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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

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19/20

もらいすぎ

 潮鐘の音は、まだヴィルマの上に残っていた。


 ごん。


 長く。


 遠く。


 赤い海の向こうへ消えたはずの音が、骨柱の間を回り、板道の下をくぐり、もう一度町へ戻ってくる。


 水は、動いていた。


 ずっと止まっていた赤い水が、ゆっくりと流れている。


 黒い泡は、まだある。


 水面の端に寄り、塩床の陰に引っかかり、割れては嫌な匂いを残す。


 赤塩灯の火も、完全には戻っていない。


 赤くなったかと思えば、また黒く揺れる。


 濡れた赤塩袋は市場の床に倒れたまま。


 魚籠の中では、白い魚が腹を見せて浮いている。


 助かった。


 でも、元通りではない。


 町の人々は、それを見ていた。


 声は、すぐには出なかった。


 喜び方が分からないのだ。


 水が流れたことは、確かに救いだった。


 けれど、流れ始めた水は、止まっていた時間も一緒に連れてきた。


「……動いてる」


 誰かが言った。


「でも、魚が」


「塩床はどうなる」


「赤塩は売れるのか」


「いつからだ」


 別の声が落ちた。


「いつから、閉じてたんだ」


 その声で、市場の空気が少し変わった。


 安堵が、怒りに触れる。


 怒りが、恐怖に触れる。


 恐怖が、誰かの名前を探し始める。


 人々の視線が、潮門の前に立つ港長へ向いた。


 港長は、逃げなかった。


 黒い杖は、まだラウ婆の手にある。


 杖を持たない港長は、いつもより少し小さく見えた。


 けれど、背中は曲げていない。


 潮門を見たまま、ただ立っている。


 セラは、その横顔を見ていた。


 許したわけではない。


 助けに動いたからといって、何もかも帳消しになるわけではない。


 でも、今はまだ、下に三人がいる。


 レン。


 ミナ。


 トーリ。


 その名前を思った瞬間、セラは足場の方へ走り出した。


「縄は!」


 セラが叫ぶ。


 荷運びの男が太い縄を肩に担いで駆けてくる。


「持ってきた!」


「舟は!」


「下ろしてる!」


 赤い帯の男たちも動いていた。


 さっきまで人を止めるために立っていた者たちが、今は板道の端に腹ばいになり、水路の下をのぞき込んでいる。


 誰かが叫んだ。


「見えた!」


 セラの胸が跳ねる。


「どこ!」


「逃がし道の横だ! 流されてる、でも沈んでない!」


 その言葉に、セラは息を吸った。


 沈んでない。


 それだけで、膝から力が抜けそうになる。


 でも、抜けている場合ではなかった。


「縄、下ろして!」


 セラが言う。


 荷運びの男がうなずき、太い縄を水路へ落とした。


 縄の先には、骨で作られた小さな鉤が結ばれている。


 水の音がまだ大きい。


 下の声は届かない。


 でも、縄は届く。


     *


 下の水路で、トーリは水面から落ちてきた縄を見た。


「来た!」


 声がかすれていた。


 腕はもう震えている。


 櫂を握りすぎて、指の感覚がほとんどない。


 それでも、櫂を離したら舟が横を向く。


 横を向いたら、まだ残っている大門の吸い込みに取られる。


「レン、縄!」


「うん!」


 レンが舟の縁へ這うように移動する。


 ミナがその背中を押さえた。


「落ちないで」


「落ちない」


「落ちる人はだいたいそう言う」


「それ、さっきトーリにも言ってた」


「落ちそうな人には言う」


 レンは少しだけ笑いそうになった。


 でも、縄は水の上で跳ねている。


 笑っている余裕はない。


 手を伸ばす。


 届かない。


 舟が揺れる。


 縄が水に叩かれる。


 もう一度、手を伸ばす。


 指先が縄に触れた。


 けれど、濡れて滑る。


「レン!」


 トーリが叫ぶ。


 レンは夢札を胸に押しつけたまま、もう片方の手で縄をつかんだ。


