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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

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18/20

開く日を忘れるな

 次で、大門。


 ミナの言葉は、暗い水路の中に残った。


 水の音に消されることもなく。


 黒い泡に飲まれることもなく。


 ただ、そこに残った。


 レンは夢札を握りしめる。


 札の上では、細い線がつながっていた。


 塩床(しおどこ)


 細い排潮路(はいちょうろ)


 逃がし道。


 そして、閉ざされた潮門(しおもん)


 順番は、そこまで見えた。


 けれど、答えが見えたわけではなかった。


 大門を開ければ終わる。


 そう言い切れるほど、夢札は優しくない。


 水路の奥で、また黒い泡が弾けた。


 ごぼり。


 その下に、まだあの音がある。


 どくん。


 遠く。


 深く。


 町の下の、もっと下。


 水でも鐘でもないものが、眠ったまま息をしている。


「行くよ」


 ミナが言った。


 声は小さい。


 けれど、震えていなかった。


「大門の操作台は、この先」


 トーリが暗い水路の奥を見た。


「行ける?」


「行くしかない」


「そういう返事、だいたい行けない時にするやつなんだけど」


「じゃあ聞かないで」


「聞かない方が怖い」


 トーリはそう言って、(かい)を握り直した。


 冗談の形をしている。


 でも、顔は笑っていない。


 ミナも笑わなかった。


「怖いなら、沈ませないで」


「それ、怖い人に言う言葉?」


「トーリだから言ってる」


 トーリの手が、一瞬だけ止まった。


 けれど、すぐに櫂を水へ入れる。


「……そういうの、ずるい」


「何が」


「何でもない。舟、出すよ」


 舟は、逃がし道の横を抜けていく。


 水はさっきより少しだけ落ち着いている。


 だが、静かではない。


 塩床へ逃げた水。


 細い排潮路を通る水。


 逃がし道へ吸われる水。


 いくつもの流れが重なり合い、舟の腹を違う方向へ押す。


 トーリは、それを櫂一本でさばいていた。


 右へ流される前に、左の骨柱を突く。


 後ろから押される前に、舟の頭を少しだけ斜めへ向ける。


 水に逆らいすぎない。


 でも、流されきらない。


 それは、夢札にも潮読みにもできない仕事だった。


「トーリ、少し右」


 ミナが言う。


「少しってどの少し?」


「泡が割れてる線の右」


「線、多い!」


「白い泡じゃない。赤い筋の方!」


「最初からそう言って!」


 舟が細い柱の間を抜ける。


 骨柱に舟の側面がこすれた。


 ぎ、と嫌な音がする。


 レンは思わず舟の縁につかまった。


 夢札を胸に押しつける。


「大丈夫?」


 トーリが聞く。


「大丈夫」


「夢札は?」


「濡れてない」


「またそこ」


「でも大事」


「大事だけど、レンも大事だからね」


 レンは少しだけ目を上げた。


 トーリは前を見たままだった。


 軽く言ったように聞こえた。


 でも、軽くなかった。


「……うん」


 レンは小さく答えた。


 水路の奥に、広い空間が見えてきた。


 暗い。


 けれど、ただ暗いだけではない。


 赤塩灯の黒い火が、壁の上でかすかに揺れている。


 その向こうに、巨大な影があった。


 潮門。


 閉ざされた大門。


 近くで見ると、それは門というより、町そのものの喉だった。


 白い骨材が何本も重なり、赤黒い水に濡れている。


 門の表面には古い文字が刻まれていた。


 ほとんどは黒い結晶に隠れて読めない。


 けれど、中央より少し下。


 子どもの目の高さに、欠けた文字が残っていた。


 レンは舟から身を乗り出す。


 ミナも目を細めた。


「……閉じる時は」


 ミナが読んだ。


 声がかすれる。


「……開く日を……」


 レンが続けた。


