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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

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8/20

宿場へ向かう小舟

 壺は、見た目よりずっと重かった。


 昼前の渡し場には、赤い川の湿った匂いが広がっていた。


 朝の霧はまだ川面に残っている。けれど、さっきより少しだけ薄くなり、川向こうの赤草もぼんやり見えるようになっていた。


 小屋の裏にある作業場から、小舟のそばまでは十歩ほどしかない。


 けれど、セラが片側を持ち、レンが反対側を持っても、その十歩はずいぶん長く感じた。


 壺の底には、赤黒いものがずっしり入っている。


 歩くたびに、中身がゆっくり揺れた。


「重い」


 セラが言った。


「うん」


 レンも答えた。


 老人は小舟の横に立って、短く言った。


「舟の横まで運んでくれ。まだ積まなくていい」


 レンは顔を上げた。


「舟に乗せないんですか?」


「まだ口を縛ってない。倒れたら中身がこぼれる」


「中身って、この赤黒いの?」


 セラが壺の中をのぞき込む。


 赤黒いものは、泥より濃く、油より重そうだった。表面に、薄い赤い光が浮いている。


舟塗(ふなぬ)りだ」


 老人は言った。


「舟の腹に塗る。川の水は木を傷めるからな。これを塗れば、少しはもつ」


「これを売りに行くの?」


「川下の宿場にな」


血海(けっかい)ヴィルマまでは行かないの?」


「わしが行くのは宿場までだ。そこから先は、別の舟を探せ」


 ヴィルマ。


 その名前を聞いて、レンは川下を見た。


 白い魚が消えた方角。


 赤い川が流れていく先。


 その先にある町のことを、レンはまだ何も知らない。


 名前だけが、少し不気味に胸に残った。


 老人は壺を指差した。


「まずは、それを運べ。舟の横に並べる。口を上にしろ。揺らすな」


「注文が多い」


 セラが言う。


「こぼすよりましだ」


 レンは両手に力を入れた。


 壺の表面は少し湿っていて、指が滑りそうになる。赤黒い舟塗りの匂いが近くなった。


 赤草の乾いた匂い。


 川泥の湿った匂い。


 それから、赤塩(あかしお)の鉄に似た匂い。


 その全部が混じっている。


 二人はゆっくり歩いた。


 足元には小石がある。


 川の近くの土は湿っていて、踏むと少し沈んだ。


 小舟のそばには、同じような壺が三つ並んでいた。どれもまだ舟には積まれていない。口には布がかぶせられているものもあれば、まだ開いたままのものもある。


 老人は空いている場所を足で示した。


「そこへ置いてくれ」


 レンとセラは、壺をゆっくり下ろした。


 ごとん、と鈍い音がした。


 セラが大きく息を吐く。


「落とさなかった」


「まだ一つだ」


 老人は言った。


「まだあるの?」


「ある」


「粥って、そんなに高いの?」


「腹が減ってる時の粥は高い」


 セラは何か言い返そうとして、やめた。


 たぶん、正しいと思ったのだ。


 次に、老人は作業場の柱に吊るされた赤草を指差した。


「その赤草を舟の横へ運んでくれ。壺のあとに積む」


「これは軽い?」


「軽い。だが散らすな」


 赤草は乾いていて、持ち上げると、ぱりぱりと小さな音を立てた。


 レンとセラは束を抱え、小舟の横へ運んだ。赤草は舟塗りに混ぜる材料で、余った分は宿場でも使うらしい。


 作業場と小舟の間を何度も往復するうちに、太陽は少し高くなっていた。


 川岸の赤草には光が当たり始めている。


 けれど、川の真ん中にはまだ白い霧が残っていた。流れの上に薄くかぶさり、川下の方をぼかしている。


