表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/20

小屋の老人

 王都の鐘は、もう聞こえなかった。


 聞こえないはずだった。


 それでもレンは、何度も背中の方へ耳を澄ませてしまう。


 白い霧の向こうに、心臓王都(しんぞうおうと)カーディアは沈んでいた。高い外壁も、鐘の塔も、夢見院の屋根も、もう見えない。


 実際に聞こえているのは、赤い川の音だけだった。


 ごう、ごう、と低く流れる音。


 川は朝の光を受けて、血のような赤から、少し薄い朱色へ変わっていた。水面には白い霧が残り、川岸の赤い草は濡れたまま細く揺れている。


 レンは歩きながら、自分の手を見た。


 木炭の黒。


 錆の赤。


 骨の白い粉。


 まだ指先に残っている。


 夢見院にいたころなら、朝食の前に必ず洗うように言われた汚れだった。


 でも今、洗うための水はない。


 すぐ横には川が流れている。


 レンがそこへ目を向けた瞬間、前を歩いていたセラが言った。


「それ、飲まない方がいいよ」


 レンは顔を上げた。


「まだ何もしてない」


「飲もうかな、って顔だった」


「顔で分かるの?」


「分かる時は分かる」


 セラは先を歩いている。


 いつものように速い。


 けれど、さっきまでのようにレンを引っ張ってはいなかった。


 道は歩きにくかった。


 崖下の古い管理道は途中で途切れ、今は赤い川沿いの土の道を進んでいる。道と呼ぶには細く、ところどころ赤い草に隠れていた。


 レンの靴は泥で重い。


 足の裏も痛い。


 セラは平気そうな顔をしていたが、歩くたびに肩が少し上下している。


 たぶん、平気ではない。


 でも、セラは振り返って言った。


「旅っぽくなってきたね」


 レンは足元のぬかるみに靴を取られかけた。


「困ってるだけだよ」


「旅って、たぶん最初は困るものだよ」


「たぶんで旅を始めるの、危なくない?」


「もう始まってるから大丈夫」


「大丈夫の意味が変だよ」


 セラは少し笑った。


 朝の霧の中で、その笑い方ははっきり見えなかった。


 レンは肩にかけた布袋を押さえた。


 中には、夢札と木炭が入っている。


 それだけだ。


 食べ物はない。


 お金もない。


 替えの服もない。


 地図もない。


 レンはそれに気づいて、少し足を止めた。


 セラが振り返る。


「どうしたの?」


「ぼくたち、何も持ってない」


「夢札がある」


「食べられないよ」


「木炭もある」


「もっと食べられない」


「川もある」


「飲めないって言ったよね」


 セラは少し考えた。


 そして、真面目な顔で言った。


「まずいね」


「今気づいたの?」


「走ってる時は、食べ物のことまで考えないでしょ」


「ぼくは少し考えてた」


「えらい」


「えらくても食べ物は出ない」


 そこでレンのお腹が鳴った。


 小さく、けれどはっきりと。


 セラは何も言わなかった。


 しばらくして、セラのお腹も鳴った。


 今度はレンが何も言わなかった。


 二人は赤い川の音を聞きながら、しばらく黙って歩いた。


 川沿いの道は、ゆるやかに下っている。


 赤い草の間に、白い小石が混じっていた。よく見ると、それは石ではなく、薄い骨の欠片のようだった。


 レンは一つ拾い上げる。


 軽い。


 指でこすると、白い粉がついた。


 竜骨道で見た骨の粉と似ていた。


 セラが振り返る。


「何拾ってるの?」


「骨みたい」


「このへん、よくあるよ。川が運んでくるんだって」


「川が骨を?」


「うん。龍の骨の欠片だって、昔の人は言うらしい」


 セラは何でもないことのように言った。


 レンは手の中の白い欠片を見た。


 龍の骨。


 死んだ龍の骨。


 そう教えられてきた。


 でも竜骨道で聞いた音は、死んだものの音には思えなかった。


 とくん。


 とくん。


 あの音を思い出した時、足元の地面がほんの少しだけ揺れた気がした。


 レンは息を止めた。


 川を見る。


 赤い水面が、ゆっくり膨らむように動いた。


 一度だけ。


 まるで、深い場所で何かが寝返りを打ったみたいに。


「セラ」


「何?」


「今、川、動かなかった?」


