表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/20

赤い海を渡る子どもたち

 ヴィルマの朝は、赤かった。


 それは、昨日までの赤とは少し違っていた。


 腐ったように濁った赤ではない。


 黒い泡を隠すための赤でもない。


 朝の光を受けて、海そのものがゆっくり目を覚ましていくような赤だった。


 もちろん、すべてが綺麗になったわけではなかった。


 市場の端には、まだ濡れた赤塩袋が積まれている。


 乾いたもの。


 湿ったもの。


 もう売り物にならないもの。


 袋にはそれぞれ、炭で印がつけられていた。


 赤塩灯の芯も、全部が戻ったわけではない。


 いくつかは黒く焦げたまま、店先に吊るされている。


 水路の端には、まだ薄い膜が残っていた。


 黒い泡は減った。


 けれど、消えたわけではない。


 それでも、水は動いていた。


 ゆっくり。


 細く。


 町の下を、ためらいながら巡っている。


 レンは板道の端に立って、その流れを見ていた。


 手の中には夢札がある。


 赤い海の線は、昨日よりずっと薄い。


 ヴィルマを示していた線は、もう役目を終えたように淡くなっている。


 けれど、白い骨のような線だけは残っていた。


 細く。


 静かに。


 ヴィルマの外へ。


 赤い海のさらに先へ。


 まだ知らない場所へ。


 レンは指でその線をなぞりかけて、やめた。


 名前をつけてはいけない。


 ラウ婆の言葉が、胸の奥に残っている。


 見えたものを、急いで名前にするんじゃないよ。


 名前をつけると、人は安心する。


 安心すると、見なくなる。


 レンは夢札を閉じた。


 怖さは消えない。


 けれど、もう目をそらしたくはなかった。


     *


 市場は、昨日より静かだった。


 静かだけれど、止まってはいない。


 荷運びたちは、濡れた板を外して乾かしている。


 赤草干し場では、大人たちが赤草を一枚ずつ広げ直していた。


 魚籠の前では、子どもたちが白い魚をのぞき込もうとして、大人に引き戻されている。


「まだ近づくな」


「でも、泳いでる」


「泳いでても、まだ水は読めてない」


 そう言ったのは、ミナだった。


 濡れて乾ききらない髪を後ろで結び、袖をまくっている。


 目の下には薄く疲れが残っていた。


 それでも、目だけは昨日よりはっきりしていた。


 水路の縁にしゃがみ、黒い泡の残りと白い泡の流れを見比べている。


 隣には、町の大人たちが立っていた。


 昨日までミナを「ラウ婆のところの気の強い子」としてしか見ていなかった人たちだ。


 今は違う。


 ミナが指を動かすたび、大人たちがその先を見る。


「そこ、混ぜないで」


 ミナが言った。


「白い泡の方へ黒い水を流すと、また濁る。こっちの細い溝から外へ」


 荷運びの男がうなずく。


「分かった」


「分かっただけじゃなくて、やって」


「やる」


「あと、赤塩袋は昨日言った通り、濡れたものを乾いたものの隣に置かないで。匂いが移る」


「お、おう」


 男は少し慌てて袋を持ち直した。


 セラが少し離れた場所でそれを見ていた。


 髪には、月青石の髪留めが戻っている。


 朝の光を受けて、青い石が小さく光っていた。


 ただ、以前とまったく同じには見えなかった。


 髪留めは戻った。


 でも、セラの手はもう、そこを確かめるためだけには動かない。


 必要な時に髪を押さえ、必要な時に前を見る。


 そのくらいの距離で、そこにあった。


「ミナ、すごいね」


 レンが言うと、セラは少し口を曲げた。


「すごいけど、調子に乗るから言わないで」


「聞こえてる」


 水路の方からミナが返した。


 セラは肩をすくめる。


「聞こえるように言った」


「損な性格」


「昨日も言われた」


「今日も言う」


「毎日言う気?」


「損が続く限り」


