
老人は小屋の中へ入った。
「食え」
その一言で、セラの顔がぱっと明るくなった。
昼前の小屋の中は、外より少し暗かった。
壁には乾いた赤草が吊るされ、棚には赤塩灯の皿が二つ置かれている。炉の横には小さな赤塩の壺があり、古い椀が三つ並んでいた。
鍋から湯気が上がっている。
粥の匂いだった。
老人は椀に粥をよそった。
粥は薄かった。
湯の中に米の粒がまばらに浮いている。
セラは椀を受け取ると、炉の横に置かれていた赤塩の壺を見た。
「これ、少し入れていい?」
老人の手が止まった。
「だめだ」
「どうして?」
「高い」
短い答えだった。
セラは赤塩の壺を見たまま、黙った。
レンも自分の椀を見下ろした。
薄い粥。
けれど、湯気は温かい。
さっきまで壺を運んでいたせいで、腕は重く、指先は赤黒く汚れている。
お腹は空いていた。
老人はしばらく二人を見ていた。
それから、何も言わずに小さな木匙を取った。
赤塩をほんの少しだけすくい、二人の椀へ落とす。
赤い粒は粥の表面でほどけ、淡い輪になって広がった。
セラが顔を上げる。
「いいの?」
「少しだけだ」
老人は木匙をしまった。
「それ以上は入れん」
レンは椀を両手で持った。
一口食べる。
素朴な味だった。
特別に甘いわけでも、濃いわけでもない。
でも、温かい粥に赤塩のうまみが少し混じると、体の奥にじんわり広がった。
働いた後の体には、それが格別だった。
セラは一口食べて、少し目を丸くした。
「おいしい」
「腹が減ってるからだ」
老人は言った。
「それもある」
セラはもう一口食べた。
「でも、これもおいしい」
老人は何も言わなかった。
ただ、自分の椀にも赤塩をほんの少しだけ落とした。
粥を食べ終えるころには、外の光が白く曇っていた。
昼前のはずなのに、川岸は夕方みたいにぼやけている。
霧が濃くなっていた。
老人は戸口に立ち、川を見た。
向こう岸がほとんど見えない。
水標も白くかすんでいる。
川の曲がり角は、霧の奥に消えていた。
老人はしばらく黙っていた。
それから言った。
「今日は無理だな」
セラが椀を持ったまま固まった。
「え」
「明日にする」
「舟、出せないの?」
「この霧じゃ無理だ。曲がり角が見えん。水標も見えん。荷を積んだ舟で入るには悪い」
レンは外を見た。
霧の奥で、川の音だけが大きく聞こえた。
さっきまで見えていた赤い流れも、今は白い幕の下に隠れている。
セラは少し肩を落とした。
「じゃあ、宿場へ行くのは明日?」
「そうだ」
「その先がヴィルマ?」
「宿場で聞け。ヴィルマへ行く舟もある」
老人は戸を閉めた。
小屋の中が少し暗くなる。
赤塩灯の赤い光が、壁に揺れた。
その光の中心に、ほんの少し黒い揺らぎがあった。
レンはそれを見た。
「火が黒い」
老人は赤塩灯へ目を向けた。
「ああ」
「前は、違ったんですか」
「もっと澄んでいた」
老人は椀を片づけながら答えた。
「最近の赤塩は、火が濁る。舟塗りに混ぜても乾きが遅い」
レンは首をかしげた。
「どうして、赤塩は変わったんですか」
それは、責めるような言い方ではなかった。
ただ、分からなかったから聞いた。
赤塩は灯りになり、粥に入って、舟を守る。
それほど大事なものが、どうして変わってしまうのか。
レンには不思議だった。
老人はすぐには答えなかった。
赤い灯りの中で、老人の顔のしわが深く見えた。
「さあな」
老人は短く言った。
「わしは赤塩を採る者じゃない。舟に塗る者だ」
老人は赤塩灯を見た。
赤い火の中心で、黒い揺れが小さく動いている。
「だが、いい赤塩は火が澄む。舟塗りに混ぜてもよく乾く。近ごろのは、火が黒い。塗りも重い」
「それは……悪い赤塩ってことですか」
「悪いというより、混じりものが多いんだろうな」
老人は椀を片づけながら言った。
「何が混じってるのか、どこで混じったのかまでは知らん」
レンは赤塩灯を見た。
赤い光の奥で、黒い揺れが消えずに残っている。
「でも、何かが変わってるんですね」
「ああ」
老人はうなずいた。
「塩は嘘をつかん。塩が変われば、舟も、灯りも、飯も変わる」
午後は、小屋の裏の作業場で過ごした。
舟は出せない。
けれど、明日宿場へ持っていく荷はまだ整えなければならない。
霧のせいで作業場は暗かった。屋根だけの低い場所で、柱には赤草の束が吊るされ、床には白い粉の入った袋や、黒い泥をこした桶、油の壺が並んでいる。