 壺と赤草を運び終えると、老人は古い布と縄を持ってきた。


「次は壺の口を縛る」


 老人は壺の口に布をかぶせ、縄を二重に巻いた。


「川で揺れる。ゆるいと中身が漏れる」


 レンは老人の手元を見た。


 老人の指は(ふし)くれ立っていた。けれど縄を扱う動きは早く、迷いがない。輪を作り、締め、余った縄を壺の首に巻き込む。


「やってみろ」


 老人が縄を一本、レンに渡した。


 レンは見よう見まねで壺の口に巻いた。


 けれど、結び目が少しゆるい。


 老人が指で引くと、すぐにほどけた。


「だめだな」


「すみません」


「謝る前に、もう一回だ」


 レンはうなずいた。


 今度は、布を押さえながら縄を二重に巻く。結び目を作り、強く引いた。


 指が痛くなる。


 でも、さっきより締まった。


 老人は少しだけうなずいた。


「さっきよりはいい」


 セラも隣で結んでいた。


 こちらは縄がぐるぐる巻きになって、壺の首のところで大きなこぶみたいになっていた。


「強そうじゃない?」


 セラが言った。


 老人はレンの結び目と、セラの結び目を見比べた。


「ちんちくりんの坊主の方は、まだ筋がいい」


 レンは少し顔を上げた。


「ぼくですか?」


「他に坊主がいるか」


 老人は次に、セラの結び目を指差した。


「こっちの嬢ちゃんはだめだ。力で縛ってるだけだ」


 セラがむっとした。


「力があるのはいいことでしょ」


「力だけなら、荷物も壺も壊す」


「……そんなにだめ?」


「川に出る前なら、やり直せる。川に出てからほどけたら、終わりだ」


 セラは壺の首にできた大きな結び目を見た。


 少し悔しそうに口を曲げる。


「もう一回やる」


「もう一度やってみな」


 セラは縄をほどいた。


 今度は老人の手元をちゃんと見てから、布を押さえ、縄を巻き直した。


 さっきより結び目は小さくなった。


 老人はそれを見て、短く言った。


「それなら運べる」


 セラは小さく息を吐いた。


 壺の口をすべて縛り終えると、老人は小舟の中を指差した。


「次は積む。壺は真ん中。赤草は後ろ。木箱は前。木箱は濡らすな」


「壺を真ん中に置くのは?」


 レンが聞いた。


「重いからだ。端に寄せると舟が傾く」


「赤草は後ろ?」


「軽い。濡れてもすぐ乾く」


「木箱は?」


赤塩灯(あかしおとう)の皿が入ってる。割れたら売れん」


 何をどこに置くのか。


 どうしてそこに置くのか。


 老人の言葉は短かったが、理由ははっきりしていた。


 レンは少し安心した。


 分からないまま動くより、ずっとましだった。


 二人は縛った壺を、今度は舟へ運び入れた。


 さっきより難しかった。


 舟に乗せる時、足場が揺れる。


 レンが舟べりに片足をかけると、小舟がぐらりと動いた。


「端を踏むな。真ん中だ」


 老人が低く言った。


 レンはあわてて足を戻した。


 二人は息を合わせて、壺を舟の真ん中へ下ろした。


 ごとん。


 舟が少し沈む。


 でも傾かなかった。


 老人がうなずく。


「次だ」


 そうして、壺を三つ積んだ。


 赤草の束を後ろへ置く。


 木箱は老人が自分で持ち、舟の前の乾いた場所へ置いた。


 木箱の隙間から、欠けた赤塩灯の皿が見えた。


 荷を積み終えるころには、昼が近づいていた。


 太陽は高くなったはずなのに、渡し場は明るくなりきらなかった。


 川の上の霧が、朝より濃くなっていたからだ。


 水面から白い息のように立ち上がり、向こう岸の赤草をぼんやり隠している。


 レンの腕は少し震えていた。


 セラも手のひらを見ている。


「赤くなった」


 セラの指先には、赤黒い塗りが少しついていた。


「こすると広がるぞ」


 老人が言った。


 セラはこすろうとしていた手を止めた。