 セラは笑いそうになって、我慢した。


 でも、我慢しきれずに少しだけ笑った。


 ミナは見ていないふりをした。


 その横で、トーリが舟の縄を結び直していた。


 昨日の舟だ。


 大門の水に巻かれ、逃がし道の流れに乗り、沈まなかった小舟。


 舟底には黒い膜がこびりつき、側面には骨柱で擦った跡が残っている。


 トーリはそれを、指でなぞっていた。


「直る?」


 レンが聞く。


「直す」


「直るかどうかじゃなくて?」


「直す舟は、直る」


 トーリは言い切った。


 それから、少し間を置いて付け足す。


「たぶん」


「そこ弱くなるんだ」


「舟には正直でいたい」


 トーリは舟底を見て、ため息をついた。


「でも、これは結構かかるな。舟塗り、ほとんど剥がれてる」


 ミナがちらりと見る。


「あとで液、貸す」


「珍しい。無料?」


「有料」


「やっぱり」


「でも、安くしとく」


「え、怖い。何か企んでる?」


「舟が直らないと、こっちが困る」


 トーリの手が一瞬止まった。


 セラはそれに気づいた。


 レンも気づいた。


 ミナだけが、気づいていない顔で水路を見ている。


「……そっか」


 トーリは小さく言った。


「困るんだ」


「困るでしょ。水を見る時に、舟がないと」


「うん」


 トーリは縄を結び直した。


 結び目が、少しだけいつもより丁寧になった。


 セラはレンにそっと顔を寄せる。


「ねえ」


「うん」


「あれ、そうだよね」


「たぶん」


「ミナ、気づいてないよね」


「たぶん」


 セラはミナを見る。


 ミナは水路にしゃがみ込んで、泡の向きを見ている。


 トーリが自分の言葉にどれだけ反応したかなんて、まったく気づいていない。


 セラは少しだけ眉を寄せた。


「鈍い」


「ミナ?」


「うん」


「トーリも分かりやすい」


「うん」


 二人で小さくうなずく。


 その時、トーリが振り返った。


「聞こえてるんだけど」


 セラは平然とした顔をした。


「聞こえるように言った」


「それ、さっきも聞いた」


「便利な言葉だから」


 トーリは苦い顔をして、レンを見る。


「レンまでそういう目で見ないで」


「どういう目?」


「全部分かってます、みたいな目」


「そんな目してた?」


「してた。優しい顔で刺してくるやつ」


 レンは困って笑った。


 ミナが水路から顔を上げる。


「何の話?」


 その瞬間、三人が黙った。


 ミナは目を細める。


「何」


「何でもない」


 セラが言う。


「何でもない時の顔じゃない」


「気のせい」


 レンが言う。


「レン、嘘下手」


「ごめん」


「謝るなら言って」


 ミナが詰め寄る前に、トーリが大きめに咳払いをした。


「舟の話だよ。舟」


「舟?」


「そう。舟が直らないと困るって話」


「それは言った」


「うん。だから、それ」


 ミナは少しだけ怪しむ顔をしたが、すぐに水路へ視線を戻した。


「変なの」


 セラは小さく息を吐く。


 トーリは顔を赤くしていないふりをしながら、縄を結び続けた。


 けれど、耳の先だけが少し赤かった。


     *


 昼前、港長が市場の中央に立った。


 赤い帯の男たちは、少し離れている。


 昨日までのように港長を囲んではいない。


 町の人々も、自然と集まってきた。


 誰も笑っていない。


 誰も拍手をしない。


 潮門は開いた。


 水は流れ始めた。


 けれど、責任は流れていない。


 港長はそれを分かっている顔で立っていた。


 杖は手元に戻っている。


 だが、昨日までのように床を叩くことはなかった。


 ただ、両手で杖を前に置いている。


「潮門を閉じていた責任は、私にある」


 港長は言った。


 昨日と同じ事実。


 でも、今日は人々が逃げずに聞いていた。