老人は次の日に積む分を指差した。
「この赤草は、束ね直す。縄がゆるい」
次に、木箱を指差す。
「その皿は布で包め。欠けてる。ぶつけると割れる」
最後に、赤黒い舟塗りの壺を見る。
「壺は動かすな。もう積んだ分で足りる」
セラがうなずいた。
「つまり、赤草を束ねて、皿を包んで、壺は触らない」
「そうだ」
「分かりやすい」
「最初から聞け」
二人は赤草を束ね、古い縄をほどき、欠けた赤塩灯の皿を一枚ずつ布で包んだ。
作業は地味だった。
でも、何をしているのかは分かった。
赤草は舟塗りに使う。
赤塩灯の皿は宿場で売る。
舟塗りの壺は、明日、川下の宿場へ運ぶ。
その一つ一つが、老人の舟に積まれていく。
午後が深くなるにつれて、霧はさらに濃くなった。
作業場の外は白く、川の向こうはもう見えない。
赤い川の音だけが、近くで低く響いている。
夕方になると、小屋の中には早めに赤塩灯がともされた。
赤い光は壁を照らしたが、その中心にはやはり黒い揺れがあった。
夕飯は、昼に残った粥を温め直したものだった。
米は少ない。
赤塩はほんの少し。
けれど、昼より静かに食べたせいか、レンにはその味がよく分かった。
その夜、レンとセラは老人の小屋に泊まった。
泊まった、と言っても、部屋をもらったわけではない。
小屋の隅に古いござを二枚敷かれ、そこへ丸くなって眠っただけだった。
けれど、外で眠るよりずっとよかった。
壁の向こうでは、赤い川が一晩中流れていた。
ごう。
ごう。
低い音が、床板の下からも聞こえてくる。
最初、レンは眠れないと思った。
霧が濃い。
川は近い。
赤塩灯の火は黒く揺れている。
白い魚のひれに浮かんだ黒い点も、まだ目に残っている。
でも、隣を見ると、セラはもう寝息を立てていた。
早い。
レンは少しあきれた。
そして、少し安心した。
次に目を開けた時には、朝だった。
屋根の隙間から、細い光が落ちている。
朝の川は、昨日の昼より明るかった。
小屋の戸が開いている。
外の霧は薄くなり、向こう岸の赤草が見えていた。
水標も、川の曲がり角も見える。
老人はもう作業場に立っていた。
「起きろ」
セラがござの上で目をこする。
「もう?」
「今日は出る」
その一言で、セラは起き上がった。
朝食は、昨日の残りの粥だった。
けれど、老人はほんの少しだけ米を足してくれた。
赤塩も、何も言わずに少しだけ入れてくれた。
セラは大事そうに食べた。
朝食のあと、すぐに荷の確認をした。
昨日のうちに積んでおいた舟塗りの壺。
束ね直した赤草。
布で包んだ赤塩灯の皿が入った木箱。
縄。
古い布。
老人はそれぞれを指差し、置き場所を確かめた。
「壺は真ん中。赤草は後ろ。木箱は前。濡らすな」
「言わなくても分かってる」
セラが胸を張って言った。
老人はじろりとセラを見た。
「分かってるやつは、そういう顔をしない」
「どういう顔?」
「今にも木箱を濡らしそうな顔だ」
「顔で決めないで」
レンは木箱を両手で抱え直した。
赤塩灯の皿が入っている。
割れたら売れない。
濡れても困る。
昨日、何度も聞いたから、今度はちゃんと分かった。
小舟は小屋の下の浅瀬につながれている。
赤黒い腹をした小舟だった。舟底には古い傷がいくつもあり、その上から何度も塗り直した跡がある。
荷を積み終えた小舟は、少しだけ深く沈んでいた。
でも、まっすぐ浮いていた。
老人はそれを見てうなずいた。
「乗れ」
セラが先に舟へ乗った。
舟がぐらりと揺れる。
「うわ」
「端を踏むな。真ん中だ」
老人が低く言った。
セラはあわてて足を戻した。
「……川の上って、落ち着かないね」
「落ち着かないくらいでちょうどいい」
老人は綱をほどいた。
「慣れた顔をしたやつから落ちる」
レンも慎重に乗った。
赤い水面が、舟べりのすぐ下にある。
老人が綱をほどき、櫂を差した。
小舟はゆっくり岸を離れる。
小屋が少しずつ遠ざかっていった。
赤い草の屋根。
低い作業場。
吊るされた赤草。
昨日、壺を運んだ小さな道。
一晩だけ過ごした場所なのに、見えなくなると少し寂しい気がした。
セラが小屋を見ながら言った。
「一泊しただけなのに、ちょっと知ってる場所みたいになるね」
レンはうなずいた。
「うん」
「変なの」
「うん」
