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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

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15/20

七鐘を越えた水

 黒い泡が、市場の水路に浮かんでいた。


 ひとつではない。


 板道の下から、赤い水を押し上げるように、いくつも、いくつも。


 ごぼり。


 泡が弾けるたび、甘く腐ったような匂いが広がる。


 赤塩灯(あかしおとう)は黒く揺れ続けていた。


 火は消えていない。


 けれど、照らしているはずの灯りが、逆に影を濃くしている。


 市場の人々は、完全には逃げ出していなかった。


 逃げたい。


 でも、逃げられない。


 赤塩の袋を抱えた男が、板道の端から荷を遠ざけている。


 子どもを抱いた女が、赤塩灯のそばから少しでも離れようとしている。


 舟を引き上げようとする荷運びたちが、縄を握って踏ん張っている。


 誰もが怖がっていた。


 けれど、誰もが何かを守ろうとしていた。


 ヴィルマは、まだ沈んでいなかった。


 沈まないように、町の人たちが歯を食いしばっていた。


 セラは板道の真ん中に立っていた。


 顔は白い。


 指先も震えている。


 それでも声は出した。


「水路から離れて! 灯のそばに荷物を置かないで! 子どもを板道の内側へ!」


 人々が動く。


 怒鳴り声ではなかった。


 きれいな言葉でもなかった。


 ただ、今すぐ届かなければならない声だった。


 レンはその声を聞きながら、夢札を握りしめていた。


 札は冷たい。


 さっきまで、細い排潮路(はいちょうろ)を指して震えていた線は、今は薄く沈んでいる。


 答えを教えてはくれない。


 ただ、何かがそこにあることだけを、思い出させる。


 ミナは水路の縁に膝をつき、泡の向きを見ていた。


 港長の部下が近づこうとしたが、ラウ婆が杖の先で床を軽く叩いた。


 こつん。


 それだけで、男は足を止めた。


 ラウ婆は小さな体で、港長の前に立っていた。


 白い髪が、黒く揺れる灯に照らされて赤く見える。


「まず、細い道を開けるんだよ」


 さっきの言葉が、まだ市場に残っていた。


 港長は、その言葉を聞いたまま動かなかった。


 黒い杖を握る指が、白くなっている。


「古い排潮路は使えない」


 港長が言った。


 声は低い。


 市場のざわめきの中でも、はっきり聞こえた。


「あそこは閉じられた道だ」


「閉じたままなら、水は上へ来る」


 ラウ婆が返す。


「もう来てる」


「そこを開ければ、水は逆に走る」


 港長の声が、ほんの少しだけ強くなった。


「町の下を裂き、塩床を壊し、舟を沈める。分かっているのか」


「分かっているから、一度に返すなと言ってる」


 ラウ婆は、少しも声を荒げなかった。


 それが逆に、港長の怒りを静かに押し返しているようだった。


「七鐘を越えた水は、一度に返してはいけない」


「その言葉を、今さら持ち出すな」


 港長の顔がこわばる。


「今さらじゃない」


 ラウ婆は黒い泡を見る。


「今だからだよ」


 市場の人々は二人を見ていた。


 意味をすべて理解しているわけではない。


 けれど、分かることもあった。


 港長とラウ婆は、今の異変だけを話しているのではない。


 もっと昔の何かを、二人だけが見ている。


 レンにもそう思えた。


 港長の黒い杖。


 その先の、小さな骨の輪。


 ラウ婆の腰に下がった、黒ずんだ真鍮の鈴。


 古い排潮路。


 夢札。


 それらが、水の下でつながっている。


 まだ見えない。


 でも、つながっている。


「また子どもを行かせるのか」


 港長が言った。


 ラウ婆は、すぐには答えなかった。


 市場の水路を見た。