「塩床の調査を行う。赤塩の損失は、港の備えから補填する。外の商人との取引は一時止める」


 市場がざわめく。


 商人の一人が怒鳴った。


「止めたら冬の仕入れはどうなる!」


「止めなければ、腐った赤塩を外へ出すことになる」


 港長は答えた。


「それをすれば、来年以降の取引も失う」


「じゃあ、今季はどうする!」


「港の蓄えを開く」


 その言葉に、赤い帯の男たちがざわついた。


 町の人々も顔を見合わせる。


 港の蓄え。


 それは、港長の管理する非常用の倉だ。


 飢えや嵐の時のためのもの。


 簡単には開かれない。


 港長は続けた。


「足りなければ、私の屋敷を売る」


 市場が静まった。


 セラが目を細める。


 レンも港長を見る。


 それは、謝罪ではなかった。


 許しを乞う言葉でもなかった。


 ただ、責任を数字と物に変えて出す言葉だった。


 冷たい。


 けれど、逃げていない。


 ラウ婆は市場の端で聞いていた。


 何も言わない。


 ミナも黙っている。


 港長は最後に、ゆっくり頭を下げた。


 深くはない。


 短い。


 でも、確かに下げた。


「私への裁きは、町が決めればいい」


 誰かが息をのむ。


「ただし、今日の水見張りが終わってからにしてほしい」


 怒りの声が起きかけた。


 けれど、港長は続けた。


「今すぐ私を縛っても、水は読めない。灯の芯も替わらない。塩床も乾かない」


 声が止まる。


「怒りは受ける。逃げない。だが、先に町を動かす」


 ラウ婆が小さく息を吐いた。


 セラは、港長の言葉を聞いていた。


 許せるわけではない。


 でも、港長が言い訳を選ばなかったことは分かった。


 町の人々も同じだった。


 誰かが舌打ちした。


 誰かが涙を拭いた。


 誰かが、濡れた赤塩袋を抱え直した。


 怒りは消えない。


 でも、町は止まらない。


 それが今のヴィルマだった。


     *


 昼過ぎ、ラウ婆の小屋の前に四人は集まった。


 小屋は相変わらず傾いている。


 戸口の鈴が、風に揺れている。


 ちりん。


 小さな音。


 昨日までは重く聞こえた音が、今日は少しだけ軽く聞こえた。


 ラウ婆は戸口に腰かけ、四人を順に見た。


「行くのかい」


 レンはうなずいた。


「夢札の線が、ヴィルマの外へ続いています」


「見えたものを、すぐ道だと思うんじゃないよ」


「はい」


「でも、見えたなら、見なかったふりもするんじゃない」


「はい」


 ラウ婆は満足そうに鼻を鳴らした。


「面倒な返事を覚えたね」


 セラが横から言う。


「ラウ婆が教えたんじゃないの」


「教えた覚えはないよ。勝手に濡れて、勝手に覚えた」


「ひどい言い方」


「本当のことは、だいたいひどいもんだ」


 ミナは小屋の壁に寄りかかっていた。


 顔には少しだけ疲れが残っている。


 けれど、町に残る人間の顔でもあった。


 セラはそれに気づいていた。


 レンも気づいていた。


 トーリは、気づかないふりをしていた。


 ラウ婆がミナを見る。


「で、あんたはどうする」


 ミナは答えなかった。


 少し長い沈黙があった。


 水路の音。


 遠くの潮鐘。


 舟を直す槌の音。


 ヴィルマが動いている音が、その沈黙を埋める。


「町の水は、まだ見張りがいる」


 ミナが言った。


「黒い泡も残ってる。塩床も完全じゃない。赤草干し場も、舟底の塗りも、灯の芯も、全部見ないといけない」


「そうだね」


 ラウ婆は短く答える。


「でも」


 ミナは夢札を見た。


 レンの手の中にある、小さな札。


「白い線も、見ておかないといけない」


 セラが少し目を開く。


 トーリが顔を上げる。


 ミナは腕を組んだ。


「ヴィルマだけ見てても、たぶん間に合わない。昨日の音、町の下だけじゃなかった。もっと深いところから来た。あれが何か分からないまま、水を見るのは……気持ち悪い」


