骨の奥に灯る朝
竜骨道に入った途端、音の聞こえ方が変わった。
外では、鐘も川も、遠くから追いかけてきた。
けれどここでは、すべての音が近すぎた。
セラの靴が木の板を踏む音。
レンの息が喉に引っかかる音。
背後で兵士の鎧が壁にこすれる音。
そのひとつひとつが、白い骨の壁に当たり、何度も折り返してくる。
どこまで逃げても、追手がすぐ後ろにいるようだった。
道は、まっすぐではなかった。
巨大な骨と骨の隙間に、あとから人が足場をつけた場所だった。
床には古い板が渡され、ところどころに鉄の鋲が打たれている。壁ぎわには細い排水溝が走り、赤く薄い水が、灯りもない奥へ流れていた。
頭の上には、使われなくなった吊り灯りの金具が残っている。
古い坑道か、水門の点検通路に似ていた。
ただ違うのは、石壁の奥から、白い骨が覗いていることだった。
骨は、柱のように曲がり、天井を支え、床の下へ沈んでいる。
人が道を作ったというより、もともとあった巨大な骨の内側を、人がどうにか通れるようにした場所だった。
とくん。
足元で、小さな音がした。
水滴ではない。
木の板が鳴った音でもない。
レンは一瞬、足を止めかけた。
「止まらない」
前を走るセラが言った。
「止まってない」
「止まりそうだった」
「背中で決めないで」
「足より分かる」
「足も見てたの?」
「見てる。遅いから」
「それは見なくても分かるよ」
セラは前を向いたまま、低い骨の梁をくぐった。
レンも続く。
頭のすぐ上を、白い骨が弓なりに通っていた。
骨には黒い鉄の輪がはめられ、壁の石とつながれている。輪の一部は骨に食い込んでいた。
レンは、そこを見ないようにした。
けれど見ないようにすると、余計に目の端に残った。
鉄の輪の周りだけ、骨の色が少し暗い。
白いはずなのに、そこだけ長い間押さえつけられていたように見える。
レンは自分の手を握った。
爪の間には、骨橋にしがみついた時の白い粉がまだ残っている。
こすっても取れない。
背後で、金属がぶつかる音がした。
がん。
続いて、兵士の低いうめき声。
「狭いぞ」
「鎧が引っかかる」
「かまうな。進め」
追手は近い。
けれど、早くは進めていない。
竜骨道は子供二人がかがんで通れるほどの幅しかなく、ところどころ天井も低かった。レンとセラでも肩をこする。大人の兵士が鎧をつけたまま走るには、あまりに窮屈だった。
かしゃん。
がん。
かしゃん。
音が近づき、曲がり角で遠ざかり、また近づく。
レンは何度も後ろを見そうになった。
見たら足が止まる。
足が止まれば、音に追いつかれる。
だから前だけを見た。
前にいるセラの、泥で重くなった外套の裾。
赤い葦の穂がついた髪。
それから、時々、壁に触れて道を確かめる右手。
その右手は、骨橋でレンを引き上げた手だった。
「竜骨道って、何?」
レンは息の間から聞いた。
「今、説明いる?」
「いる」
「逃げ道」
「それは見れば分かる」
「じゃあ説明いらない」
「いるって言ったよね」
セラは少しだけ振り返った。
額に汗が浮いている。
それでも、口は負けていない。
「王都の下にある古い点検道。水門とか、外壁の下とか、そういうところにつながってる」
「どうして知ってるの?」
「聞いた」
「誰に?」
「あと」
「またあと?」
「今、後ろに兵士がいる」
「それを言われると、何も聞けない」
「じゃあ助かる」
「助かってない」
セラは返事の代わりに、また走った。
道は少し下っていた。
床板の隙間から、赤く薄い水がちらちら見える。どこかで水門の鎖が動いているのか、遠くから、ぎい、ぎい、と古い金具の音が届いた。
外はまだ朝のはずだった。
だが竜骨道の中には、朝も昼もなかった。
光はない。
風もない。
あるのは、白い骨の曲線と、湿った板と、遠くの鐘だけだった。
ゴオーン。
骨の壁を通って届くその音は、外で聞いた時より鈍い。
まるで土の下から鳴っている鐘だった。
セラの歩幅が少し大きくなる。
レンは遅れないように、木の板の端を踏んだ。
真ん中は湿っている。
端の方がまだ固い。
そんなことばかり考えている自分が、少し嫌になる。
けれど、そのおかげで転ばずに済んでいた。
道が二つに分かれた。
左は石を積んだ細い通路。
右は、骨の隙間を下りていく階段だった。
セラは右へ行こうとした。
レンはその袖をつかんだ。
「待って」
「何」
「板が濡れてる」
「それが?」
「滑る。あと、端の釘が浮いてる」
セラは足元を見た。
階段の板は赤黒く湿り、角が腐りかけている。踏み跡の端に、錆びた釘が一本、少しだけ浮いていた。
セラは短く息を吐いた。
「……じゃあ左」
「左も安全か分からない」
「じゃあ正確に迷う?」
「迷う前提なの?」
「迷っても進む」
「進む前に見ようよ」
セラは文句を言いかけて、飲み込んだ。
そのかわり、片足を引いた。
