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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

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10/20

赤い海の町

 血海(けっかい)ヴィルマは、地面の上にある町ではなかった。


 赤い水の上に、いくつもの桟橋が組まれている。


 細い板道が家と家をつなぎ、その下を小舟が通っていく。


 板道のすき間からは、赤い水が見えた。


 水はゆっくり動いている。


 けれど、川のようにまっすぐ流れてはいない。


 押して、戻って、また押して。


 町全体が、大きな息をしているみたいだった。


 レンは船着き場に降りて、思わず足元を見た。


 板は濡れていた。


 歩くと、ぎし、と低い音がする。


 その下で赤い水が揺れ、赤塩灯(あかしおとう)の光を細かく砕いた。


 セラも舟から降りる。


 髪留めのない髪が、肩の横で少し揺れた。


 セラはすぐにそれを手で押さえる。


 何気ない仕草のように見えた。


 でも、レンには分かった。


 髪を直しているのではない。


 そこにあったはずのものがないことを、何度も確かめてしまっているのだ。


 レンは何か言いかけて、やめた。


 言葉にすると、余計に痛くなる気がした。


「立ち止まらない」


 ミナが先に桟橋へ上がって言った。


「ここ、船着き場だから。ぼーっとしてると荷物にぶつかる」


 その言葉のすぐあと、レンの横を大きな木箱が通った。


 男が二人で担いでいる。


 箱のすき間から、赤草(あかくさ)の乾いた匂いがした。


「す、すみません」


 レンが慌てて下がる。


 セラはむっとしてミナを見た。


「先に言って」


「今言った」


「遅い」


「ぶつからなかったから間に合った」


「そういう問題じゃない」


「ヴィルマでは、ぶつかってないなら大体間に合ってる」


 ミナはそう言って、濡れた板道を歩き出した。


「ついてきて。勝手に横道に入らない。赤い紐が結んである橋は渡らない。水に手を入れない。知らない舟に呼ばれても乗らない」


「子ども扱いしないで」


 セラが言った。


「ここでは、土地を知らない人の方が子ども」


 ミナは振り返らずに答えた。


「道を知ってる子どもと、道を知らないよそ者なら、よそ者の方が危ない」


「……それは、まあ」


 セラは言い返そうとして、やめた。


 レンは少しだけ驚いた。


 いつものセラなら、もう一言返している。


 でも今は、髪を押さえたまま、黙ってミナの後ろを歩いていた。


 板道の両側には、家が並んでいた。


 白っぽい骨材と、黒い木を組み合わせた壁。


 屋根には赤草が干され、軒先には小さな赤塩灯が並んでいる。


 赤塩灯の光は、普通の火よりも柔らかかった。


 赤いのに、熱そうではない。


 水の上で眠る小さな星みたいに、ぼんやりと町を照らしている。


 窓辺では、女の人が赤草を細く裂いていた。


 別の家の前では、男の人が舟底(ふなぞこ)を削っている。


 削った木片が、水へ落ちる前に、小さな子どもが網ですくい取った。


 その子はレンと目が合うと、少しだけ首をかしげた。


 よそ者だと、すぐに分かったのかもしれない。


 レンは軽く会釈した。


 子どもは返事の代わりに、網を高く持ち上げて見せた。


 木片が一枚、ぴらりと揺れる。


「ここでは、落ちたものも使うの?」


 レンが聞く。


「使えるものは使う」


 ミナが答えた。


「濡れた木片は乾かして火種にする。赤草のくずは灯りの芯にする。魚の骨は針や飾りになる」


「捨てないんだ」


「捨てる場所が少ないからね」


 ミナは足元の赤い水を指した。


「水の町は、下に捨てたものが消えない。水路を回って、あとで別の場所から帰ってくる」