「怖い、じゃなくて?」


 トーリが聞いた。


 ミナは横目で見る。


「怖い」


 あっさり言った。


 トーリが少し驚く。


 ミナは続ける。


「怖いけど、分からないまま置く方がもっと嫌」


 セラが腕を組む。


「それで、来るの?」


「行かない」


 ミナは言った。


 短く。


 それだけで、トーリの手が止まった。


 レンもセラも、ミナを見た。


 ミナは水路の方を見ている。


「ここを見ないで外へ行ったら、わたしは潮読みじゃなくなる」


 その声は、揺れていなかった。


 けれど、軽くもなかった。


 レンは、ミナが本当は外の白い線を見たいのだと分かった。


 分からないまま置く方が嫌。


 さっき、そう言ったばかりだ。


 それでも行かない。


 それは、怖いからではない。


 ここに残る理由があるからだった。


 セラは何か言いかけて、やめた。


 ミナは逃げていない。


 残ることを選んでいる。


 それなら、止める言葉は違う。


「……そっか」


 セラは言った。


「うん」


 ミナは短く答えた。


 トーリは、まだ縄をいじっていた。


 昨日からずっと持っている舟の縄だ。


 緊張すると触る癖なのだと、レンはようやく気づいた。


「じゃあ」


 トーリが言った。


 声が少しだけ低い。


「ミナが残るなら、おれも残る」


 ミナが見る。


「何で」


「舟がいるでしょ」


「いる」


「ヴィルマの水路も、まだ直る途中だし」


「うん」


「舟底の塗りも、骨板の当て直しも、荷運びの水路も、見ないといけない」


「うん」


「だから残る」


 ミナは少しだけ黙った。


「それ、本当にそれだけ?」


 トーリの顔が固まった。


 セラが小さく口を押さえる。


 レンは目を伏せる。


 ラウ婆は、また笑いをこらえていない。


 普通に笑っていた。


「それだけじゃない」


 トーリが言った。


 ミナの目が、少しだけ動いた。


 トーリは縄を握り直す。


「言わないと怖いし、言ったらもっと怖いけど」


「何」


「あとで、ミナがひとりで水路を見てて、どこかで沈んだって聞く方が、たぶん一番怖い」


 その場が静かになった。


 セラが息を止める。


 レンも、言葉を失った。


 ラウ婆の鈴だけが、小さく揺れた。


 ミナは、何かを言おうとした。


 いつものように、損とか得とか、うるさいとか、変とか。


 でも、出てこなかった。


 トーリも、言ってしまったことに気づいている顔だった。


 耳が赤い。


 視線は水路に逃げている。


 けれど、言葉は戻せない。


 ミナはゆっくり腕を組み直した。


「……それ」


「うん」


「今言うこと?」


「今じゃないと、また言えなさそうだった」


「言わなくてもいいこともある」


「あるね」


「でも」


 ミナは唇を結んだ。


 水を見る時の顔ではなかった。


 計算している顔でもない。


 どう扱えばいいのか分からないものを、手のひらに乗せられたような顔だった。


「……聞いた」


 トーリが顔を上げる。


「返事は?」


「保留」


 セラが思わず前に出かけた。


 レンがそっと袖を引く。


 セラは踏みとどまる。


 トーリは少し笑った。


「保留か」


「文句ある?」


「ない。沈むよりまし」


「何でも沈むに戻すの、やめて」


「最近の基準だから」


 ミナは少しだけ目をそらした。


「……舟を直すなら、残ってもいい」


 トーリの顔が明るくなりかける。


 ミナがすぐに言った。


「舟が必要だから」


「うん」


「あと、漕ぎ手も」


「うん」


「あと……」


 ミナはそこで止まった。


 セラもレンも、息を止めて続きを待った。


 ミナはむっとした顔で言う。


「うるさい軽口も、ないと怖い時がある」


 トーリはしばらく何も言わなかった。