「先に言って」


「間に合っただろ」


「ぎりぎりね」


 老人は小屋の中へ入った。


「食え」


 その一言で、セラの顔がぱっと明るくなった。


 昼前の小屋の中は、外より少し暗かった。


 壁には乾いた赤草が吊るされ、棚には赤塩灯の皿が二つ置かれている。炉の横には小さな赤塩の壺があり、古い椀が三つ並んでいた。


 鍋から湯気が上がっている。


 粥の匂いだった。


 老人は椀に粥をよそった。


 粥は薄かった。


 湯の中に米の粒がまばらに浮いている。


 セラは椀を受け取ると、炉の横に置かれていた赤塩の壺を見た。


「これ、少し入れていい?」


 老人の手が止まった。


「だめだ」


「どうして?」


「高い」


 短い答えだった。


 セラは赤塩の壺を見たまま、黙った。


 レンも自分の椀を見下ろした。


 薄い粥。


 けれど、湯気は温かい。


 さっきまで壺を運んでいたせいで、腕は重く、指先は赤黒く汚れている。


 お腹は空いていた。


 老人はしばらく二人を見ていた。


 それから、何も言わずに小さな木匙を取った。


 赤塩をほんの少しだけすくい、二人の椀へ落とす。


 赤い粒は粥の表面でほどけ、淡い輪になって広がった。


 セラが顔を上げる。


「いいの?」


「少しだけだ」


 老人は木匙をしまった。


「それ以上は入れん」


 レンは椀を両手で持った。


 一口食べる。


 素朴な味だった。


 特別に甘いわけでも、濃いわけでもない。


 でも、温かい粥に赤塩のうまみが少し混じると、体の奥にじんわり広がった。


 働いた後の体には、それが格別だった。


 セラは一口食べて、少し目を丸くした。


「おいしい」


「腹が減ってるからだ」


 老人は言った。


「それもある」


 セラはもう一口食べた。


「でも、これもおいしい」


 老人は何も言わなかった。


 ただ、自分の椀にも赤塩をほんの少しだけ落とした。


 粥を食べ終えるころには、外の光が白く曇っていた。


 昼前のはずなのに、川岸は夕方みたいにぼやけている。


 霧が濃くなっていた。


 老人は戸口に立ち、川を見た。


 向こう岸がほとんど見えない。


 水標も白くかすんでいる。


 川の曲がり角は、霧の奥に消えていた。


 老人はしばらく黙っていた。


 それから言った。


「今日は無理だな」


 セラが椀を持ったまま固まった。


「え」


「明日にする」


「舟、出せないの?」


「この霧じゃ無理だ。曲がり角が見えん。水標(すいひょう)も見えん。荷を積んだ舟で入るには悪い」


 レンは外を見た。


 霧の奥で、川の音だけが大きく聞こえた。


 さっきまで見えていた赤い流れも、今は白い幕の下に隠れている。


 セラは少し肩を落とした。


「じゃあ、宿場へ行くのは明日?」


「そうだ」


「その先がヴィルマ?」


「宿場で聞け。ヴィルマへ行く舟もある」


 老人は戸を閉めた。


 小屋の中が少し暗くなる。


 赤塩灯の赤い光が、壁に揺れた。


 その光の中心に、ほんの少し黒い揺らぎがあった。


 レンはそれを見た。


「火が黒い」


 老人は赤塩灯へ目を向けた。


「ああ」


「前は、違ったんですか」


「もっと澄んでいた」


 老人は椀を片づけながら答えた。


「最近の赤塩は、火が濁る。舟塗りに混ぜても乾きが遅い」


 レンは首をかしげた。


「どうして、赤塩は変わったんですか」


 それは、責めるような言い方ではなかった。


 ただ、分からなかったから聞いた。


 赤塩は灯りになり、粥に入って、舟を守る。


 それほど大事なものが、どうして変わってしまうのか。


 レンには不思議だった。


 老人はすぐには答えなかった。


 赤い灯りの中で、老人の顔のしわが深く見えた。