 レンは思わず板道の下を見た。


 赤い水が、静かに流れている。


 捨てたものが帰ってくる。


 それは少し怖い言葉だった。


 でも、ミナは怖がらせるために言ったのではなさそうだった。


 ただ、この町の当たり前を言っただけ。


 ヴィルマの人たちは、水の上で暮らしている。


 だから、水に対して雑にはできない。


 板道を進むと、町の音が増えていった。


 舟の底が水を叩く音。


 荷物を引きずる音。


 誰かが値段を言う声。


 赤塩をすくう、ざり、という音。


 遠くで鳴る小さな鈴。


 その全部が、赤い水の上で重なっていた。


 市場は、広い桟橋の上にあった。


 陸の広場ではなく、水の上の広場。


 何本もの板道が集まり、周りには小さな舟がいくつも泊まっている。


 屋台の布は赤や白や黒で、風もないのに、少しずつ揺れていた。


 赤塩を量り売りする店。


 赤草を束ねる店。


 小魚を串に刺して焼く屋台。


 骨細工の飾りを並べた小さな棚。


 赤塩灯の皿を磨く店。


 潮読(しおよ)みの道具らしい、輪や鈴や小瓶を売る古い屋台。


 レンは思わず足を止めそうになった。


 見たことのないものばかりだった。


 赤塩の店では、女の人が浅い皿に赤い結晶を並べている。


 赤塩はただ赤いだけではなかった。


 薄い桃色のもの。


 血のように濃いもの。


 橙色に近いもの。


 火にかざすと、きらりと光るもの。


 同じ赤でも、少しずつ違う。


「赤塩って、こんなに種類があるんだ」


 レンが言うと、ミナは少しだけ得意そうにした。


「採れる場所と潮で違う。料理に使うもの、灯りに使うもの、舟塗(ふなぬ)りに混ぜるもの、薬に使うもの。全部同じに見える人は損する」


「また損」


 セラが小さく言った。


「ヴィルマでは大事」


 ミナは当然のように言う。


 焼き魚の屋台から、香ばしい匂いがした。


 小さな魚に赤塩を振り、赤草の火であぶっている。


 皮がぱち、と鳴った。


 セラのお腹が、小さく鳴る。


 セラはすぐにお腹を押さえた。


 レンは聞こえなかったふりをした。


 ミナは聞こえた顔をした。


「買わないよ」


「まだ何も言ってない」


「顔に言ってた」


「顔を見るな」


「見なくても聞こえた」


「聞くな」


「難しい注文が多い」


 ミナはそう言いながら、屋台の前を通りすぎた。


 屋台の男がミナに気づく。


「ミナ、帰ったのか」


「見れば分かるでしょ」


「また外の水を見に行ってたのか」


「内側だけ見てても、分からないことがあるから」


「潮読み見習いが偉そうに」


「見習いでも目はついてる」


 男は笑った。


「口もな」


「それは生まれつき」


 ミナは軽く手を上げて通りすぎる。


 レンはそのやり取りを見て、少し安心した。


 ミナは町で嫌われているわけではない。


 でも、完全に大人の中に入れてもらっているわけでもない。


 大人たちはミナを知っている。


 声をかける。


 笑う。


 けれど、どこかで「子ども」として見ている。


 その線が、見えない板のようにミナの前に置かれている気がした。


 市場の端で、細い小舟が桟橋の下からすっと現れた。


「ミナ!」


 舟の上で、少年が手を振っている。


 レンと同じくらいの年だった。


 茶色い髪が、湿気で少し跳ねている。


 片手で(かい)をあやつり、もう片方の手で山のような赤草の束を押さえていた。


 舟は狭い水路を曲がり、桟橋の横にぴたりと止まった。


 ミナが振り返ると、少年はなぜか少しだけ背筋を伸ばした。


 それから、何でもなかったみたいに笑った。


「また怒られるよ。潮読み小屋、朝から探してた」


「探されるうちは人気者ってこと」


「人気者は呼び出しから逃げない」


「じゃあ、わたしは人気者じゃなくていい」


「そう言って、あとで本当に怒られるの、いつもミナじゃん」


