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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
心臓王都カーディアからの脱出

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6/20

心臓王都からの脱出

 黒い丸の中心に、レンは木炭の先を置いた。


 ざり、と小さな音がした。


 暗い竜骨道(りゅうこつどう)の中で、その音だけが妙にはっきり聞こえた。


 背後では、追手の足音が近づいている。


 かしゃん。


 がん。


 かしゃん。


 (よろい)が骨の壁にこすれ、その音が何度も折り返してくる。


 どの曲がり角の向こうにいるのか分からない。


 けれど、もう遠くはなかった。


 セラはレンの横に立ち、扉と背後を交互に見ていた。


 唇を結んでいる。


 急かしたいのだろう。


 けれど、言わない。


「……急いでって言ってもいい?」


 結局、少しだけ言った。


「言わないで」


「じゃあ、急いでる気持ちだけ出す」


「それも伝わってる」


「半分しまう」


「全部しまって」


「無理」


 レンは黒い丸を見た。


 さっき、途切れていた線はつないだ。


 でも扉は開かなかった。


 まだ足りない。


 夢札にこの丸を描く時、いつも最後に置いていたものがある。


 中心の、小さな点。


 なぜそこに描くのかは分からない。


 けれど、その点がないと、絵が終わらない気がしていた。


 レンは黒い丸の中心に、木炭の先を押し当てた。


 ざり。


 小さな点がついた。


 その瞬間、足元の骨が低く鳴った。


 とくん。


 今までより、近い音だった。


 扉の奥で、古い掛金(かけがね)が外れる音がした。


 ごとん。


 続いて、太い(かんぬき)が動く。


 ぎぎ。


 ぎぎぎ。


 封鎖扉(ふうさどびら)が震え、ふちに積もっていた白い粉が落ちた。


 セラが息を吸う。


「開いた?」


「たぶん」


「そのたぶん、今は信じる」


 二人で扉を押した。


 重かった。


 石と鉄がこすれ、長く眠っていたものが体を起こすような音がした。


 ぎ。


 ぎぎ。


 少しずつ、隙間が広がる。


 そこから風が入ってきた。


 湿った地下の風ではなかった。


 赤い草の匂い。


 川の鉄の匂い。


 冷たい朝の匂い。


 レンの手から、力が抜けそうになった。


 外だ。


 けれど、セラが肩で扉を押している。


「止まらない!」


「止まってない!」


「止まりそうな腕だった!」


「腕まで見ないで!」


「今は見る!」


 レンはもう一度、扉を押した。


 人ひとりが通れるほどの隙間が開く。


 白い光が流れ込んだ。


 セラが先に外へ出る。


 すぐに振り返る。


「レン!」


 レンは扉を抜けた。


 外だった。


 竜骨道の出口は、心臓王都(しんぞうおうと)カーディアの外壁の下、崖の途中に開いていた。


 水門の点検や、排水路を見回るための古い出口なのだろう。


 足元には、人ひとりが立てるほどの石の足場があった。


 その先は崖。


 下には赤い川が流れている。


 川面から白い霧が立ち上がり、朝の光の中でゆっくり広がっていた。


 外の空は、もう明るくなり始めていた。


 夜ではない。


 けれど、すっかり朝とも言い切れない。


 王都の高い壁の上だけが先に光を受け、崖の下にはまだ薄い青い影が残っている。


 レンは振り返った。


 王都の外壁がそびえている。


 石を積み上げた高い壁。


 その上に、鐘の塔が見えた。


 朝日が塔の端を照らし、壁に長い影を落としている。


 夢見院は見えない。


 けれど、あの壁の向こうにある。


 中庭も、白い夢札も、朝の食堂も。


 さっきまで自分がいた場所が、急に遠いものに見えた。


 ゴオーン。


 鐘が鳴った。


 外で聞く鐘は、夢見院の中で聞く鐘よりも大きかった。


 空に広がり、崖にぶつかり、赤い川の霧を震わせる。


 背後の扉から、兵士の声が響いた。


「出たぞ!」


 追手が封鎖扉まで来た。


 しかし出口は狭い。


 鎧を着た兵士が一人ずつ、肩をこすりながら出てくるのがやっとだった。


 先頭の兵士が石の足場へ出ようとして、すぐに止まる。


 足場は狭い。


 崖下へ下りる道は、古い鎖梯子(くさりばしご)だけだった。


 錆びた鎖梯子は、子ども二人でも揺れる細さだった。