「さあな」


 老人は短く言った。


「わしは赤塩を採る者じゃない。舟に塗る者だ」


 老人は赤塩灯を見た。


 赤い火の中心で、黒い揺れが小さく動いている。


「だが、いい赤塩は火が澄む。舟塗りに混ぜてもよく乾く。近ごろのは、火が黒い。塗りも重い」


「それは……悪い赤塩ってことですか」


「悪いというより、混じりものが多いんだろうな」


 老人は椀を片づけながら言った。


「何が混じってるのか、どこで混じったのかまでは知らん」


 レンは赤塩灯を見た。


 赤い光の奥で、黒い揺れが消えずに残っている。


「でも、何かが変わってるんですね」


「ああ」


 老人はうなずいた。


「塩は嘘をつかん。塩が変われば、舟も、灯りも、飯も変わる」


 午後は、小屋の裏の作業場で過ごした。


 舟は出せない。


 けれど、明日宿場へ持っていく荷はまだ整えなければならない。


 霧のせいで作業場は暗かった。屋根だけの低い場所で、柱には赤草の束が吊るされ、床には白い粉の入った袋や、黒い泥をこした桶、油の壺が並んでいる。


 老人は次の日に積む分を指差した。


「この赤草は、束ね直す。縄がゆるい」


 次に、木箱を指差す。


「その皿は布で包め。欠けてる。ぶつけると割れる」


 最後に、赤黒い舟塗りの壺を見る。


「壺は動かすな。もう積んだ分で足りる」


 セラがうなずいた。


「つまり、赤草を束ねて、皿を包んで、壺は触らない」


「そうだ」


「分かりやすい」


「最初から聞け」


 二人は赤草を束ね、古い縄をほどき、欠けた赤塩灯の皿を一枚ずつ布で包んだ。


 作業は地味だった。


 でも、何をしているのかは分かった。


 赤草は舟塗りに使う。


 赤塩灯の皿は宿場で売る。


 舟塗りの壺は、明日、川下の宿場へ運ぶ。


 その一つ一つが、老人の舟に積まれていく。


 午後が深くなるにつれて、霧はさらに濃くなった。


 作業場の外は白く、川の向こうはもう見えない。


 赤い川の音だけが、近くで低く響いている。


 夕方になると、小屋の中には早めに赤塩灯がともされた。


 赤い光は壁を照らしたが、その中心にはやはり黒い揺れがあった。


 夕飯は、昼に残った粥を温め直したものだった。


 米は少ない。


 赤塩はほんの少し。


 けれど、昼より静かに食べたせいか、レンにはその味がよく分かった。


 その夜、レンとセラは老人の小屋に泊まった。


 泊まった、と言っても、部屋をもらったわけではない。


 小屋の隅に古いござを二枚敷かれ、そこへ丸くなって眠っただけだった。


 けれど、外で眠るよりずっとよかった。


 壁の向こうでは、赤い川が一晩中流れていた。


 ごう。


 ごう。


 低い音が、床板の下からも聞こえてくる。


 最初、レンは眠れないと思った。


 霧が濃い。


 川は近い。


 赤塩灯の火は黒く揺れている。


 白い魚のひれに浮かんだ黒い点も、まだ目に残っている。


 でも、隣を見ると、セラはもう寝息を立てていた。


 早い。


 レンは少しあきれた。


 そして、少し安心した。


 次に目を開けた時には、朝だった。


 屋根の隙間から、細い光が落ちている。


 朝の川は、昨日の昼より明るかった。


 小屋の戸が開いている。


 外の霧は薄くなり、向こう岸の赤草が見えていた。


 水標も、川の曲がり角も見える。


 老人はもう作業場に立っていた。


「起きろ」


 セラがござの上で目をこする。


「もう?」


「今日は出る」


 その一言で、セラは起き上がった。


 朝食は、昨日の残りの粥だった。


 けれど、老人はほんの少しだけ米を足してくれた。


 赤塩も、何も言わずに少しだけ入れてくれた。


 セラは大事そうに食べた。


 朝食のあと、すぐに荷の確認をした。


 昨日のうちに積んでおいた舟塗りの壺。


