細い道に息を通す
七鐘を越えた水が、細い道の前まで来ていた。
レンは夢札を握ったまま、三つの輪を見上げていた。
どれを、先に。
さっきミナがこぼした言葉が、まだ暗い水路に残っている。
答える時間は、ほとんどなかった。
暗い水路の奥で、黒い泡が浮かぶ。
ひとつ。
ふたつ。
数える間にも、数は増えていく。
ごぼ。
ごぼり。
泡が弾ける音は、もう近かった。
トーリは櫂を水底に突き立て、舟を押さえていた。
腕が震えている。
けれど、櫂は離さない。
ミナは三つの輪を見ていた。
錆びた輪。
黒い結晶が噛みついたように張りついている。
ひとつは塩床へ。
ひとつは細い排潮路へ。
ひとつは、潮門の横へ伸びる逃がし道へ。
たぶん、そうだ。
でも、たぶんでは足りない。
ここで間違えれば、水は町を裂く。
そう港長は言った。
その言葉が、レンの耳の奥に残っている。
「急いで」
トーリが言った。
声が少しだけかすれていた。
「ほんとに来てる」
「分かってる」
ミナは短く返した。
「分かってるけど、分からない」
その言葉は、怒っているようで、泣きそうにも聞こえた。
レンは夢札を握りしめる。
札の上で、線が震えていた。
三つの輪の上を、迷うように。
でも、夢札が迷っているわけではない。
迷っているのは、レンたちだ。
忘れられた道を、まだ読み切れていないだけだ。
「細い道」
ミナがつぶやいた。
「ラウ婆は、まず細い道って言った」
ミナの手が、中央の輪へ伸びる。
細い排潮路へ続いているはずの輪。
その指が触れようとした瞬間、レンは声を出した。
「違う」
ミナの手が止まる。
「今それを言う?」
「今じゃないと、間違える」
「間違えてる時間もない」
「でも、間違えたら戻れない」
ミナが振り返る。
目が鋭い。
でも、その奥にあるのは怒りだけではなかった。
焦り。
恐怖。
自分の町の水を読み切れないことへの、焼けるような悔しさ。
「じゃあ、何」
ミナが低く聞いた。
レンは夢札を見た。
線は、細い排潮路へまっすぐ向かっていない。
その前に、一度、低い位置の輪へ触れていた。
塩床へ続いていると思われる輪。
「ここ」
レンは札を指した。
「細い道の前に、こっちへ触れてる」
「塩床……」
ミナが水面を見る。
泡の向き。
黒い膜の流れ。
舟底を叩く水の音。
それから、壁に並んだ子どもの手形。
一番低い手形が、低い輪の近くにある。
ミナの唇が、きつく結ばれた。
「……塩床を起こし」
欠けた文字の言葉が、暗い水路に戻ってくる。
「先に、塩床側へ逃げを作る」
「逃げ?」
トーリが言った。
櫂を握る腕が震えている。
「水が急に走らないように、一度受ける場所」
「じゃあ、それ開ければいいんだね」
「開けすぎたら、塩床が割れる」
「じゃあ、ちょっとだけ」
ミナがトーリをにらむ。
「ちょっとだけで済むなら苦労しない」
「舟を押す時も、最初に全部押さない」
トーリは水面から目を離さずに言った。
「動くか確かめる。重いなら、少し。軽くなったら、もっと。最初から全部やると、舟が横を向く」
ミナはすぐには返さなかった。
水を読む目で、今度はトーリを見る。
冗談を言っている顔ではなかった。
市場の荷運び。
舟の上なら、どこでも行けると言った子。
夢札もない。
潮読みでもない。
けれど、舟の重さは知っている。
水が人を裏切る瞬間の、ほんの少し前を知っている。
ミナは小さく息を吸った。
「……一目盛り」
「一目盛りって、輪に目盛りある?」
「ある」
「見えないけど」
「感じるの」
「それ、ずるくない?」
「うるさい。舟を押さえて」
「はいはい」
トーリは軽く返した。
でも、その顔は笑っていなかった。
ミナが低い輪に手をかける。
レンも隣から手を添えた。
輪は冷たかった。
冷たいというより、長い間、誰にも触れられなかったものの温度だった。
黒い結晶が指に食い込む。
レンは歯を食いしばった。
「せーの」
ミナが言う。
二人で力を込める。
動かない。
ぎ、とも鳴らない。
ただ、古い輪が、そこにあるだけだった。
「もう一回」
ミナの声が短くなる。
「せーの」
今度は、かすかに鳴った。