 鎧を着た大人が下りれば、途中で切れるかもしれない。


 兵士たちは、足場の上で動きを止めた。


「梯子は使えない。重さに耐えない」


「下の管理道へ回れ」


「川沿いを塞げ」


「霧に入る前に探せ」


 追手の声は続いている。


 けれど、すぐ後ろから伸びてくる手ではなくなった。


 遠回りする声になった。


 セラが鎖梯子を引く。


 ぎし、と鳴った。


 彼女の顔が少しだけ固くなる。


 それでも手は離さない。


「下りるしかない」


 レンは足場の端から下を見た。


 赤い川。


 霧。


 細い管理道。


 遠い。


 すぐに顔を上げる。


「無理」


「早い」


「見た瞬間に分かった」


「じゃあ見なければよかった」


「見ないで下りる方が怖いよ」


 セラは鎖梯子に足をかけた。


 そこで一度、レンを見る。


「引っ張る?」


 レンは、セラの手を見た。


 何度も引かれてきた手だった。


 夢見院の裏口で。


 市場で。


 赤い川の骨橋で。


 水門の格子の下で。


 セラはいつも先に進んだ。


 レンはその手に引かれて、ここまで来た。


 けれど今、セラは手を伸ばしていない。


 片足を梯子にかけたまま、ただ待っている。


 鐘がまた鳴った。


 ゴオーン。


 王都の壁の上から、朝の空へ広がっていく音だった。


 レンは鎖梯子を見た。


 錆びている。


 揺れている。


 戻る道にも、進む道にも、ちゃんとした安心はなかった。


 レンは布袋を肩にかけ直した。


 中で木炭が、小さく鳴った。


「……いい」


 声は小さかった。


「自分で下りる」


 セラは一瞬だけ目を丸くした。


 それから笑いそうになって、やめた。


「落ちたら?」


「その時は、引っ張って」


「そこは任せて」


 セラが先に下り始めた。


 鎖梯子が揺れる。


 ぎし。


 ぎし。


 崖の下から、赤い川の音が上がってくる。


 ごう。


 ごう。


 レンは鎖をつかんだ。


 冷たい。


 ざらざらしている。


 一段、足を下ろす。


 梯子が揺れた。


「うわ」


「声、大きい」


 下からセラが言う。


「大きくなるよ、これは」


「落ちない程度に」


「声で落ちるの?」


「分からないけど」


「分からないで注意しないで」


 レンはもう一段下りた。


 背中の上では、兵士たちの声が交わされている。


「下へ回るぞ」


「川沿いの道を押さえろ」


「急げ、霧が濃い」


 足場から身を乗り出す者はいない。


 鎖梯子は、兵士たちの重さを受けるには細すぎる。


 それが分かるだけで、レンの手に少しだけ力が戻った。


 追手は消えていない。


 ただ、同じ道では追ってこられない。


 それだけだった。


 それだけで、息が一つ入った。


 最後の数段で、セラが手を伸ばす。


「ここからなら下りられる」


「飛ばない」


「まだ何も言ってない」


「言う顔してた」


「じゃあ、あと二段」


「そうする」


 レンはきっちり二段下りた。


 足が地面につく。


 崖下の古い管理道だった。


 石を敷いた細い道で、ところどころ赤い草に埋もれている。


 すぐ横には赤い川が流れていた。


 川面から白い霧が立ち上がり、足元へ流れてくる。


 セラが上を見る。


 兵士たちはまだ崖の上にいた。


 もうこちらへ手は届かない。


 けれど、声は届く。


 鐘も届く。


 ゴオーン。


 王都は、まだ背中にある。


「走るよ」


 セラが言った。


 レンは膝に手をついていた。


「少しだけ」


「少しだけなら」


「本当に?」


「三つ数える」


「短い」


「一、二、三」


「数え方が冷たい!」


 セラは走り出した。


 レンも追った。


 管理道は赤い川に沿って続いている。


 片側は崖。


 もう片側は川。


 石は濡れていて、何度も足が滑りそうになる。


 けれど、竜骨道とは違った。


 頭の上に空がある。


 霧の向こうに、まだ見えない遠くがある。


 風が、濡れた服の間を抜けていく。


 レンは走りながら、何度も息を吸った。


 湿った草の匂い。


 川の鉄の匂い。


 朝霧の冷たい匂い。


 どれも知らない匂いだった。


 背後では、兵士たちの声が遠回りしている。


 崖の上からではなく、別の道を探す声になっている。


「下流へ回れ!」


「石門橋から降りる!」


「見失うな!」