 束ね直した赤草。


 布で包んだ赤塩灯の皿が入った木箱。


 縄。


 古い布。


 老人はそれぞれを指差し、置き場所を確かめた。


「壺は真ん中。赤草は後ろ。木箱は前。濡らすな」


「言わなくても分かってる」


 セラが胸を張って言った。


 老人はじろりとセラを見た。


「分かってるやつは、そういう顔をしない」


「どういう顔?」


「今にも木箱を濡らしそうな顔だ」


「顔で決めないで」


 レンは木箱を両手で抱え直した。


 赤塩灯の皿が入っている。


 割れたら売れない。


 濡れても困る。


 昨日、何度も聞いたから、今度はちゃんと分かった。


 小舟は小屋の下の浅瀬につながれている。


 赤黒い腹をした小舟だった。舟底には古い傷がいくつもあり、その上から何度も塗り直した跡がある。


 荷を積み終えた小舟は、少しだけ深く沈んでいた。


 でも、まっすぐ浮いていた。


 老人はそれを見てうなずいた。


「乗れ」


 セラが先に舟へ乗った。


 舟がぐらりと揺れる。


「うわ」


「端を踏むな。真ん中だ」


 老人が低く言った。


 セラはあわてて足を戻した。


「……川の上って、落ち着かないね」


「落ち着かないくらいでちょうどいい」


 老人は綱をほどいた。


「慣れた顔をしたやつから落ちる」


 レンも慎重に乗った。


 赤い水面が、舟べりのすぐ下にある。


 老人が綱をほどき、(かい)を差した。


 小舟はゆっくり岸を離れる。


 小屋が少しずつ遠ざかっていった。


 赤い草の屋根。


 低い作業場。


 吊るされた赤草。


 昨日、壺を運んだ小さな道。


 一晩だけ過ごした場所なのに、見えなくなると少し寂しい気がした。


 セラが小屋を見ながら言った。


「一泊しただけなのに、ちょっと知ってる場所みたいになるね」


 レンはうなずいた。


「うん」


「変なの」


「うん」


 舟は川下へ進んだ。


 水面は近かった。


 舟べりから手を伸ばせば、指先が届きそうなくらい近い。


 でも、その赤い水に触れる気にはなれなかった。


 川は静かに見えて、舟の下ではずっと何かが動いている。


 ごう、と低い音が腹の下から響く。


 舟底に水が当たるたび、足の裏に小さな震えが伝わった。


 赤草の乾いた匂い。


 壺からにじむ舟塗りの重い匂い。


 川霧の冷たい匂い。


 それらが混ざって、息を吸うたびに胸の奥が少し湿った。


 セラは舟の真ん中で膝を抱えていた。


 いつもより少し静かだった。


「これ、立ったら危ないやつだよね」


「うん」


「走ったら?」


「もっと危ないと思う」


「じゃあ、今日はおとなしくする」


 セラはそう言って、舟べりから少し離れた。


 老人が櫂を差し、舟の向きを戻す。


「その方がいい。川の上じゃ、強がるより座ってる方が役に立つ」


 セラは少しだけ不満そうにした。


「座ってるだけで?」


「荷を倒さない。舟を揺らさない。それだけで十分だ」


 レンは背中の布袋を押さえた。


 夢札は濡れていない。


 それだけを確かめて、少し息を吐いた。


 岸の赤い草は低くなり、ところどころ白い骨の欠片が積もっていた。古い水標が半分倒れ、黒い丸のある面だけが川の方を向いている。


 レンはそれを目で追った。


 水標は一つではなかった。


 川下へ進むにつれ、同じような柱が何本も見えた。


 欠けているもの。


 倒れているもの。


 苔に埋もれているもの。


 どれも川を見ている。


 セラも気づいた。


「またあった」


「うん」


「全部、川の印?」


「たぶん」


「押す?」


「押さない」


「まだ言ってないのに」


「言いそうだった」


 セラは少し笑った。


 老人は櫂を動かしながら、二人の会話を聞いていた。