舟は川下へ進んだ。
水面は近かった。
舟べりから手を伸ばせば、指先が届きそうなくらい近い。
でも、その赤い水に触れる気にはなれなかった。
川は静かに見えて、舟の下ではずっと何かが動いている。
ごう、と低い音が腹の下から響く。
舟底に水が当たるたび、足の裏に小さな震えが伝わった。
赤草の乾いた匂い。
壺からにじむ舟塗りの重い匂い。
川霧の冷たい匂い。
それらが混ざって、息を吸うたびに胸の奥が少し湿った。
セラは舟の真ん中で膝を抱えていた。
いつもより少し静かだった。
「これ、立ったら危ないやつだよね」
「うん」
「走ったら?」
「もっと危ないと思う」
「じゃあ、今日はおとなしくする」
セラはそう言って、舟べりから少し離れた。
老人が櫂を差し、舟の向きを戻す。
「その方がいい。川の上じゃ、強がるより座ってる方が役に立つ」
セラは少しだけ不満そうにした。
「座ってるだけで?」
「荷を倒さない。舟を揺らさない。それだけで十分だ」
レンは背中の布袋を押さえた。
夢札は濡れていない。
それだけを確かめて、少し息を吐いた。
岸の赤い草は低くなり、ところどころ白い骨の欠片が積もっていた。古い水標が半分倒れ、黒い丸のある面だけが川の方を向いている。
レンはそれを目で追った。
水標は一つではなかった。
川下へ進むにつれ、同じような柱が何本も見えた。
欠けているもの。
倒れているもの。
苔に埋もれているもの。
どれも川を見ている。
セラも気づいた。
「またあった」
「うん」
「全部、川の印?」
「たぶん」
「押す?」
「押さない」
「まだ言ってないのに」
「言いそうだった」
セラは少し笑った。
老人は櫂を動かしながら、二人の会話を聞いていた。
「水標だ」
老人が言った。
レンは顔を上げる。
「水標?」
「昔の川読みが使った印だ。水の高さ、流れの速さ、川底の深さを見る」
「川読み?」
「川を読む者だ。川には川読みがいる。血海には、潮を読む者もいる」
「潮を読む?」
「潮は川より気まぐれだ。満ちる。引く。戻る。赤くても、同じ赤じゃない」
老人は川下を見る。
「ヴィルマの方では、それを読めないと舟は迷う」
セラが身を乗り出す。
「潮を読むって、何を見るの?」
「水の色。匂い。泡。魚。鐘の音」
「鐘?」
「ヴィルマには潮鐘がある」
老人の声が少し低くなった。
「潮に合わせて鳴る鐘だ」
「鳴るんじゃなくて、鳴らすんじゃないの?」
「昔は、鳴らす者が潮に合わせた」
老人はそれだけ言った。
レンはその言い方が気になった。
昔は。
今は違うのだろうか。
聞こうとした時、舟の前で白いものが跳ねた。
白い魚だった。
透き通る体。
紙のようなひれ。
昨日と同じ魚かは分からない。
でも、ひれには黒い点が二つあった。
魚は舟の前を横切ろうとして、黒い筋に触れかけた。
その瞬間、体を強くよじった。
水面が小さく跳ねる。
魚は赤い流れの浅いところへ逃げた。
レンは思わず手を伸ばした。
「触るな」
老人の声が飛んだ。
レンの手が止まった。
「でも、弱ってます」
「だから触るな」
老人は櫂を水から上げずに言った。
「あの魚のひれは薄い。人の手で触れば破れる。水から上げれば、もっと弱る」
レンは白い魚を見た。
魚は舟の影のそばで、ふらふらと身をひるがえしている。
「じゃあ、どうしたら」
「魚だけ助けても戻す水が悪けりゃ同じだ」
老人は川下を見た。
「助けるなら、流れの方を見ろ」
白い魚は舟のそばを離れ、ふらふらと川下へ進んでいく。
レンはそれを見つめた。
「苦しそうだった」
「流れが悪い」
「流れが悪いと、魚は苦しくなるんですか」
「人も同じだろう」
老人は櫂を水に差した。
「空気の悪い部屋にずっといれば、息苦しくなる。水の悪い流れにいれば、魚も苦しい」
レンは川を見た。
赤い川は大きく、止まらずに流れている。
けれど、ただ流れていればいいわけではないらしい。
その中に、悪いものが混じっている。
重いものが沈んでいる。
白い魚は、それを避けながら進んでいる。
セラが言った。
「宿場まで行けば、ヴィルマへの舟もあるかな」
「あるといいけど」
レンはそう答えた。
「なかったら?」
「また困る」
セラはうなずいた。
「旅っぽい」
「それで全部まとめるの、やめない?」
セラは少し笑った。
昼近くになると、霧がまた薄く川面を流れ始めた。
