小屋の老人
王都の鐘は、もう聞こえなかった。
聞こえないはずだった。
それでもレンは、何度も背中の方へ耳を澄ませてしまう。
白い霧の向こうに、心臓王都カーディアは沈んでいた。高い外壁も、鐘の塔も、夢見院の屋根も、もう見えない。
実際に聞こえているのは、赤い川の音だけだった。
ごう、ごう、と低く流れる音。
川は朝の光を受けて、血のような赤から、少し薄い朱色へ変わっていた。水面には白い霧が残り、川岸の赤い草は濡れたまま細く揺れている。
レンは歩きながら、自分の手を見た。
木炭の黒。
錆の赤。
骨の白い粉。
まだ指先に残っている。
夢見院にいたころなら、朝食の前に必ず洗うように言われた汚れだった。
でも今、洗うための水はない。
すぐ横には川が流れている。
レンがそこへ目を向けた瞬間、前を歩いていたセラが言った。
「それ、飲まない方がいいよ」
レンは顔を上げた。
「まだ何もしてない」
「飲もうかな、って顔だった」
「顔で分かるの?」
「分かる時は分かる」
セラは先を歩いている。
いつものように速い。
けれど、さっきまでのようにレンを引っ張ってはいなかった。
道は歩きにくかった。
崖下の古い管理道は途中で途切れ、今は赤い川沿いの土の道を進んでいる。道と呼ぶには細く、ところどころ赤い草に隠れていた。
レンの靴は泥で重い。
足の裏も痛い。
セラは平気そうな顔をしていたが、歩くたびに肩が少し上下している。
たぶん、平気ではない。
でも、セラは振り返って言った。
「旅っぽくなってきたね」
レンは足元のぬかるみに靴を取られかけた。
「困ってるだけだよ」
「旅って、たぶん最初は困るものだよ」
「たぶんで旅を始めるの、危なくない?」
「もう始まってるから大丈夫」
「大丈夫の意味が変だよ」
セラは少し笑った。
朝の霧の中で、その笑い方ははっきり見えなかった。
レンは肩にかけた布袋を押さえた。
中には、夢札と木炭が入っている。
それだけだ。
食べ物はない。
お金もない。
替えの服もない。
地図もない。
レンはそれに気づいて、少し足を止めた。
セラが振り返る。
「どうしたの?」
「ぼくたち、何も持ってない」
「夢札がある」
「食べられないよ」
「木炭もある」
「もっと食べられない」
「川もある」
「飲めないって言ったよね」
セラは少し考えた。
そして、真面目な顔で言った。
「まずいね」
「今気づいたの?」
「走ってる時は、食べ物のことまで考えないでしょ」
「ぼくは少し考えてた」
「えらい」
「えらくても食べ物は出ない」
そこでレンのお腹が鳴った。
小さく、けれどはっきりと。
セラは何も言わなかった。
しばらくして、セラのお腹も鳴った。
今度はレンが何も言わなかった。
二人は赤い川の音を聞きながら、しばらく黙って歩いた。
川沿いの道は、ゆるやかに下っている。
赤い草の間に、白い小石が混じっていた。よく見ると、それは石ではなく、薄い骨の欠片のようだった。
レンは一つ拾い上げる。
軽い。
指でこすると、白い粉がついた。
竜骨道で見た骨の粉と似ていた。
セラが振り返る。
「何拾ってるの?」
「骨みたい」
「このへん、よくあるよ。川が運んでくるんだって」
「川が骨を?」
「うん。龍の骨の欠片だって、昔の人は言うらしい」
セラは何でもないことのように言った。
レンは手の中の白い欠片を見た。
龍の骨。
死んだ龍の骨。
そう教えられてきた。
でも竜骨道で聞いた音は、死んだものの音には思えなかった。
とくん。
とくん。
あの音を思い出した時、足元の地面がほんの少しだけ揺れた気がした。
レンは息を止めた。
川を見る。
赤い水面が、ゆっくり膨らむように動いた。
一度だけ。
まるで、深い場所で何かが寝返りを打ったみたいに。
「セラ」
「何?」
「今、川、動かなかった?」
「流れてるよ」
「そうじゃなくて」
セラも川を見る。
水面はもう普通に流れていた。
朝の光が揺れ、赤い草の影が細く伸びている。
何もない。