水標(すいひょう)だ」


 老人が言った。


 レンは顔を上げる。


「水標?」


「昔の川読(かわよ)みが使った印だ。水の高さ、流れの速さ、川底の深さを見る」


「川読み?」


「川を読む者だ。川には川読みがいる。血海には、潮を読む者もいる」


「潮を読む?」


「潮は川より気まぐれだ。満ちる。引く。戻る。赤くても、同じ赤じゃない」


 老人は川下を見る。


「ヴィルマの方では、それを読めないと舟は迷う」


 セラが身を乗り出す。


「潮を読むって、何を見るの?」


「水の色。匂い。泡。魚。鐘の音」


「鐘?」


「ヴィルマには潮鐘(しおがね)がある」


 老人の声が少し低くなった。


「潮に合わせて鳴る鐘だ」


「鳴るんじゃなくて、鳴らすんじゃないの?」


「昔は、鳴らす者が潮に合わせた」


 老人はそれだけ言った。


 レンはその言い方が気になった。


 昔は。


 今は違うのだろうか。


 聞こうとした時、舟の前で白いものが跳ねた。


 白い魚だった。


 透き通る体。


 紙のようなひれ。


 昨日と同じ魚かは分からない。


 でも、ひれには黒い点が二つあった。


 魚は舟の前を横切ろうとして、黒い筋に触れかけた。


 その瞬間、体を強くよじった。


 水面が小さく跳ねる。


 魚は赤い流れの浅いところへ逃げた。


 レンは思わず手を伸ばした。


「触るな」


 老人の声が飛んだ。


 レンの手が止まった。


「でも、弱ってます」


「だから触るな」


 老人は櫂を水から上げずに言った。


「あの魚のひれは薄い。人の手で触れば破れる。水から上げれば、もっと弱る」


 レンは白い魚を見た。


 魚は舟の影のそばで、ふらふらと身をひるがえしている。


「じゃあ、どうしたら」


「魚だけ助けても戻す水が悪けりゃ同じだ」


 老人は川下を見た。


「助けるなら、流れの方を見ろ」


 白い魚は舟のそばを離れ、ふらふらと川下へ進んでいく。


 レンはそれを見つめた。


「苦しそうだった」


「流れが悪い」


「流れが悪いと、魚は苦しくなるんですか」


「人も同じだろう」


 老人は櫂を水に差した。


「空気の悪い部屋にずっといれば、息苦しくなる。水の悪い流れにいれば、魚も苦しい」


 レンは川を見た。


 赤い川は大きく、止まらずに流れている。


 けれど、ただ流れていればいいわけではないらしい。


 その中に、悪いものが混じっている。


 重いものが沈んでいる。


 白い魚は、それを避けながら進んでいる。


 セラが言った。


「宿場まで行けば、ヴィルマへの舟もあるかな」


「あるといいけど」


 レンはそう答えた。


「なかったら?」


「また困る」


 セラはうなずいた。


「旅っぽい」


「それで全部まとめるの、やめない?」


 セラは少し笑った。


 昼近くになると、霧がまた薄く川面を流れ始めた。


 老人は舟の先に吊るした小さな赤塩灯へ火を入れた。


 赤い粒が、ぼんやり光る。


 昼なのに、灯りが必要だった。


 霧の中では、川岸が遠くなる。


 赤い光だけが、舟の前で小さく揺れた。


 レンはその灯りを見た。


 中心に、黒い揺れがある。


 小屋で見た赤塩灯と同じだ。


「前は、もっと澄んでいたんですか」


 レンが聞くと、老人はうなずいた。


「もっと赤かった。煙も少なかった」


「いつから変わったの?」


「少しずつだ」


 老人は櫂を動かす。


「気づいた時には、前の色を思い出せなくなってる」


 舟は霧の中を進んだ。


 川の音だけが近い。


 時々、舟底に何かが当たるような鈍い音がした。


 木片か。


 骨の欠片か。


 それとも、別のものか。


 レンには分からない。


 昼すぎ、舟は川辺の小さな宿場に着いた。