 今度は離さない。


「取った!」


「舟に結んで!」


 ミナが叫ぶ。


 レンは縄を舟の骨輪に通そうとする。


 指が震えてうまくいかない。


 ミナが横から手を出した。


「貸して」


「でも」


「結び目はわたしの方が早い」


 ミナは濡れた縄をつかみ、手早く骨輪に回した。


 一回。


 二回。


 締める。


 でも、すぐに顔をしかめた。


「これ、もたない」


「え?」


「舟ごと引いたら、輪が割れる」


 トーリが水の流れを見た。


「じゃあ、人だけ上げる」


「誰から」


「レン」


 ミナとトーリの声が重なった。


 レンは驚いて二人を見る。


「僕?」


「夢札持ってる」


 ミナが言う。


「あと、いちばん軽い」


 トーリが言う。


「二つ目、必要だった?」


「大事」


「大事だけど」


 レンは言いかけて、やめた。


 ミナの顔も、トーリの顔も、冗談ではなかった。


 上へ行け。


 夢札を濡らすな。


 生きろ。


 そう言われているのだと、分かった。


「分かった」


 レンは縄を体に回した。


 ミナが結び直す。


「苦しかったら言って」


「うん」


「言っても、すぐ止まらないかもしれないけど」


「言う意味」


「ないよりまし」


 トーリが上へ向かって叫ぶ。


「引いて!」


 声が届いたのかは分からない。


 けれど、縄が張った。


 レンの体が持ち上がる。


 水が足元から離れる。


 舟が下に小さくなる。


 ミナが見上げていた。


 トーリは櫂を握ったまま、舟を押さえている。


 レンは夢札を胸に抱えた。


 赤い水が遠ざかる。


 黒い泡が遠ざかる。


 でも、白い骨の線だけは、まぶたの裏に残っていた。


     *


 レンが足場に引き上げられた瞬間、セラが駆け寄った。


「レン!」


 名前を呼ばれて、レンはようやく息を吐いた。


 体が濡れている。


 袖も、靴も、髪も。


 でも、夢札は胸の布の中にある。


 セラはレンの肩をつかんだ。


「生きてる?」


「生きてる」


「夢札は?」


「濡れてない」


「そこじゃない!」


 怒鳴られて、レンは少しだけ目を瞬いた。


 それから、ふっと息を漏らした。


「ごめん」


 セラの顔が歪んだ。


 怒っている。


 泣きそうでもある。


 でも、泣かなかった。


「ミナは。トーリは」


「下」


 レンは水路を見た。


「先に僕を上げた」


「何で」


「軽いから」


「そこ?」


「夢札もあるから」


「そっちを先に言って」


 セラはすぐに水路の方へ向いた。


「次! ミナを上げて!」


 赤い帯の男たちが縄を下ろす。


 市場の人々も手を貸していた。


 誰かが縄を引く。


 誰かが足場を押さえる。


 誰かが濡れた板に布を敷く。


 さっきまで港長を責めようとしていた人たちが、今は同じ縄を握っている。


 助けるために。


 まだ怒っているまま。


 まだ許していないまま。


 それでも、同じ方向へ力を入れている。


 レンはその光景を見た。


 それが、少し不思議だった。


 人は、怒っていても助けられる。


 許していなくても、支えられる。


 なら、町は。


 この世界は。


 どれだけ間違えていても、まだ流れ直せるのだろうか。


 そう思いかけて、レンはすぐにやめた。


 まだ、分からない。


     *


 ミナは、上がってきた瞬間に足を滑らせた。


 セラが腕をつかむ。


 ミナの体は、思ったより軽かった。


 濡れた袖から赤い水が滴る。


 顔は青白い。


 それでも、目だけは水路を見ていた。


「トーリは」


 セラが言う前に、ミナが言った。


「最後」


「何で」


「舟を離さないから」


 ミナはセラの手をほどこうとした。


 でも、足が少し震えている。


 セラは離さなかった。


「座って」


「まだ下を見ないと」


「座って」


「命令?」


「そう」


 ミナはむっとした顔をした。


「セラ、そういうとこあるよね」


「今はある」


「損な性格」