 最後の文字は、黒い結晶に半分埋もれていた。


 けれど、読めた。


「忘れるな」


 水路の音が、一瞬だけ遠くなった。


 閉じることが間違いだったのではない。


 たぶん。


 閉じたまま、開く日を忘れたこと。


 それが、この町を苦しめていた。


 ミナは唇を噛んだ。


「港長は、知ってた」


「うん」


 レンは答えた。


「でも、見られなかったんだと思う」


「見ないで済むなら、そうしたかったんでしょ」


 ミナの声は冷たかった。


 けれど、怒りだけではなかった。


 町を守ろうとして間違えた大人への、どうにもならない苛立ち。


 そして、自分も間違えるかもしれないという恐怖。


 その両方が混じっている。


「でも、もう開ける」


 ミナは言った。


「開く日を、忘れたままにはしない」


 その時、市場の方から、かすかに声が響いた。


 人々のざわめき。


 セラの声。


 遠くて、言葉までは聞き取れない。


 けれど、声は届いていた。


 戻る道は、まだ守られている。


     *


 市場では、潮鐘の余韻が赤い水の上に残っていた。


 黒く揺れていた赤塩灯が、一瞬だけ赤を取り戻し、また黒に沈む。


 完全には戻らない。


 でも、さっきよりは長く赤い。


 人々はそれを見ていた。


 希望にも見える。


 不安にも見える。


 だからこそ、足元が揺れる。


「今の音は何なんだ」


「また下で何か動いたぞ」


「潮門を開けるのか」


「本当に大丈夫なのか」


「港長、説明してください」


 声が港長へ向かい始める。


 赤い帯の男たちが前に出ようとした。


 けれど、港長は手を上げて止めた。


 その手は、まだわずかに震えていた。


 港長は潮門を見ている。


 逃げずに見ている。


 だが、言葉は出ない。


 セラは足場の前に立ったまま、港長を見た。


 責めたい気持ちはある。


 何を隠していたのか。


 なぜ閉じたのか。


 なぜもっと早く言わなかったのか。


 聞きたいことは山ほどある。


 けれど、今聞けば、道が詰まる。


 人が動かなくなる。


 レンたちが戻る道が消える。


 セラは息を吸った。


「今は、道を空けて!」


 声が広場に走る。


「責めるのも、聞くのも、あと! 水が来たら、言葉じゃ押し返せない!」


 市場の人々が少しだけ動きを止める。


 港長がセラを見る。


 その目には、まだ古い水音が残っているようだった。


 セラはその視線を受けても、引かなかった。


「下で、あいつらが読んでる」


 セラは言った。


「だったら上は、戻る場所を守る。そうでしょ」


 港長は何も言わなかった。


 代わりに、ラウ婆が小さく笑った。


「いい声になったね」


「今それ言う?」


「今だから言うんだよ」


 ラウ婆は鈴に触れた。


 鳴らさない。


 ただ、指先で確かめる。


 港長はその鈴を見た。


 顔が、ほんの少しだけ強ばる。


「……まだ持っていたのか」


「捨てるには、音を覚えすぎてる」


「その音で、何人が水へ向かった」


「その音で、戻ってきた者もいる」


 港長の唇がきつく結ばれる。


「戻らなかった者もいる」


「忘れてないよ」


 ラウ婆は静かに言った。


「だから、今度は順番を読む」


 港長は潮門を見た。


 今度は、逃げずに。


 白い骨材で縁取られた大門。


 赤黒い水。


 黒い泡。


 その全部を見た。


「……開ければ、流れる」


 港長が言った。


 声は低い。


「流れれば、壊すかもしれない」


 セラが拳を握る。


「じゃあ、閉じたままなら壊れないの?」


 港長は答えなかった。


 ラウ婆が言う。


「閉じた水は、眠らない」


 その言葉に、港長の肩がわずかに動いた。


 市場の空気が止まる。


 港長は、ゆっくりと息を吐いた。


「……操作台へ」


 赤い帯の男たちが港長を見る。


「港長」


「操作台へ道を開けなさい」


「しかし」


「道を開けろ」


 声は静かだった。


 けれど、もう逃げていなかった。