 けれど霧は、もう二人の膝の高さまで来ていた。


 白い霧が赤い草の間を流れ、管理道の先を隠していく。


 セラの姿も、少しぼやける。


 レンは慌てて近づいた。


「見えなくなる」


「それがいい」


「君まで見えなくなったら困る」


「じゃあ近くにいて」


「言われなくても」


 セラは少しだけ振り返った。


 笑ったように見えた。


 霧のせいで、はっきりとは分からなかった。


 二人はさらに走った。


 やがて、兵士の声は霧に吸われた。


 足音も聞こえない。


 追手がいなくなったわけではない。


 別の道を回っている。


 川沿いを探している。


 けれど今、二人の姿は白い霧の中に沈んでいた。


 王都の鐘だけが残った。


 ゴオーン。


 遠くなった鐘。


 霧の向こうで、壁にぶつかって鈍くなる鐘。


 セラはようやく足を止めた。


 レンも少し遅れて止まる。


 胸が上下する。


 喉が熱い。


 手も膝も痛い。


 服は泥と白い粉で汚れている。


 でも、石壁はもう頭の上にない。


 狭い通路もない。


 レンは霧の向こうを振り返った。


 心臓王都カーディアは、ほとんど見えなかった。


 高い外壁も、鐘の塔も、夢見院の屋根も、白い霧の向こうに沈んでいる。


 大きな影だけが、かろうじて背中に残っていた。


 ゴオーン。


 鐘が鳴る。


 さっきより遠い。


 けれど、まだ聞こえる。


 レンは手を開いた。


 指先には、木炭の黒と、錆の赤と、骨の白い粉が混じっている。


 夢見院にいた時なら、すぐに洗うように言われただろう。


 でも今は、手を閉じた。


 その汚れを、落とす場所がまだなかった。


 セラはレンの隣に立った。


 引っ張らなかった。


 急かしもしなかった。


 ただ、同じ方を見ていた。


 しばらくして、セラが言った。


「戻る?」


 レンは答えなかった。


 赤い川が、霧の奥へ続いている。


 夢札に何度も描いた赤い線。


 その線が、今は目の前にあった。


 川の中で、白いものがひらりと動いた。


 透き通るような白い魚。


 背中には、紙のようなひれ。


 そのひれに、黒い雨のような点がにじんでいる。


 魚は一度だけ水面近くを泳ぎ、霧の奥へ向かった。


 まるで、先へ来いと言うように。


 レンはその魚を見送った。


 霧の向こうには、何も見えない。


 海があるのか。


 谷があるのか。


 それとも、夢札に黒く塗られていた場所が待っているのか。


 分からない。


 分からないのに、赤い川だけは迷わず流れている。


 そのことが、少しだけ怖かった。


 そして、ほんの少しだけ、目を離せなかった。


 レンはもう一度、手を開いた。


 指先には、木炭の黒と、錆の赤と、骨の白い粉が混じっている。


 夢見院にいた時なら、すぐに洗うように言われただろう。


 けれど今は、その汚れを落とす水場も、戻る部屋も、明日の夢札を置く机もなかった。


 代わりに、川があった。


 霧があった。


 隣には、セラがいた。


 王都の鐘が、また鳴った。


 ゴオーン。


 遠い。


 さっきより、ずっと遠い。


 それでも、その音はまだ背中に届いた。


 レンは霧の奥を見たまま、息を吸った。


 鉄の匂い。


 湿った草の匂い。


 知らない朝の匂い。


「行く」


 声は小さかった。


 でも、セラには届いた。


 セラは笑わなかった。


 茶化しもしなかった。


 ただ、うなずいた。


「うん。行こう」


 二人は赤い川に沿って歩き出した。


 背中の向こうで、王都の鐘が鳴っている。


 どこかで追手は、まだ二人を探している。


 霧の奥には、まだ名前のない場所が待っている。


 血のように赤い川は、そのすべてを知っているみたいに、静かに流れていた。


 レンは一度だけ振り返った。


 心臓王都カーディアは、もう白い霧に沈んでいた。


 夢見院も、外壁も、鐘の塔も、はっきりとは見えない。


 けれど、そこにいた朝だけは、まだ胸の奥に残っている。


 その朝を背中に置いて、レンは前を向いた。


 セラの足音が、すぐ隣にある。


 赤い川の音が、少し先にある。


 白い魚の姿は、もう霧の奥へ消えていた。


 夢見院で始まった朝は、ここで終わった。


 そして、死んだ龍の上を行く旅が始まった。


 その旅が、どこへ続いているのか。


 まだ、誰も知らなかった。

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