「知ってる」


 セラはミナを板道に座らせた。


 ミナは文句を言いかけたが、息が切れて続かなかった。


 レンが隣にしゃがむ。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


 ミナは正直に言った。


「でも、読む」


「今は休んで」


「休むのは、全部見てから」


「ミナ」


 レンが名前を呼ぶ。


 ミナは水路から目を離さなかった。


 その横顔を見て、セラは何か言おうとした。


 けれど、言わなかった。


 ミナはこの町の子だ。


 逃げたいわけではない。


 休めないのではなく、休む前に見なければならないものがあるのだ。


 セラにも、それくらいは分かった。


 水路の下から、トーリの声がかすかに響いた。


「先に言っとくけど!」


 全員が水路をのぞき込む。


「舟は、まだ沈んでない!」


 セラは思わず怒鳴った。


「舟より先に自分を上げなさいよ!」


「それ、上から言うと正しい!」


 トーリの声が返る。


 ミナが小さく息を吐いた。


「うるさい」


 でも、その声は少しだけ震えていた。


 縄が下りる。


 トーリは最後まで舟の骨輪を確認してから、縄に腕を通した。


 引き上げられる途中でも、下を見ている。


 舟。


 櫂。


 流れ。


 逃がし道。


 自分が離れたあとも、舟が大門の吸い込みに取られないかを見ている。


 それがトーリだった。


 板道へ引き上げられた瞬間、彼は仰向けに倒れた。


「生きてる?」


 ミナが聞いた。


 トーリは片手を上げた。


「沈んでない」


「生きてるか聞いた」


「だいたい同じ」


「違う」


 トーリは目を閉じたまま笑った。


「生きてる」


 泥と赤い水にまみれた、いつも通りの軽い笑い方だった。


 その一言で、セラの肩から力が抜けた。


 レンも、膝の震えを抑えるように息を吐いた。


 ミナは何も言わなかった。


 ただ、濡れた前髪を乱暴に払って、水路の方を向いた。


 口元だけが、ほんの少し緩んでいた。


     *


 町は、動き始めていた。


 荷運びたちが濡れた赤塩袋を高い棚へ移す。


 赤塩灯の芯を抜き、黒くなった部分を切る者がいる。


 塩床へ向かう者。


 魚籠を運び出す者。


 子どもたちを家へ戻す者。


 市場の板道に溜まった水を外へ流す者。


 誰かが命じたわけではなかった。


 いや、少し前なら、港長の命令がなければ動かなかったのかもしれない。


 でも今は違った。


 みんな、自分の目で見ていた。


 水が止まると、町が腐る。


 閉じたままでは、守れない。


 その事実を見てしまった。


 だから動く。


 ミナは濡れたまま立ち上がった。


 セラが手を伸ばす。


「まだ座ってなって」


「黒い泡の残りを見る」


「誰か大人にやらせればいいでしょ」


「読める人が見る」


「ラウ婆は?」


「ラウ婆は港長を見る」


 セラは言葉に詰まった。


 確かに、ラウ婆は港長のそばに立っていた。


 港長は、潮門の前から動いていない。


 町の人々の視線を受けている。


 逃げようと思えば、赤い帯の男たちに囲ませることもできる。


 説明を先延ばしにすることもできる。


 けれど、港長はそれをしなかった。


 水が流れる音の前に、ただ立っている。


 誰かが言った。


「港長」


 別の誰かが続ける。


「説明を」


「潮門は、いつから」


「赤塩のためだったのか」


「冬のためか」


「商人のためか」


「俺たちには、何も言わなかった」


 言葉が増えていく。


 赤い帯の男たちは、港長を守るように動きかけた。


 港長は手を上げた。


 止める。


 今度は、町の人々を止めるためではなかった。


 自分の側の者を止めるためだった。


 港長は一歩前へ出た。


 市場が静まる。


 完全ではない。


 怒りはまだある。


 泣いている者もいる。


 濡れた赤塩袋を抱えたまま、港長をにらむ商人もいる。


 港長は、その全部を見た。


 そして、短く言った。


「潮門を閉じていた」


 市場がざわめく。


 誰かが息をのむ。