 男たちは顔を見合わせ、足場の上の荷をどけ始める。


 セラは目を見開いた。


 港長はセラを見ない。


 潮門を見ている。


 ずっと。


「誤解するな」


 港長が低く言った。


「子どもたちを信じたわけではない」


 セラはまっすぐ返した。


「じゃあ、何」


「止め続けても、もう守れないだけだ」


 その言葉は、敗北のようにも聞こえた。


 けれど、初めて町を見た言葉にも聞こえた。


 セラは少しだけ息を吐いた。


「それでいい」


 港長の目がセラへ向いた。


「何がいい」


「今、動くなら」


 セラは水路の方を見た。


「理由はあとでいい」


     *


 大門の操作台は、門の横の足場にあった。


 古い骨で作られた台。


 赤い金属の輪。


 それを支える黒い柱。


 ミナが見上げる。


 これまでの輪とは違う。


 大きすぎる。


 重すぎる。


 子ども三人で回せるものには見えなかった。


「無理だね」


 トーリが言った。


「言うの早い」


「見れば分かる。あれは無理」


「でも、動かさないと」


「だから無理って言ってるんじゃなくて」


 トーリは操作台の上を見る。


「三人だけじゃ無理って言ってる」


 ミナは返事をしなかった。


 分かっていた。


 大門は町の門だ。


 町を流すための門だ。


 子ども三人だけで開けるには、あまりにも大きい。


 それでも、ここまで来た。


 ここまで読んだ。


 次に必要なのは、誰かが上で動くこと。


「市場側の操作台とつながってる」


 ミナが言った。


「たぶん、上下で一緒に回す仕組み。下だけで開けたら歪む」


「上って」


 レンが言う。


「セラたちの方?」


「うん」


 トーリが息を吸った。


「じゃあ、上に知らせないと」


「どうやって」


 三人とも黙った。


 水路は深い。


 声は届かない。


 戻るには時間がない。


 夢札は通信の道具ではない。


 レンは夢札を見る。


 線は、大門へ伸びている。


 でも、その上に、小さな丸があった。


 潮鐘。


 市場にある鐘。


 音は、上と下をつなぐ。


 レンは顔を上げた。


「鐘」


「鐘?」


「潮鐘。さっき鳴った。水が通った時、上まで届いた」


 ミナの目が動いた。


「水圧で鳴っただけ」


「でも、鳴った」


「……もう一度鳴らせれば、上が気づく?」


 トーリが聞く。


「ただ鳴らすだけじゃ駄目」


 ミナが操作台を見上げる。


「合図にしないと。上が、いつ回すか分からない」


「何回?」


 レンが聞いた。


 ミナは少し考えた。


 潮読みの子の顔になる。


「一回で準備。二回で合わせる。三回目で回す」


「それ、上の人が分かる?」


「ラウ婆なら分かる」


 ミナは即答した。


 信じているというより、知っている声だった。


「ラウ婆なら、鐘の間を読む」


 レンはうなずいた。


「じゃあ、鳴らそう」


「簡単に言う」


 トーリが言う。


「どうやって鳴らすの」


 その時、大門の足元で黒い泡が膨らんだ。


 ごぼり。


 水位が少しだけ上がる。


 舟が押される。


 トーリが櫂を突く。


「考える時間、短めでお願い!」


 ミナは操作台の下を見る。


 大門の横に、細い水路がある。


 逃がし道から戻ってきた水が、そこで一度渦を作っている。


 その渦が一定の間隔で骨柱を叩く。


 ごん。


 鈍い音。


 小さいが、鐘の音に似ていた。


「水で鳴らす」


 ミナが言った。


「何を?」


「あの柱」


「柱って鳴るの?」


「鳴らす」


「言い方が怖い」


 ミナは水面を見た。


「トーリ、舟をあの柱の横へ」


「近づいたら巻かれる」


「巻かれない角度で」


「簡単に言うなあ」


「できるでしょ」


 トーリは一瞬だけミナを見た。


 そして、短く笑った。


「それ、ずるいって」


 舟が動く。


 渦に近づく。


 水が舟の腹を掴む。


 トーリは櫂を水へ差し込み、流れに沿わせる。


 逆らわない。