 黒く揺れる灯を見た。


 それから、子どもを抱きしめている女を見た。


「行かせたいわけじゃない」


 ラウ婆は言った。


「行かなきゃ、水が先に来る」


「それを止めるのが大人だ」


「止めた結果が、これだよ」


 港長の顔が強張る。


 ラウ婆は声を荒げなかった。


「責めてるんじゃない」


「そうは聞こえない」


「責めるなら、もっと昔にやってる」


 港長は唇を閉じた。


 その目には怒りがあった。


 でも、怒りだけではなかった。


 もっと深い場所に、恐れがあった。


 ミナが水面から顔を上げた。


「水は、古い排潮路へ向かっています」


 市場の人々がミナを見る。


 ミナは立ち上がらないまま、泡を指した。


「でも、道が詰まってる。抜けられないから、上に押してる」


「分かったような口を利くな」


 港長が言った。


 ミナの肩が小さく揺れた。


 けれど、目は逸らさなかった。


「分かったように言ってるんじゃありません」


 声は震えていた。


 でも、逃げていない。


「分かるところだけ言ってます」


 レンはミナを見た。


 その横顔は、いつものように得意げではなかった。


 怖がっている。


 町の水を読む子が、自分の町の水を怖がっている。


 それでも見ている。


「泡の向き。魚の向き。舟底についた膜の流れ。赤塩灯の黒い揺れ。全部、同じ方を向いてる」


 ミナは水路の奥を指した。


「市場の裏。赤草干し場の下。古い骨柱の方」


 トーリの顔が変わった。


「……あそこ?」


 ミナが振り返る。


「知ってるの?」


「知ってるっていうか」


 トーリは言いにくそうに首の後ろをかいた。


「行ったら怒られる場所」


「怒られるだけ?」


「じいちゃんには、舟ごと沈むって言われた」


「それを先に言いなさいよ」


「言ったら乗らないだろ」


「当たり前でしょ」


「でも乗るでしょ」


 ミナは黙った。


 トーリは少し笑った。


 けれど、いつもの笑い方より浅かった。


「大丈夫。沈ませない」


「軽く言わないで」


「重く言ったら、舟まで重くなる」


「馬鹿」


「うん。今はそれでいい」


 レンは、トーリの手を見た。


 指が少し震えている。


 でも、櫂を握る形は崩れていない。


 怖いのに、舟のことだけは体が覚えている。


 それがトーリの強さなのだと思った。


 ラウ婆がレンを見た。


「夢札は」


 レンはうなずき、札を開いた。


 赤い海。


 水の上の灯り。


 骨の門。


 潮門の印。


 そこから横へずれた細い線。


 線は、市場の水路から骨の門の下へ伸びている。


 さらに、その先。


 古い塩床の裏へ続くように見えた。


 けれど、途中が消えていた。


 線は全部つながっていない。


「道は見えてる」


 レンは言った。


「でも、途中が消えてる」


 港長が夢札を見る。


 その目が鋭くなる。


 欲しがっている目ではない。


 やはり、恐れている目だった。


「だから言った」


 港長の声が低く沈む。


「夢札は危険だ。見えたところだけで、見えないものまで分かった気になる」


「気にならないよ」


 レンは思わず言った。


 港長の目がレンへ向く。


 レンは胸が縮むように怖くなった。


 でも、言った言葉は戻せない。


「見えないところがあるから、怖いんです」


 レンは夢札を握った。


「全部見えたら、たぶん怖くない。でも、見えないところがあるから、間違えるかもしれないって思う」


 ミナがレンを見る。


 トーリも少しだけ目を丸くした。


 レンは続けた。


「だから、僕だけじゃ読めない」


 港長は黙った。


 その沈黙の間に、市場の水路でまた黒い泡が弾けた。


 ごぼり。


 子どもが泣き出す。


 母親がその頭を抱きしめる。


 町の人々の視線が、港長へ向いた。


 赤塩袋を抱えた男。


 子どもを抱いた女。