老人は舟の先に吊るした小さな赤塩灯へ火を入れた。
赤い粒が、ぼんやり光る。
昼なのに、灯りが必要だった。
霧の中では、川岸が遠くなる。
赤い光だけが、舟の前で小さく揺れた。
レンはその灯りを見た。
中心に、黒い揺れがある。
小屋で見た赤塩灯と同じだ。
「前は、もっと澄んでいたんですか」
レンが聞くと、老人はうなずいた。
「もっと赤かった。煙も少なかった」
「いつから変わったの?」
「少しずつだ」
老人は櫂を動かす。
「気づいた時には、前の色を思い出せなくなってる」
舟は霧の中を進んだ。
川の音だけが近い。
時々、舟底に何かが当たるような鈍い音がした。
木片か。
骨の欠片か。
それとも、別のものか。
レンには分からない。
昼すぎ、舟は川辺の小さな宿場に着いた。
霧の中から、木の桟橋が現れる。
まず見えたのは、赤塩灯のぼんやりした光だった。
それから、低い屋根。
水に濡れた板の道。
軒先に吊るされた赤草の束。
荷を運ぶ人たちの声。
宿場は川に張りつくように並んでいた。
どの建物も古く、柱の下半分は赤い水に濡れている。桟橋の板は何度も修理された跡があり、歩くたびにぎい、と鳴った。
赤い川の匂いに、煮えた粥の匂いと、濡れた木の匂いが混ざっている。
レンのお腹が、小さく鳴った。
セラがちらりと見る。
「今の、舟の音?」
「……たぶん」
「レンのお腹、舟みたいな音するんだ」
「しない」
「したよ。小舟くらいの音」
レンは顔をそらした。
宿場の湯気が、ますますおいしそうに見えた。
老人の舟を見ると、桟橋にいた男が手を上げた。
「来たか」
「来た」
老人は短く答えた。
「霧で遅れた」
「今日はどこも霧だ。塗りは?」
「三壺。赤草も少しある」
「助かる。最近は舟底の傷みが早い」
男は舟の中をのぞき込み、壺を見た。
「また乾きが遅いやつか?」
「前よりはましだ」
「前よりまし、か。いい言葉じゃないな」
男はそう言って、顔をしかめた。
舟が桟橋に寄る。
ぎい、と木が鳴った。
その音に混じって、ちりん、と小さな鈴の音がした。
レンは顔を上げた。
宿場の一番大きな建物の戸口に、少女が立っていた。
年は十二歳くらい。
レンたちより少しだけ年上に見える。
淡い金色の髪を後ろで一つに結び、黒に近い紺色の上着を羽織っていた。上着の裾は長く、宿場の床板にこすれないよう、腰の革帯で少し持ち上げてある。
白い襟の服はきちんとしているのに、袖口だけは何度も水に濡れたように色が濃くなっていた。
首には小さな青い石の飾り。
腰には丸い真鍮の道具と、小瓶が三つ入った革のケース。
歩くたび、腰の小さな鈴が、ちりん、と控えめに鳴った。
宿場の手伝いをしているだけの子には見えなかった。
けれど、偉そうにも見えない。
まるで、自分より大きな仕事を、両手でこぼさないように持っている子みたいだった。
少女は老人の舟を見ると、薄い青の目を細めた。
「遅かったね。霧?」
「霧だ」
老人は短く答えた。
少女は桟橋の先まで歩いてきた。
赤い川の霧が、その足元を白く包んでいる。
彼女は舟の荷を見る前に、まず川面を見た。
それから、舟の先に吊るされた赤塩灯の黒い揺れを見た。
最後に、レンとセラを見た。
「……見慣れない顔」
セラが小さく身構えた。
レンも、布袋のひもを握った。
少女の腰の鈴が、もう一度だけ鳴った。
ちりん。
赤い川の向こうで、白い魚が小さく跳ねた。
けれど次の瞬間には、霧の中へ消えていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、レンとセラが川下の宿場へ向かう回でした。
舟に乗るだけでも一苦労な二人ですが、赤塩灯の黒い火や、弱っていく白い魚など、血海ヴィルマに近づくほど不穏な気配が増えてきました。
そして最後に現れた、鈴をつけた少女。
彼女が敵なのか、味方なのか、それとも別の目的を持っているのか。
次回から、物語は血海ヴィルマの異変へ少しずつ踏み込んでいきます。
感想欄では、
「鈴の少女は何者だと思うか」
「赤塩に何が起きていると思うか」
「レンとセラに次にしてほしいこと」
など、自由に書いてもらえるとうれしいです。
面白いと思っていただけたら、評価やブックマークで応援してもらえると励みになります。
次回もよろしくお願いします。