「流れてるよ」


「そうじゃなくて」


 セラも川を見る。


 水面はもう普通に流れていた。


 朝の光が揺れ、赤い草の影が細く伸びている。


 何もない。


 レンは手の中の骨の欠片を、そっと地面に置いた。


「……何でもない」


「言いかけてやめるの、気になるんだけど」


「分からないことだったから」


「分からないなら、余計に言ってよ」


「言ったら、君は走るでしょ」


「内容による」


「だいたい走る」


「少しだけね」


「少しじゃない」


 セラは反論しようとして、やめた。


 そして前を向く。


「じゃあ、歩く。今は」


「今は?」


「お腹すいたから」


 その理由なら、レンにも分かった。


 二人はまた歩き出した。


 しばらく進むと、川岸に古い柱が立っていた。


 高さはレンの胸くらい。


 石でできているが、半分ほど赤い苔に覆われている。川に向いた面だけが削れていて、そこにいくつかの細い線が刻まれていた。


 レンは足を止める。


「これ、何だろう」


 セラも近づいた。


「道しるべ?」


「文字じゃない」


 レンは指で苔をそっと払った。


 濡れた苔が剥がれ、下から古い刻みが現れる。


 横線。


 短い縦線。


 波のような浅い溝。


 そして、中央に小さな黒い丸。


 レンの指が止まった。


 黒い丸は、石に塗られたものではなかった。深く彫られた穴の内側に、黒い鉱物のようなものが詰められている。


 夢札に何度も描いた黒い丸。


 竜骨道の扉にあった黒い丸。


 それと同じ、とは言い切れない。


 でも、似ている。


 セラがレンの顔をのぞき込んだ。


「また?」


「……うん」


「夢札にあるやつ?」


「似てる」


「これも開くの?」


「分からない」


「押してみる?」


「押さない」


「早い」


「扉じゃないかもしれない」


「じゃあ何?」


 レンは石柱の周りを見た。


 柱は川岸に立っている。


 少し先には、同じような古い柱が倒れていた。さらに遠くにも、赤い草に埋もれた石の頭がいくつか見える。


 何かを示すもの。


 でも、道ではない。


 川を見ている。


「水の高さを見る印かも」


「水の高さ?」


「うん。川がどこまで増えたか、とか」


 レンはもう一度、黒い丸の周りを見る。


 丸そのものより、その周りの細い線が気になった。


 線は途中で欠けていた。


 古くなって削れたのか。


 それとも、誰かが削ったのか。


 分からない。


 その時、川の中で白いものが動いた。


 白い魚だった。


 透き通るような体。


 紙のような薄いひれ。


 赤い川の中で、その白さだけが少し浮いて見えた。


 魚は川の真ん中を泳がず、岸に近い細い流れを選んで進んでいる。


 その先で、川の水が少し黒く濁っていた。


 白い魚はそこへ近づくと、急に身をひるがえした。


 まるで、その水に触れるのを嫌がるように。


 レンは一歩、川へ近づいた。


「避けた」


「うん」


 セラの声も小さかった。


 白い魚は、濁った水を大きく回り込み、澄んだ赤い流れへ戻った。


 そして、また川下へ進んでいく。


 その魚を追うように、川下から木の軋む音が聞こえた。


 ぎい、と古い音。


 霧の向こうで、小舟が岸にぶつかった音だった。


 レンとセラは顔を上げた。


 川岸の少し先に、小さな渡し場が見えた。


 低い小屋。


 つながれた小舟。


 灰色の煙。


 そして、舟のそばで赤い袋を積み直している老人。


 白い魚は、その渡し場の前を通り過ぎて、さらに川下へ消えた。


 セラが小屋を見た。


「人がいる」


 レンのお腹が、また小さく鳴った。


 セラは今度は笑わなかった。


「行こう」


「白い魚を追うの?」


「まず、あの人に聞く」


「何を?」


「川下に何があるのか。あと、食べ物があるか」


 それなら分かった。


 二人は渡し場へ向かった。


 灰色の煙は、まっすぐ上へはのぼらず、川の方へ低く流れていた。朝の霧と混じり、小屋のまわりに薄くまとわりついている。


 小屋は、川岸に半分埋まるように建っていた。壁は古い木板で、屋根には赤い草が乾かしてある。そばには小舟が一艘つながれていて、その舟の腹には、赤黒い塗料がまだらに残っていた。