レンは左の通路を見た。
壁に黒い丸の印があった。
水門の奥で開いた扉に刻まれていた印と、よく似ている。
けれど、こちらは小さく、古い。
煤で黒ずみ、丸の半分は石の欠け目に飲まれていた。それでも、内側に重なった細い線だけは残っている。
レンは、その線を知っていた。
夢札に黒い丸を描く時、いつも最後に手が迷う場所。
その迷いと同じ切れ目が、壁の印にもあった。
レンの指が、布袋を握る。
中に入っている折れた木炭が、こつん、と小さく鳴った。
「こっち」
レンは左を指した。
セラが目を細める。
「なんで分かるの?」
「分からない」
「分からないで選ぶの?」
「でも、あの丸がある」
「また黒い丸?」
「うん」
「見たことあるんだよね」
レンは答えなかった。
黒い丸の線だけが、目に残っている。
夢札の上で何度も描いた印。
意味は知らない。
けれど、知らないと言い切るには、手が覚えすぎている。
背後で、兵士の声が響く。
「分かれ道だ!」
「左を見ろ!」
セラはレンの返事を待たなかった。
「じゃあ信じる。今だけ」
「短い」
「長く信じるには、説明が足りない」
「それは君もだよ」
「知ってる」
二人は左の通路へ入った。
通路は狭く、少し上りになっていた。
壁のところどころには、小さな鉄の扉がある。
点検用の小扉だろう。取っ手は錆びて、ほとんど動きそうにない。
古い道具箱が壁に取りつけられている。
蓋は半分開いていて、中には折れた楔や、錆びた鉤が残っていた。
誰かがここで働いていた。
レンは走りながら、そう思った。
水門を見回り、鎖を直し、骨の隙間に板を渡し、湿った空気の中で灯りを持って歩いた人がいた。
だが今は、追う者と逃げる子供の足音だけが響いている。
「二人は左だ!」
「速いぞ!」
「鎧を外す時間はない。追え!」
セラが振り返る。
「来る」
「聞こえてる」
「もっと速く」
「もっとばっかり!」
「じゃあ、ちょっと速く!」
「それならまだ分かる!」
レンは歯を食いしばって走った。
通路の先で、床が途切れていた。
大きな空洞がある。
水門の下を通る排水路か、古い点検用の穴だろう。下の方で、赤い水が細く流れている。
その上に、鉄の作業橋が架かっていた。
片側にだけ低い手摺があり、床は格子状の鉄でできている。ところどころ錆び、中央の一枚は少し沈んでいた。
セラが足をかけようとする。
「待って」
「また?」
「真ん中は踏まない方がいい」
「なんで?」
「沈んでる。あと、右の鎖が錆びてる」
セラは目を凝らした。
鉄格子の床は、確かに中央だけわずかに歪んでいる。右側の鎖は赤茶色に錆び、輪の一つが細くなっていた。
「よく見てるね」
「怖いから」
セラは一瞬、レンを見た。
それから、小さく笑った。
「それ、けっこう役に立つ怖がり方」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんか」
後ろの足音が近づく。
もう長くは止まれない。
レンは橋を見た。
「一人ずつ。壁側を歩いて。真ん中は避ける」
「分かった」
セラが先に渡る。
鉄の格子が、きん、と鳴った。
その音だけで、レンの肩が縮む。
セラは振り返らない。
でも、真ん中は踏まなかった。
ちゃんと壁側を進んでいる。
向こう側へ着くと、手だけを伸ばした。
「次」
レンは橋に足を乗せた。
格子の隙間から、下の赤い水が見える。
見ないようにしても、見える。
足元。
セラ。
足元。
セラ。
その順番で目を動かしながら進む。
「忙しい」
「何が?」
「見るところ」
「じゃあ私だけ見て」
「落ちる」
「じゃあ足も見て」
「だから忙しい」
セラの手がレンの腕をつかんだ。
最後の一歩で、レンは向こう側へ引き上げられた。
ほとんど同時に、背後で兵士が作業橋に足をかけた。
がしゃん。
橋が低く沈む。
「待て!」
「一人ずつだ!」
「鎧が重い!」
兵士たちが橋の手前で止まる。
セラがレンを見る。
「橋、落とせる?」
レンはすぐに首を振った。
「だめ」
「追ってきてるのに?」
「落ちたら、あの人たちも落ちる」
「捕まったら、こっちが終わるかもしれない」
「それでも、だめ」
セラは口を開きかけた。
けれど、言わなかった。
レンは橋の留め具を見た。
作業橋の片側は、壁に打たれた鉄輪へ鎖で固定されている。
鎖を全部外せば橋は落ちる。
でも、留め金を一つずらせば、橋は斜めになるだけで済む。
渡れなくなる。
落ちはしない。
「通れなくするだけなら、できるかも」
セラの目が動いた。
「できる?」
「たぶん」
「今のたぶんは?」
「怖い方」
「正直」
レンは鉄輪に近づいた。
背後から兵士が怒鳴る。
「何をしている!」
「離れろ!」
セラがレンの前に立つ。
小さな体で、兵士たちの視線を遮る。
「急いで」
「急いでる」
「急いでる指じゃない」
「指にまで言わないで」