 縄を握る荷運び。


 舟を引き上げる老人。


 黒い水を見つめる店主。


 誰も、港長を責めているわけではなかった。


 まだ。


 けれど、その視線には問いがあった。


 では、どうするのか。


 止めるなら、何をするのか。


 港長の指が、黒い杖をさらに強く握った。


 ここで力ずくで子どもたちを止めれば、町は水より先に割れる。


 レンにも、なんとなく分かった。


 港長にも、それが分かっているのだ。


「行かせない」


 港長は言った。


 声は揺れていなかった。


 けれど、次の命令はすぐに出なかった。


 赤い帯の男たちも動けない。


 市場の人々の視線が、その場を縫い止めている。


「私は、許可した覚えはない」


 港長は低く言った。


「勝手に動くなら、責任は取れない」


 ラウ婆が、鈴を鳴らさずに答えた。


「責任は、大人が取るものだよ」


 港長の指が、黒い杖を強く握った。


 けれど、やはり次の命令は出なかった。


 ラウ婆はレンたちに向き直った。


「行くなら、細い道を探しな」


「ラウ婆は?」


 ミナが聞いた。


「ここに残る」


「なんで」


「港長が町を割らないように見ておく」


 港長の顔がわずかに動いた。


 ラウ婆は続ける。


「それに、全部教えたら、あんたは読まなくなる」


 ミナは唇を結んだ。


「意地悪」


「師匠だからね」


 ミナは何か言い返そうとして、やめた。


 今は、言い返す時間も惜しい。


 セラが一歩出た。


「私も行く」


「駄目」


 ミナが即答した。


 セラの目が鋭くなる。


「なんで」


「ここで叫べるの、あんただけだから」


「叫ぶだけなら誰でもできる」


「違う。あんたの声だと、人が動く」


 セラは言い返そうとして、できなかった。


 市場の端で、小さな子どもが泣いている。


 赤塩灯の近くで、大人が荷を動かそうとしている。


 水路をのぞき込もうとする人もいる。


 セラの拳が震えた。


 下へ行きたい。


 レンたちだけを危ない場所へ行かせたくない。


 でも、ここにも危ないものがある。


 目の前にも、守らなければならないものがある。


「……ずるい」


 セラが言った。


「そういう言い方、ずるい」


「知ってる」


 ミナは目をそらさずに答えた。


「でも、損じゃない」


「損とか得とかじゃないでしょ」


「じゃあ、もっと大事なやつ」


 セラは唇を噛んだ。


 その手が、無意識に髪へ伸びる。


 そこには、もう髪留めはない。


 指は何もない場所に触れて、止まった。


 失ったものを、また確かめるみたいに。


 セラは息を吸った。


「戻ってこなかったら、怒るから」


「戻る」


「軽く言わないで」


「軽く言わないと、足が動かない」


 ミナがそう言うと、セラは一瞬だけ顔を歪めた。


 怒っているようにも、泣きそうにも見えた。


「絶対だから」


「うん」


 レンが言った。


 セラはレンを見た。


「レンも」


「うん」


「うん、じゃなくて」


「……絶対、戻る」


 セラは小さくうなずいた。


「よし」


 そう言った声は、まだ震えていた。


 でも、前を向いていた。


 トーリが小舟を引き寄せる。


「乗って」


 ミナが舟へ足をかける。


 レンも続いた。


 舟が小さく揺れる。


 水面には黒い泡が浮いている。


 トーリは櫂を水に入れ、すぐ顔をしかめた。


「重い」


「さっきも言ってた」


 ミナが言う。


「さっきより重い」


 トーリは水面を見る。


「急いだ方がいい」


 舟が市場の裏へ滑り出す。


 セラはその背中を見送った。


 叫びたいことは、まだいくつもあった。


 置いていかないで。


 無茶しないで。


 私も行ける。


 でも、どれも飲み込んだ。


 代わりに、振り返る。


 赤い帯の男たちが、操作台へ続く足場を塞いでいた。