 港長は続けた。


「開く日を、先へ延ばした」


 ラウ婆は何も言わない。


 セラも口を挟まない。


 レンは夢札を抱えたまま、港長を見ていた。


「その結果、水を腐らせた」


 港長の声は低い。


 震えてはいなかった。


 でも、強くもなかった。


「責任は、私にある」


 市場が割れたように騒がしくなった。


「責任って何だ!」


「魚は戻らないぞ!」


「塩床はどうする!」


「赤塩の取引は!」


「うちの子が黒い水を吸ったんだ!」


 怒りが押し寄せる。


 当然だった。


 流れ始めた水は、人々の怒りまで流し出した。


 港長は言い返さなかった。


 町を守るためだった。


 冬を越すためだった。


 赤塩がなければ食べていけなかった。


 そう言えば、少しは自分を守れたかもしれない。


 けれど、言わなかった。


 言えば、その分だけ水が濁る。


 そう分かっているように、港長は黙っていた。


 セラは拳を握った。


 その沈黙が正しいのかは、分からない。


 でも、今ここで言い訳をしないことだけは、少しだけ分かった。


 ラウ婆が、ようやく口を開いた。


「怒るなら、流しながら怒りな」


 市場の視線がラウ婆へ向く。


「水を止めて怒れば、また腐る。手を動かしながら怒るんだよ」


 誰かが歯を食いしばった。


 誰かが濡れた赤塩袋を持ち上げ直した。


 誰かが泣きながら、灯の芯を交換し始めた。


 怒りは消えない。


 でも、町は止まらなかった。


     *


 ミナは、塩床の縁にしゃがみ込んでいた。


 濡れた髪が頬に張りついている。


 赤い水の流れを見て、指を水面ぎりぎりで止める。


 触らない。


 見る。


 泡の間隔。


 濁りの色。


 黒い膜の薄さ。


 水の戻り方。


 レンはその横に立っていた。


 セラは少し離れて、トーリが座り込んでいるのを見張っている。


 トーリは立とうとしては、セラににらまれて座り直していた。


「黒い泡、減ってる」


 レンが言った。


「減ってるだけ」


 ミナは答える。


「消えてない」


「うん」


「塩床も、表面だけ見ても駄目。下に溜まってたら、また腐る」


「うん」


「赤草干し場も見る。舟底の塗りも。灯の芯も。魚籠も」


「全部?」


「全部」


 ミナは顔を上げなかった。


「ヴィルマの流れは、町の下だけじゃない。店の裏も、台所も、船着き場も、子どもの水飲み場も、全部つながってる」


 その声は、疲れているのに強かった。


 レンは、少しだけミナを見た。


 第9話で会った時のミナなら、きっと損か得かを先に言った。


 でも今のミナは、損を数える前に水を見ている。


 損をしないためではない。


 町を沈ませないために。


 ラウ婆が、いつの間にか近くに立っていた。


「読んだね」


 ミナの肩が少し動いた。


「まだ途中」


「途中でも、読んだ」


「わたしだけじゃない」


「だけじゃない」


 ラウ婆はうなずく。


「でも、あんたは読んだ」


 ミナは黙った。


 濡れた袖を握る。


 その指先に力が入っていた。


 褒められて照れているのではない。


 認められることの重さを、急に持たされたような顔だった。


「……まだ、見張りがいる」


 ミナは言った。


「黒い泡は減っただけ。塩床も、赤草干し場も、舟底も、全部見ないといけない」


「そうだね」


「だから」


 ミナは顔を上げた。


 町の大人たちが、こちらを見ていた。


 ラウ婆の弟子。


 さっき大門を読んだ子。


 そういう目だった。


 ミナは少しだけ眉を寄せる。


「見るなら、手伝って」


 大人たちが止まる。


「見るだけなら邪魔」


 セラが口元を押さえた。


 笑いそうになったのだ。


 トーリも床に座ったまま、肩を震わせている。


 ラウ婆は、楽しそうに目を細めた。


 荷運びの男が最初に動いた。


「何をすればいい」


 ミナはすぐに答えた。


「黒い泡が残ってる水を、白い泡の方に混ぜないで。塩床の端から外へ。赤塩袋は濡れたものと乾いたものを分けて。魚籠は日陰。灯の芯は黒いところを切って、赤く戻るか見て」