「じゃあ、がんばって」
「それは言って」
「がんばって」
レンは留め金に指をかけた。
錆が爪に入る。
痛い。
でも、痛いならまだ動いている。
息を細く吐き、力を逃がさないように指をずらす。
ぎ。
ぎぎ。
かちん。
留め金が外れた。
片側の鎖が緩む。
作業橋が斜めに傾いた。
兵士たちが慌てて下がる。
「下がれ!」
「橋がずれる!」
橋は落ちなかった。
ただ、渡れない角度になった。
セラが小さく息を吐く。
「落とさずに止めた」
「落としたくなかったから」
「レンって、面倒くさい」
「ごめん」
「謝らなくていい。今は、その面倒くささに助けられた」
レンは返事を探した。
見つからなかった。
その間に、セラはもう前を向いていた。
「行くよ」
「うん」
二人はさらに奥へ進んだ。
背後で兵士たちが橋を戻そうとしている。
鉄の音が何度も響いた。
がん。
ぎし。
がん。
けれど、その音は少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、竜骨道の奥から、別の音が近づいてきた。
とくん。
とくん。
今度ははっきり聞こえた。
レンの胸の音とは、少しだけずれている。
セラの足音とも違う。
この道そのものが、ゆっくり脈を打っているようだった。
道は少しずつ変わっていった。
古い木の板は少なくなり、足元はほとんど白い骨になる。
石壁も途切れがちになり、代わりに太い骨の柱が、何本も並んでいた。
人の手で削られた場所には、工具の跡が残っている。
けれど削られていないところは、なめらかに丸く、冷たいのにどこか生き物の形をしていた。
セラが壁に手をついて進む。
その手は、さっきよりゆっくりだった。
「セラ」
「何」
「道、分かってる?」
「分かってる」
「本当に?」
「だいたい」
「だいたいで地下道を走らないで」
「じゃあ、正確に迷う?」
「さっきもそれ言った」
「便利だから」
「便利じゃないよ」
セラは返事をしなかった。
少しだけ息が荒い。
レンは、セラの横顔を見た。
強がっている時の顔だった。
何か知っている。
でも、全部は知らない。
知っているふりで走っている。
たぶん、セラも怖い。
けれど、怖いと言う代わりに、足を速くする。
レンはそう思った。
やがて、前方に光が見えた。
細い、白い光。
朝の光だと、レンはすぐには思えなかった。
暗い道を長く走りすぎて、外の明るさを忘れかけていた。
セラが足を速める。
「出口」
その声にも、息が混じっていた。
レンも走る。
けれど、光の手前で足が止まった。
扉があった。
古い封鎖扉だった。
石と鉄で作られ、表面には水の跡と白い粉がこびりついている。
隙間から、白い光が細く漏れていた。
外は近い。
手を伸ばせば届きそうなほど近い。
だが、その手前に扉がある。
扉の中央に、黒い丸が刻まれていた。
水門の奥で開いた扉と同じ印。
でも、こちらの方がずっと深い。
丸の内側に重なった線は、まるで何度も傷を重ねた跡のようだった。
セラが扉を押す。
動かない。
もう一度、肩で押す。
動かない。
引こうとして、取っ手がないことに気づく。
彼女はレンを見る。
「開けられる?」
レンは黒い丸を見た。
布袋の中で、折れた木炭がこつんと鳴った。
音は小さかった。
けれど、レンにははっきり聞こえた。
描け。
そう言われた気がした。
背後では、まだ追手の声が残っている。
作業橋を戻そうとする鉄の音も、また少し近づいていた。
時間はない。
それでもレンは、布袋を開けた。
折れた木炭を取り出す。
セラが眉を寄せる。
「今、絵を描くの?」
「分からない」
「分からないこと多いね」
「ごめん」
「謝らなくていいから、続けて」
レンは黒い丸に木炭を当てた。
指が震える。
でも、線の場所だけは分かった。
丸の中で途切れている一本。
夢札を描く時、いつも最後に迷う場所。
そこへ、細い線をつなぐ。
ざり。
ざり。
木炭が石をこする。
黒い線が、彫られた印の中へ入り込む。
とくん。
足元の音が大きくなった。
セラが息を止める。
レンも手を止めた。
扉の奥で、古い仕掛けが動く音がする。
ごと。
ごとん。
けれど、扉はまだ開かない。
黒い丸の中心が、ほんの少し沈んだだけだった。
レンはそこに指を触れた。
石のはずなのに、温かい。
指先の下で、かすかに脈打っている。
とくん。
とくん。
追手の足音が、また近づき始めた。
セラがレンの横に立つ。
「開く?」
レンは黒い丸から手を離さなかった。
答えは分からない。
でも、もう後ろを見る気にはなれなかった。
「……やってみる」
その声は大きくなかった。
けれど、骨の道の奥で、確かに響いた。
セラは何も言わなかった。
ただ、レンの隣で、背後の暗がりを見た。
追手の声が近づく。
出口の光は、扉の向こうで細く揺れていた。