 それから、少しだけ照れくさそうに鼻をこすり、応急修理された舟の縁を強く握り直した。


 昨日、大門の激流を耐えた手だった。


「それ、かなり得した気がする」


「調子に乗らない」


「無理」


「沈めるよ」


「浅いところで?」


「今日は深いところ」


「返事保留なのに扱いがひどい」


「保留だからでしょ」


 セラはもう笑いをこらえなかった。


 レンも笑った。


 ラウ婆は鈴を鳴らした。


 ちりん。


「若いねえ」


「ラウ婆」


 ミナがにらむ。


「何も言ってないよ」


「言った」


「鈴がね」


「鈴のせいにしないで」


     *


 旅立ちは、夕方になった。


 朝から町の作業を手伝い、昼には港長の話を聞き、午後は舟の応急修理をした。


 ヴィルマを出るには遅い時間だった。


 けれど、今の赤い海を渡るには、その時間がよかった。


 夕日が水面に伸びている。


 赤い海が、本当に道のように光っていた。


 トーリの舟は、完全には直っていない。


 舟底には応急の塗りがあり、側面の傷には布と骨板が当てられている。


 ミナが貸した舟塗りの液の匂いが、まだ少し残っていた。


「これ、大丈夫なの?」


 セラが聞く。


 トーリは舟の縁を叩く。


「沈まない」


「それ、昨日も聞いた」


「昨日も沈まなかった」


「説得力あるような、ないような」


「ある方でお願い」


 レンは舟に乗り込む前に、ヴィルマの町を振り返った。


 潮門は開いている。


 赤塩灯はまだ完全ではないが、いくつかは赤く灯っている。


 市場の人々は作業を続けている。


 怒鳴り声もある。


 笑い声も少しある。


 泣いている人もいる。


 町は、簡単には救われない。


 でも、止まってはいない。


 港長は、潮門のそばに立っていた。


 まだ、そこにいる。


 人々の視線を受けながら。


 逃げずに。


 許されたわけではない。


 それでも、動き続ける町の中で、責任の場所に立っている。


 ラウ婆は小屋の前から手を振った。


「夢見の子」


 レンは振り返る。


「はい」


「見えたものを、急いで信じるな」


「はい」


「でも、怖いからって閉じるな」


 レンは夢札を握った。


「はい」


 ラウ婆は少しだけ笑う。


「いい返事だ。つまらないくらいにね」


 セラが舟の上から言う。


「最後までひどい」


「餞別だよ」


「もっと優しい餞別ないの?」


「あるよ」


 ラウ婆はミナを見る。


「ミナ」


 ミナは舟に片足をかけたまま止まった。


「何」


「損してきな」


 ミナは顔をしかめる。


「残るのに?」


「残るのも、けっこう損するよ」


 ラウ婆の声が、少しだけ柔らかくなる。


「得だけ数える潮読みは、すぐ目が濁る。損も見ておいで。戻った流れが、太く見える」


 ミナは何か言い返そうとした。


 でも、やめた。


「……舟塗りの液、あとで補充して」


「金は取るよ」


「弟子割は」


「ないね」


「損」


「いい顔だ」


 ミナはむっとして舟に乗った。


 ただし、荷を積むためではない。


 レンとセラを、ヴィルマの外れまで送るためだった。


 トーリが手を差し出そうとして、途中で迷う。


 ミナはそれを見て、自分で舟に乗った。


 けれど、乗ったあとで小さく言った。


「手は、出してても損じゃない」


 トーリが一瞬止まる。


「今の、どういう」


「次から」


「次から」


「聞き返さない」


「はい」


 セラがレンの横で小さく言う。


「あれ、保留って言う?」


 レンは少し考えた。


「ミナの保留だから」


「分かりにくい」


「でも、トーリは分かってるみたい」


 トーリは舟の後ろで、顔を水路に向けたまま櫂を握っていた。


 耳が赤い。


 とても分かりやすかった。


     *


 舟が動き出した。


 赤い海を、ゆっくり進む。


 ヴィルマの市場が少しずつ遠ざかる。