レンは手の中の骨の欠片を、そっと地面に置いた。
「……何でもない」
「言いかけてやめるの、気になるんだけど」
「分からないことだったから」
「分からないなら、余計に言ってよ」
「言ったら、君は走るでしょ」
「内容による」
「だいたい走る」
「少しだけね」
「少しじゃない」
セラは反論しようとして、やめた。
そして前を向く。
「じゃあ、歩く。今は」
「今は?」
「お腹すいたから」
その理由なら、レンにも分かった。
二人はまた歩き出した。
しばらく進むと、川岸に古い柱が立っていた。
高さはレンの胸くらい。
石でできているが、半分ほど赤い苔に覆われている。川に向いた面だけが削れていて、そこにいくつかの細い線が刻まれていた。
レンは足を止める。
「これ、何だろう」
セラも近づいた。
「道しるべ?」
「文字じゃない」
レンは指で苔をそっと払った。
濡れた苔が剥がれ、下から古い刻みが現れる。
横線。
短い縦線。
波のような浅い溝。
そして、中央に小さな黒い丸。
レンの指が止まった。
黒い丸は、石に塗られたものではなかった。深く彫られた穴の内側に、黒い鉱物のようなものが詰められている。
夢札に何度も描いた黒い丸。
竜骨道の扉にあった黒い丸。
それと同じ、とは言い切れない。
でも、似ている。
セラがレンの顔をのぞき込んだ。
「また?」
「……うん」
「夢札にあるやつ?」
「似てる」
「これも開くの?」
「分からない」
「押してみる?」
「押さない」
「早い」
「扉じゃないかもしれない」
「じゃあ何?」
レンは石柱の周りを見た。
柱は川岸に立っている。
少し先には、同じような古い柱が倒れていた。さらに遠くにも、赤い草に埋もれた石の頭がいくつか見える。
何かを示すもの。
でも、道ではない。
川を見ている。
「水の高さを見る印かも」
「水の高さ?」
「うん。川がどこまで増えたか、とか」
レンはもう一度、黒い丸の周りを見る。
丸そのものより、その周りの細い線が気になった。
線は途中で欠けていた。
古くなって削れたのか。
それとも、誰かが削ったのか。
分からない。
その時、川の中で白いものが動いた。
白い魚だった。
透き通るような体。
紙のような薄いひれ。
赤い川の中で、その白さだけが少し浮いて見えた。
魚は川の真ん中を泳がず、岸に近い細い流れを選んで進んでいる。
その先で、川の水が少し黒く濁っていた。
白い魚はそこへ近づくと、急に身をひるがえした。
まるで、その水に触れるのを嫌がるように。
レンは一歩、川へ近づいた。
「避けた」
「うん」
セラの声も小さかった。
白い魚は、濁った水を大きく回り込み、澄んだ赤い流れへ戻った。
そして、また川下へ進んでいく。
その魚を追うように、川下から木の軋む音が聞こえた。
ぎい、と古い音。
霧の向こうで、小舟が岸にぶつかった音だった。
レンとセラは顔を上げた。
川岸の少し先に、小さな渡し場が見えた。
低い小屋。
つながれた小舟。
灰色の煙。
そして、舟のそばで赤い袋を積み直している老人。
白い魚は、その渡し場の前を通り過ぎて、さらに川下へ消えた。
セラが小屋を見た。
「人がいる」
レンのお腹が、また小さく鳴った。
セラは今度は笑わなかった。
「行こう」
「白い魚を追うの?」
「まず、あの人に聞く」
「何を?」
「川下に何があるのか。あと、食べ物があるか」
それなら分かった。
二人は渡し場へ向かった。
灰色の煙は、まっすぐ上へはのぼらず、川の方へ低く流れていた。朝の霧と混じり、小屋のまわりに薄くまとわりついている。
小屋は、川岸に半分埋まるように建っていた。壁は古い木板で、屋根には赤い草が乾かしてある。そばには小舟が一艘つながれていて、その舟の腹には、赤黒い塗料がまだらに残っていた。
舟のそばで、背の曲がった老人が赤い袋を積み直していた。
袋の一つが破れ、中から赤い砂のようなものが舟底にこぼれている。