 トーリは笑っていた。


 けれど、その声には少しだけ本気が混じっていた。


「心配してるの?」


 セラが聞くと、トーリは一瞬だけ言葉に詰まった。


「いや、怒られると市場まで声が聞こえるから迷惑なだけ」


「余計なお世話」


 ミナはそう言って、まるで気にしていない顔で返した。


 少年はレンとセラを見る。


「その二人、だれ?」


「荷物」


 ミナは首から下げた布包みに、ほんの少しだけ指を触れた。


「高くついた荷物」


「人に見えるけど」


「しゃべる荷物」


「へえ。珍しい」


「荷物じゃない」


 セラが言った。


「お、しゃべった」


 少年は面白そうに笑う。


「名前は?」


「先にそっち」


「トーリ。市場の荷運び。舟の上なら、だいたいどこでも行ける」


 少年は胸を張った。


 舟の上で胸を張っても揺れない。


 レンは少し感心した。


「ぼくはレン」


「セラ」


「レンとセラ。よそから来た?」


 トーリの目がきらっと光る。


 ミナがすぐに口を挟んだ。


「トーリ」


「何?」


「余計なことを聞くと、あとでわたしに聞かれるよ」


「それは嫌だな」


 トーリは肩をすくめた。


 でも、目は楽しそうだった。


「じゃあ聞かない。でも、目立つよ」


「分かってる」


「特にそっち」


 トーリはセラを指した。


 セラが眉を寄せる。


「何」


「髪。ヴィルマじゃあまり見ない色」


 セラは反射的に髪を押さえた。


 レンは胸が少し痛くなる。


 トーリはその反応を見て、すぐに手を下げた。


「あ、ごめん。悪い意味じゃない」


「別に」


 セラは短く答えた。


 けれど、手は髪から離れなかった。


 ミナがトーリを見る。


「何か用?」


「あ、そうだった。ラウ婆が探してた。『あの鈴の足音が戻ったら、すぐ連れてこい』って」


「足音で分かるんだ」


 レンが思わず言った。


 トーリは得意そうにうなずく。


「ラウ婆は何でも音で分かるよ。舟の重さも、荷物の中身も、嘘ついた時の息の詰まり方も」


「それは嫌だね」


 ミナが言う。


「ミナが一番嫌がってるやつ」


「余計なこと言わない」


「ほら、今も嫌そう」


 トーリは笑った。


 ミナはため息をつく。


「あとで行く」


「あとでって言うと、行かないでしょ」


「行く」


「本当?」


「今はこの荷物を案内してる」


「やっぱり荷物なんだ」


 トーリはレンとセラを見て、にっと笑った。


「ヴィルマで迷ったら呼んで。舟ならミナより速いよ」


「嘘」


 ミナがすぐに言った。


「半分本当」


「それ、ほぼ嘘でしょ」


 セラが言うと、トーリはにっと笑った。


 トーリは笑いながら、赤草の束を押さえ直した。


「じゃあ、あとで潮読み小屋で」


 小舟は水を切って、すっと市場の下へ消えていった。


 レンはその動きを目で追った。


 トーリの舟は、板道の下をくぐり、小さな水路に入っていく。


 まるで町の下に、もう一つ別の道があるみたいだった。


「すごい」


 レンは思わず言った。


「何が?」


 セラが聞く。


「この町、上にも下にも道がある」


「道だけじゃないよ」


 ミナが言った。


「水路も、潮路も、古い道もある。知らない人が歩くと、同じ場所をぐるぐる回る」


「だから勝手に歩くなって?」


「そう」


 ミナはうなずく。


「迷子を探すのは損だから」


 市場の奥へ進むと、骨細工の店が並んでいた。


 白い骨を削った小さな魚。


 赤い紐を通した腕輪。


 貝殻と骨を合わせた耳飾り。


 細い骨を月の形に曲げた髪飾り。


 その中に、青い石をはめ込んだ小さな飾りがあった。


 セラの足が、一瞬だけ止まる。


 青い石。


 形は違う。


 色も少し浅い。


 でも、失った髪留めを思い出すには十分だった。


 セラはすぐに目をそらした。