 言葉が早い。


 でも、迷っていない。


「あと、子どもを水路に近づけないで。白い泡が出てても、まだ安全じゃない」


 大人たちは顔を見合わせた。


 それから、一斉に動き始める。


 ミナはそれを見て、少しだけ息を吐いた。


 トーリが小さく言う。


「潮読みっていうより、港長みたい」


 ミナが振り返る。


「今、最悪のこと言った?」


「ごめん。かなり最悪だった」


「あとで沈める」


「助かったばっかりなんだけど」


「浅いところで」


「優しい」


「沈めるのは変わらない」


 トーリは笑った。


 今度は、少しだけ本当に笑っていた。


     *


 夕方に近い光が、ヴィルマの赤い海を照らし始めた。


 空はまだ低い。


 海はまだ濁っている。


 でも、風の匂いが少しだけ変わっていた。


 腐った甘さだけではない。


 塩の匂いが戻っている。


 赤塩灯の火も、いくつかは赤く灯り直した。


 市場の中心には、まだ濡れた荷が積まれている。


 怒鳴り声もある。


 泣き声もある。


 港長をにらむ目も消えていない。


 それでも、町は動いていた。


 止まっていない。


 セラは、板道の端に座っていた。


 ようやく少しだけ足を休めている。


 髪に手をやりかけて、また下ろした。


 そこには何もない。


 月青石の髪留めは、まだ戻っていない。


 なくしたわけではない。


 取引で渡した。


 自分で渡した。


 そう何度も思ってきたのに、手はときどき勝手に確かめようとする。


 セラはその手を膝の上で握った。


 その時、ミナが隣に来た。


 何も言わずに座る。


 濡れた袖は少し乾いていた。


 でも、まだ重そうだった。


「何」


 セラが聞く。


 ミナは布包みを取り出した。


 小さな布。


 赤い水に濡れないよう、革袋の奥に入れていたもの。


 セラはそれを見た瞬間、息を止めた。


 ミナが布を開く。


 月青石の髪留めが、そこにあった。


 青い石は、赤い夕方の光を受けて、ほんの少しだけ紫に見えた。


「返す」


 ミナが言った。


 セラはすぐには手を出せなかった。


「取引でしょ」


「そう」


「じゃあ、なんで」


 ミナは少し黙った。


 遠くで、潮鐘が小さく鳴っている。


 ごん。


 もう危険を告げる音ではない。


 水が通っていることを、町に知らせる音。


 ミナは髪留めを見た。


「もらいすぎ」


 セラの指が、わずかに動いた。


「何が」


「……レンの札があった。トーリが舟を回して、あんたが上で怒鳴って、ラウ婆が鐘を読んで、町の人が輪を押した」


 ミナは少しだけ唇を結ぶ。


「……それなのに、わたしだけがこれ持ってるの、計算が合わない」


 セラは何も言わなかった。


 怒れなかった。


 茶化せなかった。


 受け取る手が、少し震えた。


 月青石の髪留めは、思ったより冷たかった。


 ずっと自分のものだったはずなのに、少しだけ知らないものみたいだった。


 戻ってきた。


 でも、渡す前の自分には戻らない。


 セラは髪留めを握った。


 すぐには髪につけなかった。


 ただ、手の中に収める。


「……返すの、遅い」


 セラが言った。


 ミナは小さくうなずく。


「早く返したら、損すると思ってた」


「今は?」


「今も、たぶん損」


「じゃあ、なんで」


「だから言ったでしょ」


 ミナは水路の方を見た。


「もらいすぎ」


 セラは、ほんの少しだけ笑った。


 泣きそうな顔のまま。


「変な理由」


「そっちも、変な髪留め」


「返してから言う?」


「返したから言える」


 セラは髪留めを握りしめた。


 青い石が手の中で痛い。


 でも、その痛みがよかった。


 戻ってきたものが、ちゃんとここにあると分かるから。


     *


 レンは、少し離れた場所で夢札を開いていた。


 赤い海の絵は、薄くなっている。


 ヴィルマの線は、もう前ほどはっきりしていない。


 塩床。


 細い排潮路。


 逃がし道。


 大門。


 それらは水に溶けるように淡くなっている。


 役目を終えたみたいに。


 けれど、ひとつだけ残っていた。


 白い骨のような線。


 赤い海の下に浮かんだ、道ではない線。


 それはヴィルマの外へ伸びているように見えた。


 町の水路ではない。


 市場の地図でもない。


 もっと大きい。


 もっと古い。


 レンはその線を見つめた。


 名前をつけてはいけない。


 でも、見なかったことにもできない。


 ラウ婆が隣に立った。


 足音は、ほとんどしなかった。


「見えたかい」


 レンは少し迷ってから、うなずいた。


「白い線が」


「道かい」


「違うと思います」


「じゃあ、何だい」


 レンは答えられなかった。


 答えたくないのではない。


 本当に、言葉にできない。


「分かりません」


 ラウ婆は満足そうにうなずいた。


「それでいい」


 レンは顔を上げた。


「いいんですか」


「見えたものを、急いで名前にするんじゃないよ」


 ラウ婆は赤い海を見た。


「名前をつけると、人は安心する。安心すると、見なくなる」


 レンは夢札を見る。


 白い線は、静かに光っていた。


「港長も、そうだったんでしょうか」