 ただ、舟の頭だけを少しずつ変える。


 レンは舟の縁につかまり、夢札を見る。


 線が震える。


 水の揺れと同じ間隔で。


「今じゃない」


 レンは言った。


「次」


 ミナが水面を見る。


「まだ」


 渦が膨らむ。


 黒い泡が寄る。


 骨柱が水を受ける。


「今!」


 ミナとレンの声が重なった。


 トーリが櫂を強く押した。


 舟の横波が渦に当たり、水が骨柱へ叩きつけられる。


 ごん。


 音が鳴った。


 市場へ届いたかは分からない。


 でも、水路の奥で、確かに響いた。


 ミナが言う。


「一回」


 トーリは息を吐く。


「あと二回?」


「うん」


「無理そう」


「一回できた」


「できたからって三回できるとは限らない」


「二回目」


「聞いてる?」


 水がまた膨らむ。


 今度はさっきより強い。


 舟の頭が流される。


「左!」


 ミナが叫ぶ。


「分かってる!」


「違う、左すぎ!」


「どっち!」


「半分戻して!」


「半分多いな!」


 舟が大きく傾く。


 レンは夢札を片手で押さえ、もう片方の手で舟の縁を掴んだ。


 水が足元へ跳ねる。


 冷たい。


 黒い泡が袖に触れそうになる。


 レンは息を止めた。


 夢札の線が震える。


 水の息。


 渦の間。


 骨柱が叩かれる前の、一瞬の引き。


「今!」


 レンが叫ぶ。


 トーリが櫂を突く。


 ミナが舟の横へ体重をかける。


 水が跳ねる。


 ごん。


 二回目。


 今度の音は、さっきより伸びた。


     *


 市場の潮鐘が鳴った。


 ごん。


 人々が顔を上げる。


 ラウ婆の指が鈴の上で止まった。


「一つ」


 ごん。


 二つ目の音。


 ラウ婆の顔が変わる。


 港長も気づいた。


「合図か」


 ラウ婆はうなずいた。


「下が呼んでる」


「何を」


「合わせろってさ」


 港長の顔が険しくなる。


 大門の操作台。


 上と下。


 同時に回す仕組み。


 忘れていたのではない。


 忘れようとしていた。


 港長は操作台を見る。


 赤い輪は、長く使われていない。


 黒い結晶が絡み、赤塩の粉が固まっている。


 大人たちがそれを見て、ざわめいた。


「これを回すのか」


「今開けるのか」


「水が来るぞ」


「でも、開けなければ――」


 セラが操作台へ走った。


 赤い帯の男が反射的に止めようとする。


 セラはにらんだ。


「どいて」


「危険だ」


「下の方が危険」


 男は言葉を失った。


 セラは操作台の輪に手をかける。


 重い。


 まるで動かない。


 港長が近づいた。


「子どもの力で動くものではない」


「知ってる」


 セラは歯を食いしばる。


「だから、大人もやって」


 その言葉に、周囲が止まった。


 港長も止まった。


 セラは振り返らない。


「町を守ってるんでしょ」


 声は荒かった。


 でも、震えていなかった。


「だったら、今守って」


 港長は輪を見た。


 大門を見た。


 水路を見た。


 そして、自分の手を見た。


 黒い杖を握っていた手。


 ずっと命令してきた手。


 止めてきた手。


 閉じてきた手。


 港長は、杖をラウ婆へ差し出した。


 ラウ婆は何も言わずに受け取る。


 港長は輪に手をかけた。


 赤い帯の男たちが息をのむ。


「港長」


「押せ」


 港長は言った。


「町を守るなら、押せ」


 男たちが動く。


 荷運びの男も駆け寄る。


 赤塩袋を置いた商人も手を添える。


 市場の女たちも、子どもを後ろへ下げてから輪に近づく。


 セラはその間に挟まれていた。


 小さな手。


 大人たちの手。


 赤い輪。


 港長は低く言った。


「まだ回すな」


 セラが聞く。


「いつ」


 ラウ婆が潮鐘の方を向いた。


「三つ目」


     *


 下の水路で、三回目の渦が膨らんだ。


 これが一番強い。


 レンには分かった。


 夢札が熱い。