 何でもなかったように歩き出す。


 レンは何も言わなかった。


 言えなかった。


 ミナも気づいていた。


 気づいたはずなのに、何も言わなかった。


 ただ、首から下げた小さな布包みに、一瞬だけ指を触れた。


 それだけだった。


 市場を抜けると、骨の門が見えた。


 夢札に描かれていたものより、ずっと大きかった。


 門は町の中心にあるのではなく、古い水路の入り口に立っていた。


 太い骨が何本も組まれ、上で交差している。


 竜の肋骨をそのまま立てたようにも見えた。


 骨には赤い布が結ばれている。


 貝殻。


 古い札。


 小さな鈴。


 子どもの手形がついた布。


 誰かの祈りの跡が、何年分も重なっていた。


 門の下を通る人たちは、少しだけ頭を下げた。


 急いでいる人も。


 荷物を抱えている人も。


 子どもも大人も。


 ほんの一瞬、門に目を向ける。


 レンも自然に足を止めた。


「ここ……」


 セラが小さく言った。


「夢札の絵と同じ」


 レンは布袋を押さえた。


「うん」


 まだ取り出してはいない。


 それなのに、布袋の中が少しだけ温かい気がした。


「何の門?」


 レンが聞く。


「古い門」


 ミナは言った。


「昔は、潮を祈る門だったって聞いてる」


「潮を祈る?」


「水の町は、水に嫌われたら終わりだから」


 ミナは骨の門を見上げた。


「今は、ただ通るだけの門。そう言う大人もいる」


「ミナは?」


「わたしは、ただの門なら、みんなが頭を下げたりしないと思う」


 ミナの声は静かだった。


 レンは夢札を取り出した。


 古びた札の中に、赤い海が描かれている。


 水の上の灯り。


 奥に立つ骨の門。


 やはり似ていた。


 いや、似ているだけではない。


 同じ場所を、別の夢の中から見たようだった。


 夢札の赤い海の色が、ほんの少し濃くなった気がした。


 レンは目をこすった。


 光ったわけではない。


 線が増えたわけでもない。


 ただ、赤が深くなった。


 水の底に何かが沈んだみたいに。


「反応した?」


 セラが聞く。


「分からない」


「分からない顔してる」


「本当に分からないんだ」


 レンは夢札をしまった。


 ミナが門の向こうを見た。


「ラウ婆なら、何か分かるかもしれない」


「ラウ婆って、さっきトーリが言ってた人?」


「わたしの師匠」


「潮読みの?」


「うん。目は悪いけど、耳と鼻が怖いくらい良い」


「怖いくらい?」


「嘘をつくと、たぶん息でばれる」


「嫌な師匠」


「だから、あんまり会いたくない」


「師匠なのに?」


「師匠だから」


 ミナはそう言って、骨の門から横の細い板道へ入った。


 市場のにぎやかさが、少しずつ遠ざかる。


 道は細くなり、家と家のすき間を通っていく。


 ここは観光の道ではなかった。


 水をくむ桶。


 濡れた網。


 赤草を束ねる古い紐。


 乾かしかけの舟板。


 生活の道。


 町の裏側。


 レンは足元に気をつけながら進んだ。


 板道の横に、細い水路がある。


 その水路を小さな舟が通り、子どもが上手に体を傾けて橋の下をくぐっていった。


 ヴィルマの子どもたちは、水の上にいる方が自然に見える。


 レンは自分の足元が、急に頼りなく感じた。


 少し進んだところで、前から男が二人やって来た。


 赤い帯を腰に巻き、同じ形の黒い上着を着ている。


 市場の人たちとは少し雰囲気が違った。


 歩くたびに、板道の人が自然と端へよける。


 ミナはすぐに立ち止まった。


 レンとセラにも、小さく手で合図する。


「ミナか」


 男の一人が言った。


「戻っていたのか」


「見れば分かるでしょ」


 ミナはいつもの調子で答えた。


 男は目を細める。


「潮読み小屋に戻れ。港長が探している」


「港長はいつも何か探してるね」