 その向こうに、潮門の管理室へ上がる道がある。


 もし下の三人が何かを見つけたら、上の道も必要になる。


 セラは男たちの前へ歩いた。


「どいて」


 男たちは動かない。


「ここは港長の命令で――」


「下で、あいつらが命張ってる」


 セラの声が震えた。


 怒りだけではなかった。


 怖さも、悔しさも、混じっていた。


「邪魔するなら、せめて自分の足で水の中に立ってから言って」


 男たちが言葉を失う。


 港長がこちらを見る。


 でも、すぐには止めなかった。


 セラは市場の人々へ振り返った。


「誰が悪いかなんて、あとでいい」


 声は荒かった。


 綺麗な言葉ではなかった。


「今は通して。あいつらが戻ってこられる道を、閉じないで」


 市場の人々が、少しずつ動いた。


 最初に動いたのは、さっき舟を引いていた荷運びの男だった。


「道を空けろ」


 低い声だった。


「今、塞いでる場合じゃない」


 別の大人も荷をどける。


 子どもを抱いた女が、赤塩袋を板道の内側へ移す。


 人々の動きが、少しずつ足場の前に道を作っていく。


 赤い帯の男たちは、港長を見た。


 港長は何も言わなかった。


 その沈黙を、セラは逃さなかった。


「今」


 セラが言った。


「道を開けて」


 男たちは迷いながら、半歩ずつ横へ退いた。


 市場の空気が、わずかに変わった。


 誰かを責めるための声ではなかった。


 戻る道を閉じないための声だった。


     *


 市場の裏水路は、昼間でも薄暗かった。


 赤草干し場の下をくぐるため、頭上には乾ききらない赤草の束が垂れている。


 いつもなら乾いた草の甘い匂いがする場所なのだろう。


 けれど今は、湿った草と黒い水の匂いが混じっていた。


 舟の横を、黒い泡がゆっくり流れていく。


 トーリは櫂を短く持ち、板道の影をぬうように舟を進めた。


「ここ、ほんとに道なの?」


 レンが聞いた。


「昔は道だったらしい」


「今は?」


「怒られる場所」


「説明がずっと怖い」


「じゃあ、楽しい場所ってことにする?」


「無理」


「だよね」


 トーリは小さく笑った。


 でも、すぐに水面を見る。


 笑っていられる水ではなかった。


 ミナは舟の前に座り、水の動きを見ている。


 泡の向き。


 壁についた黒い膜。


 骨柱の根元にたまる赤い濁り。


 レンは夢札を開いた。


 札の線は、時々濃くなり、時々消える。


 見ようとすればするほど、遠ざかるようだった。


「見える?」


 ミナが聞いた。


「少し」


 レンは夢札を見たまま答える。


「少しじゃ困る」


「僕も困ってる」


「じゃあ、もっと見て」


「見れば見えるものじゃないんだよ」


「潮だって、見れば読めるものじゃない」


「じゃあ同じだ」


「同じにしないで」


「ごめん」


「謝られると、もっと腹立つ」


 トーリが舟の後ろで小さく言った。


「二人とも、仲いいね」


「よくない」


「よくない」


 二人の声が重なった。


 トーリは笑いかけて、すぐに水面へ目を戻した。


 舟が少し沈むように重くなった。


「……今の、笑うところじゃなかったかも」


 ミナが低く言う。


「気づくの遅い」


「今、舟が重くなった」


 その言葉で、ミナの顔が変わる。


 レンも水面を見る。


 泡はまだゆっくり流れている。


 でも、舟の後ろから押されるような感覚があった。


 トーリは櫂を水に差し、深さを測る。


「底は浅い。なのに押されてる」


「下から?」


「後ろから」


 トーリの声が低くなる。


「じいちゃんが言ってた。舟が軽くなったように感じたら、逃げろって」


「今は重いって言った」


「重くなったあとに、急に軽くなるんだって」


 ミナの喉が鳴る。


「それ、どういう意味」


「たぶん」


 トーリは振り返らない。


「後ろから水が来て、舟を持ち上げる」