 赤い海の線が、門へ向かって震えている。


 水が大きく息を吸う。


 舟が持ち上がる。


 トーリの顔が引きつった。


「これ、鳴らしたら持ってかれるかも」


「持ってかれないで」


 ミナが言う。


「さっきより雑!」


「今、丁寧に怖がる時間ない!」


「それはそう!」


 黒い泡が渦へ巻き込まれる。


 骨柱が低く鳴り始めた。


 ご。


 まだ早い。


 レンは夢札を見る。


 線が震える。


 でも、それだけではない。


 札の端に、白い骨のような線がまた浮かんだ。


 大門の下。


 水路の奥。


 もっと大きなものの内側。


 レンは息を止める。


 見えてしまった。


 でも、分かったことにはしない。


 今読むべきなのは、音の間。


 水の息。


 合図。


「まだ」


 レンが言った。


 ミナも水面を見ている。


「まだ」


 トーリは櫂を骨柱へ当て、腕を震わせている。


「早く言って」


「まだ」


「早く」


「まだ!」


 水が一度引いた。


 深く。


 舟の下から水が抜けたように、軽くなる。


 トーリの目が見開かれた。


「軽くなった」


 じいちゃんの言葉。


 重くなったあとに、急に軽くなる。


 後ろから水が来て、舟を持ち上げる。


「伏せて!」


 トーリが叫んだ。


 でも、その直前。


 レンとミナが同時に叫んだ。


「今!」


 トーリが櫂を突いた。


 舟の横波が渦へ入る。


 渦が跳ねる。


 黒い泡と赤い水が骨柱を叩く。


 ごん。


 三回目。


 音は、水路を走った。


 門へ。


 市場へ。


 町の奥へ。


「来る!」


 トーリが叫ぶ。


 後ろから水が盛り上がった。


 舟が持ち上がる。


 レンの体が浮く。


 ミナがレンの袖を掴む。


 トーリは櫂を離さなかった。


     *


 三つ目の鐘が鳴った。


 ごん。


 ラウ婆が叫んだ。


「今だよ!」


 上の操作台で、全員が輪を押した。


 セラも押した。


 港長も押した。


 赤い帯の男たちも。


 荷運びたちも。


 商人も。


 赤い輪は動かない。


 ぎ。


 黒い結晶が鳴る。


 まだ動かない。


「押せ!」


 港長が叫んだ。


 初めて、声を荒げた。


「今度は、止めるな!」


 その言葉に、セラが息をのむ。


 港長の顔には、命令する大人の表情はなかった。


 あったのは、同じ場所に戻ってきた人の顔だった。


 でも、今度は手を離していない。


 セラは歯を食いしばる。


「動いて!」


 輪が、ぎぎ、と鳴る。


 大人たちの足が板道を踏む。


 赤い帯の男が肩で押す。


 荷運びの男が縄を輪にかける。


 ラウ婆が鈴を鳴らした。


 ちりん。


 澄んだ音が、黒い火の間を抜ける。


 ぎぎぎ。


 輪が動いた。


     *


 下の大門が震えた。


 レンは舟の上で、その音を聞いた。


 上が動いた。


 セラたちが動いた。


 町が動いた。


 ミナが操作台の下の小さな輪に手をかける。


「こっちも!」


 レンも手を添える。


 下の輪は上ほど大きくない。


 だが、重い。


 水の圧を受けている。


 上が押す力と、下で合わせる力。


 どちらかが早すぎても遅すぎても、門は歪む。


「せーの!」


 ミナが叫ぶ。


 二人で回す。


 トーリは舟を門の横へ押しつける。


 水が後ろから来る。


 舟が揺れる。


 それでも、位置を保つ。


「トーリ!」


「無理って言いたい!」


「言わないで!」


「言わない!」


 レンは輪を押す。


 手が痛い。


 肩がきしむ。


 夢札を持っているだけでは何も変わらない。


 読むだけでは足りない。


 流すには、動かさなければならない。


 ぎ。


 輪が動く。


 上の力が伝わってくる。


 門の奥で、何かが外れる音がした。


 ごん。


 潮鐘ではない。


 大門の内側の音。


 閉じられていたものが、ようやく開く音だった。


 ミナが叫ぶ。