ぎ。
でも、それだけ。
トーリが後ろから言う。
「代わる!」
「舟を離したら沈む!」
ミナが怒鳴った。
トーリは歯を食いしばる。
櫂を骨柱に押し当て、迫る水を受ける。
「こっちも、まあまあ沈みそうなんだけど」
「沈ませないんでしょ!」
「言ったけど!」
「じゃあ沈ませないで!」
「無茶言うな!」
「得意でしょ!」
「得意じゃなくて、仕事!」
その言い合いの間にも、黒い泡は近づいていた。
レンはもう一度、輪に力を込める。
手が痛い。
指の皮が裂けそうになる。
でも、離せない。
ここで離したら、全部戻ってしまう気がした。
「動いて」
レンはつぶやいた。
祈りではなかった。
命令でもなかった。
ただ、見えてしまったものから逃げないための声だった。
「動いて……!」
ミナが息を合わせる。
二人の体重が輪にかかる。
ぎぎ。
黒い結晶が、ひび割れる音を立てた。
輪が、一目盛りだけ動いた。
その瞬間。
水音が変わった。
ごぼり、ではない。
すう。
暗い水路の奥で、何かが息を吸ったような音がした。
黒い泡が、一瞬だけ止まる。
レンは息を止めた。
次の瞬間、水が横へ引かれた。
「来る!」
トーリが叫ぶ。
舟が横へ吸われる。
塩床側の穴へ、水が流れ込み始めていた。
流れている。
正しい方へ。
でも、だから危ない。
舟の腹が、壁へ引き寄せられる。
トーリが櫂で骨柱を突いた。
ぎし、と舟が鳴る。
「逆らわないで!」
ミナが叫ぶ。
「斜めに!」
「斜めってどっち!」
「泡が切れてる方!」
「それを先に言って!」
トーリは櫂を横へ払う。
舟は壁にぶつかる寸前で、斜めに滑った。
レンは舟の縁につかまる。
夢札が濡れないよう、胸に押しつけた。
水が息をしている。
そんな気がした。
町の下で、長く閉じ込められていたものが、ほんの少しだけ喉を開いた。
けれど、その息はまだ荒い。
苦しそうで、乱暴だった。
*
市場では、潮鐘が沈黙したままだった。
赤塩灯は黒く揺れ、人々は水路から少し離れている。
けれど、完全に落ち着いたわけではない。
黒い泡は、まだ板道の下から浮いていた。
子どもを抱いた女が、一歩下がる。
それを見た別の男が、赤塩袋を運ぼうとして水路の近くへ寄った。
「下がってって言ったでしょ!」
セラの声が飛んだ。
男がびくりとする。
セラの声は荒かった。
怒っている。
でも、そのあと、ほんの少しだけ震えた。
セラも怖い。
怖いから、声が大きくなる。
黙っていたら、もっと怖くなる。
「灯の下に置かないで! 荷物より先に、人を下げて!」
「でも、赤塩が濡れたら――」
「人が水に落ちたら赤塩どころじゃない!」
男は言葉に詰まり、荷を抱え直して後ろへ下がった。
港長がその様子を見ていた。
顔は変わらない。
だが、黒い杖を握る指だけが強い。
「声を荒げれば、余計に混乱する」
港長が言った。
セラは振り返る。
「黙ってたら、もっと死ぬ」
その言葉は、まっすぐだった。
粗くて、きれいではなくて、でも逃げていない。
港長の顔がわずかに動いた。
ラウ婆が、隣で静かに言う。
「あの子は、今の町を見ている」
港長は答えなかった。
視線だけが、セラへ向く。
板道の上で、セラは叫んでいた。
怖がっているのが分かる。
それでも、足を止めていない。
その姿に、港長の指が黒い杖を強く握った。
怒りではなかった。
少なくとも、最初に来たのは怒りではない。
もっと古いものだった。
港長は、ほんのわずかに視線を落とした。
「見ているだけで救えるなら」
声は低かった。
市場のざわめきに沈みそうなほど低かった。
「あの日も、救えた」
ラウ婆の顔が止まった。
港長はセラを見ていなかった。
たぶん、今の町も見ていなかった。
もっと昔の、まだ閉じていなかった水路を見ていた。
「あの日は」
ラウ婆が言った。
「順番を間違えた」
港長の唇が動いた。
だが、言葉は出なかった。
遠くで、黒い泡がまた弾ける。
ごぼり。
セラが振り向く。
「水路から離れて!」
その声に、人々がまた動いた。
港長は、今度こそ潮門の方へ目を向けかけた。
しかし、視線は途中で止まった。