「口を慎め」


「口まで潮読み小屋に置いてくるのは難しい」


 男の視線が、レンとセラへ向いた。


「その子どもたちは?」


「荷運び」


 ミナが即答した。


「見ない顔だ」


「市場に全部の顔を覚えてるの?」


 男は水面に浮かぶ白い泡をちらりと見た。


「今は、これ以上余計なものを入れるなと言われている」


 余計なもの。


 その言葉に、セラの肩がぴくりと動いた。


 ミナはセラの前に半歩だけ出た。


「赤草の荷を運ばせただけ。用が済んだら帰す」


「どこへ」


「舟着き場」


「なら、早く済ませろ」


 男たちはそれだけ言って、板道を進んでいった。


 通りすぎる時、赤い帯が水の光を受けて暗く揺れた。


 セラが小さく息を吐く。


「何あれ」


「港長の下で働いてる人」


 ミナが言った。


「感じ悪い」


「感じで仕事してないからね」


「わたしたちを余計なものって言った」


「今怒ると損」


 ミナは短く言った。


「ここでは、言い返す相手を選んだ方がいい」


 セラは不満そうだった。


 でも、さっきより強く言い返さなかった。


 髪留めを渡したあとのセラは、少しだけ言葉を選んでいるように見えた。


 レンには、それが大人になったからではなく、何かを飲み込んでいるからに見えた。


 細い板道の先に、小さな小屋があった。


 町の端に、半分だけ水へせり出すように建っている。


 壁は古い黒木でできていた。


 屋根には赤草が薄く敷かれている。


 軒先には、鈴や貝殻や小さな骨の輪がたくさん吊るされていた。


 風はない。


 けれど、水が動くたびに、どこかで小さく鳴る。


 ちり。


 から。


 ちりん。


 小屋そのものが、町の音を聞いているみたいだった。


「ここが潮読み小屋?」


 レンが聞く。


「そう」


 ミナは戸に手をかけた。


 その前に、中から声がした。


「遅い」


 しわがれた声だった。


 ミナの手が止まる。


「まだ開けてない」


「足音が戸の前で止まった。言い訳は戸を開けてからにしな」


 ミナは少し嫌そうな顔をして、戸を開けた。


 中は薄暗かった。


 外の赤い光が、細い窓から斜めに入っている。


 壁には古い板が何枚もかけられていた。


 板には線や点や波の形が刻まれている。


 床には水の音を聞くための管が伸びていた。


 天井からは鈴、貝殻、骨の輪、小さな小瓶が吊るされている。


 それらが水の動きに合わせて、かすかに鳴った。


 小屋の奥に、小さな老婆が座っていた。


 背は丸い。


 髪は白い。


 目は薄く濁っている。


 けれど、顔はまっすぐこちらを向いていた。


 見えていないはずなのに、見られている気がした。


「舟の音がひとつ多いと思ったら、客まで拾ってきたね」


 老婆が言った。


 ミナは肩をすくめる。


「拾ったんじゃない。取引した」


「なら、もっと悪い」


「損はしてない」


「そう言う時のあんたは、だいたい損の入口に立ってる」


 ミナは黙った。


 レンは少し驚いた。


 ミナが言い返さない。


 いや、言い返せない。


 この老婆は、ミナよりずっと強い。


 力ではなく、言葉の置き方が。


「その子たち、前へ」


 老婆が言った。


 レンとセラは顔を見合わせる。


 ミナが小さくうなずいた。


「ラウ婆。こっちがレン。こっちがセラ」


「名前はまだ軽い。足音の方が先に覚える」


 ラウ婆は耳を少し動かした。


「レン。あんたは立つ時に迷う音がする」


「え」


「セラ。あんたは怒ってる時ほど、足を静かに置く」


 セラの顔が少し変わった。


「……見えてるの?」


「見えなくても分かることはある」


 ラウ婆は鼻を鳴らした。


「それから、古い紙の匂いがする」


 レンの手が、布袋へ伸びた。


 ラウ婆の顔が、少しだけそちらを向く。


「隠さなくていい。隠す音もする」