「止めないで!」


 レンも叫んだ。


「止めないで!」


     *


 上の操作台で、セラはその声を聞いた気がした。


 本当に聞こえたのかは分からない。


 水の音かもしれない。


 鐘の余韻かもしれない。


 けれど、セラは歯を食いしばった。


「止めないで!」


 自分でも同じ言葉を叫んでいた。


 港長が輪を押す。


 顔が歪む。


 それは力のせいだけではなかった。


 止めない。


 閉じたものを、今度は止めない。


 ラウ婆の鈴が鳴る。


 ちりん。


 ちりん。


 市場の人々の声が重なる。


 赤い輪がさらに回った。


     *


 大門が開いた。


 ほんの少し。


 最初は指一本ぶん。


 次に、子どもの手ひとつぶん。


 そこから先は、一気だった。


 赤い水が、門のすき間へ吸い込まれる。


 黒い泡が伸びる。


 圧が抜ける。


 だが、静かには抜けない。


 ごう。


 水が吠えた。


 閉じ込められていた水が、大門へ殺到する。


 舟が横へ引かれる。


 レンの体が投げ出されそうになる。


 ミナが腕を掴む。


「伏せて!」


 トーリが叫ぶ。


 今度は、三人ともすぐに伏せた。


 トーリだけが立つ。


 櫂を骨柱へ突く。


 だが、水の力が強すぎる。


 櫂がしなる。


「折れる!」


 トーリが叫んだ。


「折らないで!」


 ミナが返す。


「無茶!」


「沈ませないんでしょ!」


「言い方!」


 トーリは櫂を引いた。


 逆らうのをやめる。


 舟を流れに乗せる。


 そのままでは大門へ吸われる。


 だから、逃がし道へ向けて斜めに滑らせる。


 さっき開いた細い道。


 まだ完全ではない。


 でも、そこに息は通っている。


「右じゃない!」


 ミナが叫ぶ。


「分かってる!」


「もっと左!」


「左すぎると大門!」


「じゃあ、今の半分!」


「また半分!」


 舟が大きく傾く。


 レンは夢札を胸に押しつけた。


 札が熱い。


 赤い海の線が震えている。


 その下で、白い骨のような線が一瞬だけ広がった。


 門ではない。


 水路ではない。


 もっと大きな曲線。


 まるで、町の下にある骨が、水の流れに合わせてかすかに動いたように。


 どくん。


 音がした。


 大門の開く音。


 水の流れる音。


 そのすべての下に。


 どくん。


 舟が浮いた。


 レンの体が一瞬、重さを失う。


 ミナの手がレンの袖を掴んだ。


 トーリが櫂を横へ払う。


 舟は大門へ吸われる寸前で、逃がし道の流れに乗った。


 骨柱の間をすり抜ける。


 舟底が黒い膜を切る。


 水しぶきが上がる。


 赤い。


 黒い。


 白い泡が、その中に混じっていた。


 ミナが目を見開く。


「白い泡……!」


 黒い泡ではない。


 腐った水の泡ではない。


 新しい流れが、古い水を押し出している。


 完全ではない。


 まだ赤黒い。


 まだ苦しい。


 でも、違う。


 水が戻り始めている。


     *


 市場の水路で、黒い泡が割れた。


 いくつも。


 いくつも。


 その下から、白い泡が上がる。


 赤塩灯の火が揺れた。


 黒から、赤へ。


 赤から、また黒へ。


 そして、もう一度赤へ。


 人々が息をのむ。


「水が……」


 誰かが言った。


「動いてる」


 潮鐘が鳴った。


 ごん。


 今度は、長かった。


 赤い海の上を、町の端から端まで、音が渡っていく。


 ごん。


 ごん。


 余韻が切れない。


 骨の門まで届く。


 市場の屋根まで届く。


 赤草干し場の下まで届く。


 ラウ婆は鈴から手を離した。


 もう鳴らさない。


 潮鐘の音だけで、町は満ちていた。


 セラは操作台から手を離した。


 手のひらが赤くなっている。


 痛い。


 けれど、離せなかった。


 港長も手を離す。


 その顔は青白い。


 しかし、潮門から目をそらしていなかった。


 水が流れている。