まだ、見ない。
まだ、見られない。
ラウ婆はそれを責めなかった。
ただ、鈴に触れた。
鳴らさずに。
*
塩床側へ水が流れ始めてから、暗い水路の匂いは少し変わった。
甘く腐った匂いの奥に、赤塩の鋭い匂いが戻ってきている。
ミナはそれに気づいた。
「少し通った」
「よかった?」
レンが聞く。
「よくない。でも、前より悪くない」
「それ、よかったってことじゃないの」
トーリが言う。
「調子に乗らない」
「乗ってない。舟には乗ってるけど」
「今それ言う?」
「言わないと怖い」
その言葉に、ミナは一瞬だけ黙った。
トーリは笑わなかった。
怖いと言った。
さらりと。
でも、それをごまかさなかった。
「次」
ミナが細い排潮路の輪を見る。
「今なら通る」
「今なら、ってどのくらい?」
トーリが聞く。
「すぐ」
「すぐって、今?」
「今!」
レンとミナは、中央の輪に手をかけた。
さっきよりも大きい輪だった。
黒い結晶が分厚く張りつき、輪と壁のすき間を埋めている。
レンは手を置いた瞬間、嫌な冷たさを感じた。
ただの金属ではない。
水に沈んで、忘れられて、でもまだ役目を忘れていないものの冷たさ。
「せーの!」
二人で押す。
動かない。
ミナが歯を食いしばる。
「もう一回!」
「うん!」
「離さないで!」
「離してない!」
「じゃあもっと!」
「これ以上は無理!」
「無理でも!」
レンは肩まで力を入れた。
腕が痛い。
足元の舟が揺れる。
トーリが舟を押さえているのが分かる。
水が横から引く。
後ろから押す。
逃げ道を作ったせいで、流れは余計に複雑になっていた。
それでも、開けなければならない。
閉じたままでは、町が息をできない。
「動け……!」
ミナの声が漏れた。
それは命令ではなく、悔しさだった。
自分の町の流れに向けた、必死の声だった。
レンも力を込める。
夢札を持つ手ではなく、輪を押す手に。
見えるだけでは足りない。
読むだけでも足りない。
動かさなければ、何も流れない。
ぎ。
ぎぎ。
結晶が割れる。
輪が、少しずつ動いた。
「あと少し!」
ミナが叫ぶ。
トーリが後ろで言う。
「こっちも、あと少しで持ってかれる!」
「持ってかれないで!」
「言われなくても!」
最後の力を込める。
ぎぎぎ。
輪が回った。
その瞬間、細い排潮路の奥で、空気が裂けるような音がした。
すう、ではない。
ごう。
細い道に、息が通った。
その息は、荒かった。
黒い水の匂いが、一気に強くなる。
次の瞬間、後ろから迫っていた水が、細い排潮路へ殺到した。
「伏せて!」
トーリが叫ぶ。
水が横へ走る。
舟が引かれた。
壁へ向かって、まるで見えない手に掴まれたように。
レンは舟底に伏せる。
ミナも縁にしがみつく。
トーリだけが立っていた。
櫂を骨柱へ突き立てる。
がつん。
骨柱が鈍く鳴った。
舟が跳ねる。
「逆らわないで、斜めに流して!」
ミナが叫ぶ。
「だから斜めって!」
「半分左!」
「半分って何!」
「左すぎると折れる!」
「難しい注文!」
トーリは叫び返しながら、櫂を水へ差し込んだ。
水に逆らうのではない。
流れに舟の腹を乗せる。
けれど、そのまま乗れば壁に叩きつけられる。
だから、少しだけ角度を変える。
少しだけ逃がす。
ほんの少し。
それを間違えれば、舟は横を向いて沈む。
「トーリ!」
レンが叫ぶ。
「黙って伏せてて!」
トーリの声は乱れていた。
余裕はない。
軽口も、もう薄い。
でも、櫂は動いている。
水の押し返しを、舟の重さを、壁との距離を、体で読んでいる。
レンは伏せたまま、壁を見た。
水しぶきの向こう。
黒い結晶に覆われた壁。
そこに、子どもの手形が並んでいる。
さっきは、ただ並んでいるだけに見えた。
でも、違う。
一番低い手形。
その近くに、塩床の輪。
真ん中の手形。
その近くに、細い排潮路の輪。
一番高い手形。
その近くに、潮門の横へ伸びる輪。
順番。
いや、手の高さ。
小さな手が、届く場所から、少しずつ上へ。
誰かが、届いた順に残したのかもしれない。
小さな子どもが。
大きな子どもが。
そのまた誰かが。
レンの胸の中で、夢札が温かくなった。