 骨柱。


 赤塩灯。


 開いた潮門。


 ラウ婆の小屋。


 港長の白い外套。


 月青石の髪留め。


 全部が夕日の中に沈んでいく。


 レンは夢札を開いた。


 白い骨の線は、まだそこにある。


 今度は、前より少しだけ長く伸びていた。


 ヴィルマの外。


 赤い海の向こう。


 名前のない方角へ。


 セラがのぞき込む。


「次は、どこ?」


「分からない」


「また?」


「うん」


「夢札、もう少し親切にならないの?」


「たぶん、ならない」


「けち」


 ミナが横から言う。


「親切すぎる道は、だいたい罠」


「それ、ミナが言うと説得力ある」


「どういう意味」


「そのまま」


「損な言い方」


 トーリが櫂を動かしながら言う。


「でも、線があるならいいじゃん」


 レンは夢札を見る。


「道かどうかは、まだ分からない」


「じゃあ何」


「分からない」


「分からないの多いね」


「うん」


 レンは少しだけ笑った。


「でも、前より怖くない」


 セラがレンを見る。


 ミナも見る。


 トーリは前を向いたまま、少しだけ櫂をゆるめた。


 レンは続けた。


「怖いけど、見ればいいって分かったから」


 水が舟の横を叩く。


 赤い波が、夕日を細かく割っていく。


「名前をつける前に、見る。分かったことにする前に、読む」


 レンは夢札を閉じた。


「それなら、進める気がする」


 セラは髪留めに触れた。


 今度は、なくしたものを確かめる仕草ではなかった。


 そこにあるものを、確かめる仕草だった。


「じゃあ、見る」


 セラは前を向いた。


「隠されてるなら、なおさら見る」


「怒りすぎると損するよ」


 ミナが言う。


「分かってる」


「本当に?」


「分かってるけど、怒る時は怒る」


「損」


「必要経費」


 ミナは少しだけ目を丸くした。


 それから、ふっと笑った。


「その言い方、嫌いじゃない」


 トーリが小さく言う。


「ミナが褒めた」


「褒めてない」


「今のは褒めた」


「違う」


「レン、今の褒めたよね」


「たぶん」


「セラ」


「褒めたと思う」


「三対一はずるい」


 ミナが顔をそむける。


 でも、怒ってはいなかった。


 舟は赤い海を渡っていく。


 潮鐘の音が、遠くからもう一度届いた。


 ごん。


 ヴィルマの音。


 閉じたものが開いた音。


 でも、その余韻のさらに下で、レンは別のものを感じていた。


 どくん。


 聞こえたわけではない。


 けれど、夢札の奥で、白い線がわずかに震えた。


 死んだはずのもの。


 名付けられていないもの。


 大人たちが禁忌と呼び、伝統と呼び、掟と呼んで、見ないで済ませてきたもの。


 それが、まだこの世界の下にある。


 レンは息を吸った。


 胸の奥に、小さくて鋭い不信が刺さっている。


 夢見院は。


 この世界の大人たちは、僕たちに何を見せないようにしているのだろう。


 けれど、冷たい暗闇だけではなかった。


 セラがいる。


 夢札がある。


 背中には、ミナとトーリの声がある。


 水は動いている。


 なら、まだ読める。


 まだ、出口は描ける。


     *


 舟は、ヴィルマの外れにある小さな桟橋で止まった。


 ここから先は、外の流れだった。


 ヴィルマの水路ではない。


 ミナの知っている潮でも、トーリが毎日漕いできた道でもない。


 レンは夢札を見た。


 白い骨の線は、その先へ続いている。


 セラが舟の縁に手を置いた。


「ここまででいい」


 ミナは何か言いかけて、やめた。


 トーリも櫂を握ったまま黙っている。


「……行くんだ」


 ミナが言った。


「うん」


 レンはうなずいた。


「ミナは」


「残る」


 ミナはすぐに言った。