 黒い泡が減っている。


 赤塩灯が、赤を取り戻している。


 完全ではない。


 傷は残っている。


 それでも、流れている。


 港長は、ひどく小さな声で言った。


「……開いた」


 ラウ婆が答える。


「閉じる時は、開く日を忘れるな」


 港長は目を閉じた。


 その言葉は、責めるためのものではなかった。


 でも、許すためのものでもなかった。


 ただ、そこにある決まりだった。


 水と町と、人が生きるための決まり。


 セラは水路の方を見る。


「レンたちは」


 誰も答えない。


 水は流れている。


 だからこそ、下は一番危ない。


 セラは足場へ走ろうとした。


 港長が言った。


「待ちなさい」


 セラが振り返る。


 また止めるのか。


 その顔になった。


 けれど、港長は首を横に振った。


「一人で行くな」


 赤い帯の男たちへ向き直る。


「舟を出せ。縄を持て。子どもたちを引き上げる」


 男たちは一瞬だけ遅れた。


 それから、走り出した。


 セラは港長を見る。


 港長は、まだ潮門を見ていた。


「……今さら」


 セラが言いかける。


 港長は静かに答えた。


「今さらでも、動かないよりはましだ」


 セラはそれ以上、何も言わなかった。


     *


 下の水路で、舟は逃がし道の流れに乗っていた。


 大門へ吸われる力は弱まりつつある。


 けれど、完全に消えたわけではない。


 トーリは肩で息をしていた。


 腕が震えている。


 櫂を握る手に力が入らない。


 それでも、離さない。


「まだ……沈んでない」


 トーリが言った。


「見れば分かる」


 ミナが答える。


 声も息も荒い。


「言わないと怖い」


「知ってる」


 ミナはそう言った。


 短く。


 でも、今度は少しだけ柔らかかった。


 レンは夢札を見た。


 線は、大門までつながっていた。


 塩床。


 細い排潮路。


 逃がし道。


 大門。


 流れは戻り始めている。


 だが、赤い海の下の白い線は、まだ消えない。


 むしろ、前より少しだけはっきりしている。


 骨のような線。


 大きく曲がり、町の下を通り、さらに遠くへ続いている。


 レンは、それを見ていた。


 分かったとは言えない。


 でも、見えた。


 見えてしまった。


 どくん。


 また音がした。


 今度は、さっきより静かだった。


 暴れる音ではない。


 苦しそうな音でもない。


 遠くで、眠っていたものが、ほんの少しだけ息を吸い直したような音。


 ミナが水面を見た。


「……流れが変わった」


「よくなった?」


 レンが聞く。


 ミナはすぐには答えなかった。


 水を見る。


 泡を見る。


 舟底の揺れを見る。


 それから、小さく言った。


「よくなり始めた」


 トーリが笑いそうになって、やめた。


「それ、ミナにしてはかなりいい返事だね」


「調子に乗らない」


「乗ってない。生きてるだけ」


「それは、まあ」


 ミナは少しだけ目を伏せた。


「得したね」


 トーリは一瞬だけ黙った。


 それから、小さく笑った。


「うん」


 レンは夢札を閉じた。


 手の中で、札はまだ温かい。


 大門は開いた。


 水は流れ始めた。


 ヴィルマは、すぐには救われない。


 失った魚は戻らない。


 黒くなった灯の芯も、汚れた塩床も、濡れた赤塩も、元通りにはならない。


 港長が閉じていた時間も、消えない。


 けれど、閉じたものは開いた。


 忘れられていた日が、戻ってきた。


 遠くで、もう一度潮鐘が鳴った。


 ごん。


 長く。


 長く。


 赤い水の上を渡っていく。


 その音の下で、町の奥深くから、かすかな鼓動が返ってきた。


 どくん。


 レンは水の底を見た。


 赤い水の下。


 白い骨の線が、夢札の中で静かに光っている。


 それはまだ、誰にも名前を呼ばれていなかった。

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