 霧の中から、木の桟橋(さんばし)が現れる。


 まず見えたのは、赤塩灯のぼんやりした光だった。


 それから、低い屋根。


 水に濡れた板の道。


 軒先に吊るされた赤草の束。


 荷を運ぶ人たちの声。


 宿場は川に張りつくように並んでいた。


 どの建物も古く、柱の下半分は赤い水に濡れている。桟橋の板は何度も修理された跡があり、歩くたびにぎい、と鳴った。


 赤い川の匂いに、煮えた粥の匂いと、濡れた木の匂いが混ざっている。


 レンのお腹が、小さく鳴った。


 セラがちらりと見る。


「今の、舟の音?」


「……たぶん」


「レンのお腹、舟みたいな音するんだ」


「しない」


「したよ。小舟くらいの音」


 レンは顔をそらした。


 宿場の湯気が、ますますおいしそうに見えた。


 老人の舟を見ると、桟橋にいた男が手を上げた。


「来たか」


「来た」


 老人は短く答えた。


「霧で遅れた」


「今日はどこも霧だ。塗りは?」


「三壺。赤草も少しある」


「助かる。最近は舟底の傷みが早い」


 男は舟の中をのぞき込み、壺を見た。


「また乾きが遅いやつか?」


「前よりはましだ」


「前よりまし、か。いい言葉じゃないな」


 男はそう言って、顔をしかめた。


 舟が桟橋に寄る。


 ぎい、と木が鳴った。


 その音に混じって、ちりん、と小さな鈴の音がした。


 レンは顔を上げた。


 宿場の一番大きな建物の戸口に、少女が立っていた。


 年は十二歳くらい。


 レンたちより少しだけ年上に見える。


 淡い金色の髪を後ろで一つに結び、黒に近い紺色の上着を羽織っていた。上着の裾は長く、宿場の床板にこすれないよう、腰の革帯で少し持ち上げてある。


 白い襟の服はきちんとしているのに、袖口だけは何度も水に濡れたように色が濃くなっていた。


 首には小さな青い石の飾り。


 腰には丸い真鍮の道具と、小瓶が三つ入った革のケース。


 歩くたび、腰の小さな鈴が、ちりん、と控えめに鳴った。


 宿場の手伝いをしているだけの子には見えなかった。


 けれど、偉そうにも見えない。


 まるで、自分より大きな仕事を、両手でこぼさないように持っている子みたいだった。


 少女は老人の舟を見ると、薄い青の目を細めた。


「遅かったね。霧?」


「霧だ」


 老人は短く答えた。


 少女は桟橋の先まで歩いてきた。


 赤い川の霧が、その足元を白く包んでいる。


 彼女は舟の荷を見る前に、まず川面を見た。


 それから、舟の先に吊るされた赤塩灯の黒い揺れを見た。


 最後に、レンとセラを見た。


「……見慣れない顔」


 セラが小さく身構えた。


 レンも、布袋のひもを握った。


 少女の腰の鈴が、もう一度だけ鳴った。


 ちりん。


 赤い川の向こうで、白い魚が小さく跳ねた。


 けれど次の瞬間には、霧の中へ消えていた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


今回は、レンとセラが川下の宿場へ向かう回でした。

舟に乗るだけでも一苦労な二人ですが、赤塩灯の黒い火や、弱っていく白い魚など、血海ヴィルマに近づくほど不穏な気配が増えてきました。


そして最後に現れた、鈴をつけた少女。

彼女が敵なのか、味方なのか、それとも別の目的を持っているのか。

次回から、物語は血海ヴィルマの異変へ少しずつ踏み込んでいきます。


感想欄では、

「鈴の少女は何者だと思うか」

「赤塩に何が起きていると思うか」

「レンとセラに次にしてほしいこと」

など、自由に書いてもらえるとうれしいです。


面白いと思っていただけたら、評価やブックマークで応援してもらえると励みになります。

次回もよろしくお願いします。

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