「黒い泡、まだ消えてない。塩床も、赤草干し場も、舟底も、全部見張りがいる。ラウ婆だけじゃ足りない」


 セラは少しだけ笑った。


「そう言うと思った」


「分かったような顔しないで」


「分かったから」


 ミナはむっとした。


 けれど、言い返さなかった。


 トーリが、舟の縄を桟橋に結ぶ。


「おれも残る」


 レンが見る。


「舟を直す。水路も直す。あと」


 トーリは少しだけ言葉を詰まらせた。


「ミナが無茶しないように見張る」


「見張られるほど無茶しない」


 ミナが即座に言う。


 セラとレンは、同時にミナを見た。


「何」


「いや」


「別に」


 トーリは小さく笑った。


「ほら、必要でしょ」


 ミナは水路の方を向いた。


「……勝手にすれば」


「それ、許可?」


「保留」


「便利だな、保留」


「便利な言葉って言って」


 セラは、髪の月青石に触れた。


「ミナ」


「何」


「ありがと」


 ミナは目をそらした。


「貸し一つ」


「また?」


「見送り分」


「細かい」


「細かくないと損する」


 セラは笑った。


 今度は、ちゃんと笑った。


 レンは夢札を胸にしまった。


 ミナとトーリは来ない。


 それが寂しくないわけではなかった。


 でも、不自然ではなかった。


 ふたりには、ふたりの守る流れがある。


 レンとセラには、行かなければならない道がある。


 ラウ婆の鈴が、遠くで鳴った。


 ちりん。


 ヴィルマの方から、潮鐘の音が追いかけてくる。


 ごん。


 閉じたものが開いた音。


 流れが戻った音。


 レンは顔を上げた。


 白い骨のような岬が、赤い海の向こうで光っている。


「行こう」


 セラがうなずいた。


 トーリが舟を押し出す。


 ミナが流れを見る。


「右の赤い筋に乗って。黒い泡の方へ寄らないで」


「最後まで指示するね」


 セラが言う。


「沈まれたら損」


「分かった」


 トーリが櫂で水を押した。


 舟が、夕日の中へ滑り出す。


 桟橋が少しずつ遠ざかる。


 ミナは腕を組んで立っていた。


 トーリはその隣で、縄の端を握っている。


 ふたりとも手を振らない。


 でも、目はそらさなかった。


 レンはその姿を見た。


 ヴィルマで出会った流れ。


 ヴィルマに残る流れ。


 そして、自分たちを外へ押し出す流れ。


 全部が、同じ赤い海の上でつながっている。


 舟の先で、赤い海が開けた。


 世界は、まだ全部を見せていない。


 だからこそ、レンとセラは進んだ。


 背中では、血海ヴィルマの水が流れ続けている。


 その流れの中に、ミナとトーリの声がまだ残っていた。


 赤い海の向こうで、次の道がまぶしく光っていた。


            第二部 血海ヴィルマ 〜完〜

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


『竜骸世界と夢見の子ら』は、この第20話をもって、第二部「血海ヴィルマ」まででいったん区切りとさせていただきます。


レンとセラは、赤い海の向こうへ進み始めました。

ミナとトーリはヴィルマに残り、それぞれの場所で流れを守り続けます。


道は分かれましたが、血海ヴィルマでつながったものは、きっと消えません。


まだ明かされていない夢札の謎。

夢見院が隠しているもの。

死んだ龍の上に広がる、この世界の本当の姿。


書きたいことはまだたくさんあります。


ただ、ここから先を書くかどうかは、少し様子を見たいと思っています。


評価、ブックマーク、感想などで反応をいただけたら、とても励みになります。

「続きを読みたい」と思ってくださる方が多ければ、第三部も書いていくかもしれません。


ここまで一緒に旅をしてくださって、本当にありがとうございました。


もしよければ、レンたちの次の旅を応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