老人はこぼれた赤い粒を手ですくい、小さな木箱へ移していた。舟底には隙間があり、放っておけば粒は川へ落ちてしまう。
だから拾っていた。
セラが小声で言った。
「あれ、何?」
レンは首を振った。
「分からない」
老人は二人に気づくと、手を止めた。
「川上から来たのか」
セラが一歩前へ出た。
「はい。旅の途中で」
レンは少し迷ってから、正直に言った。
「……お腹がすいています」
セラが横目でレンを見た。
「そこから言う?」
「大事だから」
老人は二人をしばらく見ていた。
それから、しわの深い顔を少しだけゆるめた。
「腹、減ってるんだな」
老人はそう言って、破れた赤塩の袋を指差した。
「じゃあ手伝え。少し働いたら、粥くらいは食わせてやる」
セラがぱっと顔を上げた。
「本当?」
「赤塩を川に落とすよりは安くつく」
老人はそう言って、また舟底の赤い粒を拾い始めた。
レンはしゃがみ込んだ。
赤い粒は、普通の砂より重かった。
指先でつまむと、ざらりとした感触が残る。塩というより、細かく砕いた赤い石のようだった。
その中に、ところどころ黒い粒が混じっている。
ほんの少しだけ。
でも、確かに。
老人はそれを見て、眉を寄せた。
「また混じってるな」
「黒い粒?」
レンが聞く。
「昔はこんなに混じらなかった」
老人は小さな皿を取り出し、赤い粒を少し入れた。
皿の底には黒い炭のようなものが敷かれている。
老人が火打ち石を打つと、赤い粒はじわりと灯った。
炎ではない。
赤い粒そのものが、内側から熱を持つように光った。
小屋の中に、ぼんやりと赤い明かりが広がる。
レンは思わず見入った。
「今の、塩?」
「赤塩だ」
「塩って、燃えるの?」
「これは燃える。普通の塩とは違う」
老人は皿を小屋の入り口に置いた。
赤い光が、濡れた板の床を低く照らす。
「灯りになる。傷にも使う。水で薄めれば、布も染まる。舟の腹に塗れば、木が腐りにくい」
老人は小舟の赤黒い腹を指で叩いた。
こん、こん、と鈍い音がした。
「ヴィルマの赤塩は、川下じゃ金みたいなもんだ」
セラが顔を上げた。
「ヴィルマ?」
「知らずに川を下ってるのか」
老人は少し呆れたように言った。
「この川の先にある町だ。血海ヴィルマ。赤塩で食ってる町だよ」
レンは川下を見た。
白い魚が消えた方角。
赤い川が迷わず流れていく先。
「血海……」
「赤い川は、最後にそこへ流れ込む」
老人は皿の上の赤い光を見た。
光のふちに、細い黒い煙が滲んでいる。
「だが近ごろは、どうにもおかしい。赤塩は重い。火は黒い。舟に塗っても乾きが遅い」
「どうして?」
レンが聞いた。
老人は答えなかった。
代わりに、舟底に残った黒い粒を指先でつまみ、川へ投げた。
黒い粒は水面に落ち、すぐには沈まなかった。
赤い流れの上で小さく回り、それからゆっくり沈んだ。
「川は下へ行けば行くほど、ものを集める」
老人は言った。
「いいものも、悪いものもな」
レンは川下を見た。
白い魚は、もう見えない。
けれど魚が避けた黒い流れの筋は、まだ目に残っていた。
川はただ赤いだけではなかった。
ところどころに、黒い重さを抱えながら流れている。
その流れの先に、血海ヴィルマがある。
老人は壺の口を布でふさぎながら言った。
「昼前に舟を出す。荷を運ぶついでなら、川下の宿場までは乗せてやる。飯を食うなら、その分だけ手伝え」
セラがレンを見た。
レンもセラを見た。
食べ物がある。
舟に乗れる。
川下には、血海ヴィルマという町がある。
白い魚も、そこへ向かった。
そして、黒い火を出す赤塩も、そこから来た。
レンには、もう迷う理由がなかった。
川は、渡し場のすぐそばを流れている。
赤い水は霧の中へ続き、その先で、まだ見たことのない町へ向かっていた。
セラが袖をまくった。
「手伝おう」
レンはうなずいた。
「うん」
その時、川下の霧の奥で、白い魚のひれが一度だけ光った。
小さな白い光は、すぐに赤い流れへ消えた。
まるで、二人を待たずに先へ行くみたいに。