 舟のそばで、背の曲がった老人が赤い袋を積み直していた。


 袋の一つが破れ、中から赤い砂のようなものが舟底にこぼれている。


 老人はこぼれた赤い粒を手ですくい、小さな木箱へ移していた。舟底には隙間があり、放っておけば粒は川へ落ちてしまう。


 だから拾っていた。


 セラが小声で言った。


「あれ、何?」


 レンは首を振った。


「分からない」


 老人は二人に気づくと、手を止めた。


「川上から来たのか」


 セラが一歩前へ出た。


「はい。旅の途中で」


 レンは少し迷ってから、正直に言った。


「……お腹がすいています」


 セラが横目でレンを見た。


「そこから言う?」


「大事だから」


 老人は二人をしばらく見ていた。


 それから、しわの深い顔を少しだけゆるめた。


「腹、減ってるんだな」


 老人はそう言って、破れた赤塩の袋を指差した。


「じゃあ手伝え。少し働いたら、粥くらいは食わせてやる」


 セラがぱっと顔を上げた。


「本当?」


「赤塩を川に落とすよりは安くつく」


 老人はそう言って、また舟底の赤い粒を拾い始めた。


 レンはしゃがみ込んだ。


 赤い粒は、普通の砂より重かった。


 指先でつまむと、ざらりとした感触が残る。塩というより、細かく砕いた赤い石のようだった。


 その中に、ところどころ黒い粒が混じっている。


 ほんの少しだけ。


 でも、確かに。


 老人はそれを見て、眉を寄せた。


「また混じってるな」


「黒い粒?」


 レンが聞く。


「昔はこんなに混じらなかった」


 老人は小さな皿を取り出し、赤い粒を少し入れた。


 皿の底には黒い炭のようなものが敷かれている。


 老人が火打ち石を打つと、赤い粒はじわりと灯った。


 炎ではない。


 赤い粒そのものが、内側から熱を持つように光った。


 小屋の中に、ぼんやりと赤い明かりが広がる。


 レンは思わず見入った。


「今の、塩?」


「赤塩だ」


「塩って、燃えるの?」


「これは燃える。普通の塩とは違う」


 老人は皿を小屋の入り口に置いた。


 赤い光が、濡れた板の床を低く照らす。


「灯りになる。傷にも使う。水で薄めれば、布も染まる。舟の腹に塗れば、木が腐りにくい」


 老人は小舟の赤黒い腹を指で叩いた。


 こん、こん、と鈍い音がした。


「ヴィルマの赤塩は、川下じゃ金みたいなもんだ」


 セラが顔を上げた。


「ヴィルマ?」


「知らずに川を下ってるのか」


 老人は少し呆れたように言った。


「この川の先にある町だ。血海(けっかい)ヴィルマ。赤塩で食ってる町だよ」


 レンは川下を見た。


 白い魚が消えた方角。


 赤い川が迷わず流れていく先。


「血海……」


「赤い川は、最後にそこへ流れ込む」


 老人は皿の上の赤い光を見た。


 光のふちに、細い黒い煙が滲んでいる。


「だが近ごろは、どうにもおかしい。赤塩は重い。火は黒い。舟に塗っても乾きが遅い」


「どうして?」


 レンが聞いた。


 老人は答えなかった。


 代わりに、舟底に残った黒い粒を指先でつまみ、川へ投げた。


 黒い粒は水面に落ち、すぐには沈まなかった。


 赤い流れの上で小さく回り、それからゆっくり沈んだ。


「川は下へ行けば行くほど、ものを集める」


 老人は言った。


「いいものも、悪いものもな」


 レンは川下を見た。


 白い魚は、もう見えない。


 けれど魚が避けた黒い流れの筋は、まだ目に残っていた。


 川はただ赤いだけではなかった。


 ところどころに、黒い重さを抱えながら流れている。


 その流れの先に、血海ヴィルマがある。


 老人は壺の口を布でふさぎながら言った。


「昼前に舟を出す。荷を運ぶついでなら、川下の宿場までは乗せてやる。飯を食うなら、その分だけ手伝え」


 セラがレンを見た。


 レンもセラを見た。


 食べ物がある。


 舟に乗れる。


 川下には、血海(けっかい)ヴィルマという町がある。


 白い魚も、そこへ向かった。


 そして、黒い火を出す赤塩も、そこから来た。


 レンには、もう迷う理由がなかった。


 川は、渡し場のすぐそばを流れている。


 赤い水は霧の中へ続き、その先で、まだ見たことのない町へ向かっていた。


 セラが袖をまくった。


「手伝おう」


 レンはうなずいた。


「うん」


 その時、川下の霧の奥で、白い魚のひれが一度だけ光った。


 小さな白い光は、すぐに赤い流れへ消えた。


 まるで、二人を待たずに先へ行くみたいに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