 言ってから、レンは少し驚いた。


 港長のことを、考えていた。


 許したわけではない。


 でも、ただの悪い人だと決めてしまうのも、何か違う気がした。


 ラウ婆はしばらく答えなかった。


 潮鐘の音が遠くで揺れる。


「港長だけじゃない」


 ラウ婆は言った。


「大人は、よくそうする」


「大人は?」


「怖いものに名前をつける。危険、禁忌、伝統、掟。そう呼んで、見ないで済むようにする」


 レンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 危険。


 禁忌。


 伝統。


 掟。


 なら、夢見院は。


 夢札は、もともとあった道を思い出させるだけだ。


 ――じゃあ、あの道を、ここに閉じ込めて「忘れさせた」のは誰だ。


 レンは夢札を握った。


 怖い。


 けれど、見える。


 見えてしまったなら、読むしかない。


 ラウ婆が小さく言った。


「怖くなったかい」


「はい」


 レンは正直に答えた。


「でも」


 夢札の白い線が、手の中でかすかに温かくなる。


「逃げたくはないです」


 ラウ婆は少しだけ笑った。


「立つ時の音が、変わったね」


 レンは自分の足元を見た。


 濡れた靴。


 震える膝。


 それでも、立っている。


     *


 日が沈み始める頃、ヴィルマの海に風が通った。


 赤い水面が、ゆっくりと波を作る。


 黒い泡の残る場所を避けるように、一匹の白い魚が泳いでいた。


 小さい魚だった。


 まだ弱っている。


 まっすぐには泳げない。


 それでも、黒い泡のない方へ、体を傾けながら進んでいく。


 ミナがそれを見つけた。


 セラも見る。


 トーリも、板道に座ったまま首を伸ばす。


 レンは夢札を閉じた。


 白い魚は、赤い水の中を進む。


 ゆっくり。


 ゆっくり。


 けれど、確かに。


「まだ、読める」


 ミナが低く言った。


 それは、水のことだけではなかった。


 町のこと。


 人のこと。


 閉じられていたもの。


 忘れられていたもの。


 まだ終わっていないもの。


 全部を含んだ声だった。


 トーリが立ち上がろうとして、少しよろけた。


 セラがすぐににらむ。


「座ってなさい」


「いや、もう平気」


「今よろけた」


「風」


「無風」


「気持ちの風」


「座れ」


「はい」


 トーリは素直に座った。


 ミナが小さく笑った。


 ほんの一瞬。


 でも、ちゃんと笑った。


 セラは手の中の月青石の髪留めを見た。


 少し迷ってから、それを髪に挿した。


 指先が震えた。


 うまく留まらない。


 ミナが横から手を伸ばす。


「貸して」


「自分でできる」


「曲がってる」


「いい」


「よくない。見てる方が気になる」


 セラは少しだけむっとして、でも髪留めを渡した。


 ミナはセラの髪を軽く持ち上げ、月青石を留め直す。


 乱暴ではなかった。


 丁寧すぎもしなかった。


 ただ、落ちないように。


 ちゃんと、そこに戻るように。


「はい」


 ミナが手を離す。


 セラは髪に触れた。


 今度は、そこにある。


「……ありがと」


 小さな声だった。


 ミナは聞こえないふりをした。


「貸し一つ」


「返したばっかりで?」


「髪を留めた分」


「細かい」


「細かくないと損する」


 セラは笑った。


 今度は、ちゃんと笑った。


 その笑いにつられるように、トーリも笑う。


 レンも少し笑った。


 赤い海の上で、潮鐘が鳴った。


 ごん。


 今度の音は、危険を告げるものではなかった。


 閉じたものが開いたことを、町の端まで知らせる音だった。


 市場の人々が顔を上げる。


 港長も顔を上げる。


 ラウ婆の鈴が、風に揺れて小さく鳴る。


 ちりん。


 レンは夢札を胸にしまった。


 この世界には、まだ閉じられたものがある。


 大人たちが名前をつけて、見ないで済ませてきたものがある。


 それは、少し怖い。


 信じていた世界の床が、薄くなったような気がする。


 でも、足元の水は動いている。


 赤い海は、夕日の光を受けて燃えるように広がっていた。


 黒い泡の残る場所もある。


 白い魚が泳ぐ場所もある。


 セラの髪で、月青石が青く光った。


 ミナが水の流れを読む。


 トーリが舟の縄を結び直す。


 レンは、その三人を見た。


 怖さは消えない。


 不信も消えない。


 それでも、進む理由はあった。


 潮鐘が、もう一度鳴る。


 ごん。


 赤い海を渡って、音が遠くまで伸びていく。


 レンは顔を上げた。


 ヴィルマの外へ。


 白い骨の線が続いている方へ。


「行こう」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 セラが立ち上がる。


 ミナが水から目を上げる。


 トーリが舟の縄を肩に担ぐ。


 夕日の中で、赤い海が道のように光っていた。


 世界はまだ、全部を見せてはいない。


 だからこそ、レンたちは歩き出した。


 赤い海の上に、次の道が光っていた。

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