答えを描いたのではない。
レンが見たものを、忘れないように押し返してきたみたいだった。
「手形だ!」
レンが叫んだ。
「今それどころじゃない!」
ミナが怒鳴る。
「違う! 順番かもしれない!」
ミナの目が、壁へ走る。
低い手形。
真ん中の手形。
高い手形。
三つの輪。
夢札の線。
水の流れ。
それらが、ミナの中で組み上がっていくのが分かった。
「……大門じゃない」
ミナがつぶやいた。
「え?」
「細い道の次、すぐ大門じゃない」
舟がまた大きく揺れる。
トーリが叫ぶ。
「その話、揺れてない時にして!」
「揺れてない時なんて、もうない!」
「最悪!」
水が細い排潮路へ吸い込まれ続ける。
けれど、さっきよりも水の音が変わっていた。
ただ暴れる音ではない。
流れようとする音。
苦しみながら、道を思い出そうとしている音。
レンは夢札を見る。
塩床への線。
細い排潮路への線。
そこまでは、細くつながっている。
けれど、その先。
大門へは、まだ行かない。
線は大門の横へ逸れている。
逃げるように。
でも、逃げではない。
勢いを殺すための道。
流れを折らずに、受け流すための道。
「逃がし道……」
レンが言った。
*
市場の上で、潮鐘が鳴った。
ごん。
人々が顔を上げる。
今度は、音が途中で切れなかった。
短い。
弱い。
でも、確かに町の奥まで届いた。
黒く揺れていた赤塩灯の火が、一瞬だけ赤を取り戻す。
子どもが泣きやむ。
荷運びの男が、息をのむ。
「鳴った……」
誰かが言った。
セラも顔を上げた。
胸が、少しだけ熱くなる。
レンたちが、下で何かをした。
戻ってきていない。
まだ安全ではない。
でも、何かが通った。
港長も顔を上げた。
その視線が、潮門の方へ動く。
ゆっくり。
本当に少しだけ。
けれど、途中で止まった。
潮門を見る寸前で。
黒い杖を握る指が、さらに白くなる。
ラウ婆は、その横顔を見た。
「音は戻りかけてる」
港長は答えない。
「でも、まだ息を吸い切れてない」
市場の水路で、黒い泡がまた弾けた。
ごぼり。
赤塩灯の火が、もう一度黒く揺れる。
セラは拳を握った。
「まだ終わってない」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
*
暗い水路の中で、トーリはようやく舟を骨柱の影へ寄せた。
水はまだ荒れている。
けれど、さっきのように一気に持っていかれる感じは少しだけ弱まっていた。
トーリは息を吐く。
「生きてる?」
「生きてる」
ミナが答える。
「レンは?」
「……生きてる」
「夢札は?」
「濡れてない」
「そこ聞いてない」
「でも大事」
「大事だけど」
トーリはその場で座り込みそうになったが、櫂を離さなかった。
まだ離せない。
レンは夢札を見た。
細い線が、少しだけつながっている。
塩床。
細い排潮路。
その先に、閉ざされた大門。
そして、大門の横にもう一本。
逃げるように曲がる細い線。
ミナもそれを見た。
「次は、大門じゃない」
レンはうなずいた。
トーリが櫂を握り直す。
「じゃあ、どこ」
夢札が、冷たく震えた。
温かさが消え、また水の底みたいな冷たさに戻る。
まだ読めていないものがある。
まだ忘れられているものがある。
レンは一番高い手形のそばにある、三つ目の輪を見た。
その輪の奥で、黒い水が静かに鳴っている。
「逃がし道だ」
レンが言った。
その時、潮門の奥で、もう一度水が鳴った。
ごぼり。
けれど、その音の下に、別の音が混じっていた。
どくん。
レンは息を止めた。
水音ではなかった。
鐘の音でもなかった。
町の下の、もっと深い場所から聞こえた気がした。
どくん。
もう一度。
夢札の上で、赤い海の線がわずかに震えた。
ミナが顔を上げる。
「今の、何」
トーリも水面を見る。
「水の音……じゃないよね」
レンは答えられなかった。
暗い排潮路の奥。
骨の壁の向こう。
赤い水のさらに下。
何かが、眠ったまま息をしている。
そんな気がした。
逃がし道の輪が、黒い水の中で静かに濡れていた。
まだ誰も、触れていない。