 ラウ婆の言葉に、レンは思わず息を詰まらせた。


 その様子を見たミナが、老婆に向き直る。


「ラウ婆、分かるの? この子たちの持ってる札のこと」


「夢札かい?」


 ラウ婆の声が、少し低くなった。


 小屋の鈴が、ちり、と鳴った。


「その言葉を、今の子が知ってるのかい」


 レンはゆっくり布袋を開いた。


 夢札(ゆめふだ)を一枚取り出す。


 ラウ婆は見えていないはずなのに、札の方へ手を伸ばした。


 触れる前で、手を止める。


「古い夢の匂いだ」


 レンは息をのんだ。


「知っているんですか」


「知っている、とは言わない」


 ラウ婆は静かに言った。


「忘れられたものの名前を、少し覚えているだけだよ」


「この札に、ヴィルマが描かれていました」


「骨の門かい」


「はい」


「なら、ここで終わりじゃない」


 セラが一歩前へ出た。


「どういう意味?」


「門は飾りじゃない。門は、入口だ」


「入口なら、どこへ行くの?」


 ラウ婆は床に手を置いた。


 古い木の下で、赤い水がゆっくり鳴っている。


「それを聞くために、あんたたちはここへ来たんだろう」


 レンは夢札を見下ろした。


 赤い海。


 水の上の灯り。


 骨の門。


 その絵の下に、今までなかった細い線が浮かんでいた。


 黒い線。


 門の足元から、水の下へ沈むように伸びている。


「これ……」


 レンの声がかすれた。


 のぞき込んだセラの息が、小さく止まる。


 ミナもまた、その黒い線を凝視していた。


 ラウ婆は見えていないはずなのに、静かに息を吐いた。


「夢札が、次を見せたね」


「次?」


 セラが聞く。


 ラウ婆は床の下を指した。


「上じゃない」


 その時、小屋の下で水が鳴った。


 ごぼり。


 赤い泡が、ひとつ弾ける。


 吊るされた鈴が、ちりん、と震えた。


 ラウ婆は低く言った。


「下だよ」


 レンは夢札を握ったまま、床板のすき間を見た。


 赤い水の奥で、何かがゆっくり動いた気がした。

第10話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、レンたちがついに血海(けっかい)ヴィルマの町へ足を踏み入れる回でした。


赤い水の上に広がる板道。

水面に浮かぶ赤塩灯(あかしおとう)の光。

赤塩を売る市場。

小舟で町を行き来する人々。

そして、町の奥に立つ骨の門。


ヴィルマは不穏な場所でありながら、そこには確かに人々の暮らしがあります。


今回、新しく登場したトーリは、市場で荷運びをしている少年です。

明るくて口が軽く、ミナとは昔からの知り合いのような距離感があります。

ミナは彼を気安い仕事仲間のように扱っていますが、トーリの方は少しだけミナを気にしている様子もありました。


その気持ちに、ミナ本人はまったく気づいていません。


また、ラウ婆も登場しました。

目は悪くても、音や匂いで人や物事を読む、ヴィルマの古い潮読(しおよ)みです。

夢札のことを知っているようでいて、すべてを語るわけではない人物です。


夢札に浮かび上がった黒い線。

骨の門。

そして、ラウ婆の言葉。


「上じゃない」

「下だよ」


レンたちが次に向かうのは、町の下に隠された水路かもしれません。


ヴィルマの赤い水は、何を隠しているのか。

港長たちは、なぜよそ者を警戒しているのか。

そして、夢札が見せた「下」には何があるのか。


次回、レンたちはヴィルマの奥へ進んでいきます。


この先、町の下には何があると思いますか?

よければ、感想や予想、「こんな続きを見たい」というアイデアを聞かせてもらえるとうれしいです。


感想、評価、ブックマーク、リアクションなども、物語を続ける大きな励みになります。

少しでも面白いと思っていただけたら、応援してもらえるとうれしいです。

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