 レンの背中が冷たくなった。


 黒い水が、後ろから押している。


 まだ見えない。


 でも、来ている。


「急ごう」


 ミナが言った。


「分かってる」


 トーリは櫂を動かす。


 舟は狭い骨柱の間を抜けた。


 その先に、壁があった。


 赤い骨材と古い石を組み合わせた壁。


 黒い赤塩の結晶が、びっしりと張りついている。


 その中心に、低い穴があった。


 人が立って入るには小さい。


 舟なら、かろうじて入れる。


「ここ」


 トーリが言った。


「赤草干し場の下の奥。じいちゃんが絶対入るなって言ってた場所」


 ミナは壁を見た。


「古い排潮路の入り口……」


 レンは夢札を見た。


 札の線が、そこで少し濃くなる。


 穴の横に、古い手形があった。


 小さな手形。


 ひとつだけではない。


 いくつも。


 大人の手ではない。


 子どもの手だった。


 レンは息をのむ。


 手形は、ただ遊びでつけたものには見えなかった。


 何かを残すため。


 何かを忘れないため。


 そんなふうに、黒く濁った壁の上に並んでいた。


 レンの手の中で、夢札が少しだけ温かくなる。


「どうしたの?」


 ミナが聞く。


「ここ、夢札が……」


 レンはうまく言葉にできなかった。


 懐かしい。


 でも、自分が知っている場所ではない。


 誰かが覚えていてほしいと思ったものに、触れた気がした。


 トーリが手形を見る。


「子どもの手だ」


「昔の子かな」


 レンが言う。


 ミナは手形から目を離さなかった。


「大人だけが作った道じゃないってこと?」


 誰も答えなかった。


 まだ分からない。


 分からないものを、分かったことにはできない。


 レンは手形の下に、欠けた文字を見つけた。


「文字がある」


 舟を壁に寄せる。


 ミナが身を乗り出す。


 トーリが舟を押さえた。


「落ちないでよ」


「分かってる」


「ミナの分かってるは信用が半分」


「半分あるなら十分」


「いや、足りないよ」


 ミナは返事をせず、文字を読む。


 古い文字は、半分以上が黒い結晶に埋もれていた。


 読めるところだけ、レンも目で追う。


「……七鐘を……越えた……水は……」


 レンがゆっくり読む。


「一度に……返すな」


 ラウ婆の言葉と同じだった。


 ミナが続ける。


「細き道に……息を……通し」


 黒い結晶のせいで、その先は欠けている。


 レンは指でなぞらないように、目だけで追った。


「……塩床を……起こし」


 さらに下。


「のちに……大門を……」


 そこから先は読めなかった。


 ミナが息を吸う。


「順番だ」


「細い道、塩床、大門」


 レンが言った。


「でも」


 ミナは眉を寄せる。


「細い道に息を通すのが先なら、排潮路を開ければいい」


 トーリが舟を押さえたまま言う。


「開けるって、どうやって?」


 ミナは穴の横を見る。


 古い輪があった。


 赤黒く錆びた、小さな開閉輪。


 その奥にも、もうひとつ。


 さらに少し離れて、三つ目。


 三つの輪が、壁に並んでいる。


 ひとつは塩床へ。


 ひとつは細い排潮路へ。


 ひとつは潮門の横の逃がし道へ。


 たぶん、そうだ。


 でも、印は欠けている。


 はっきりとは分からない。


「細い道を開ける」


 ミナは言った。


「まず、それで――」


「……違うかもしれない」


 レンが言った。


 ミナの目が鋭くなる。


「何が」


「ここ。線が、排潮路の前で曲がってる」


 レンは夢札を見せた。


 札の線は、細い排潮路へまっすぐ向かわない。


 その前に、一度、小さな輪の印へ触れている。


 塩床へ続く記号。


 そこから細い道へ流れているように見えた。


 ミナは水面を見る。


 泡の向き。


 黒い膜の流れ。


 舟底に当たる水の音。


 それから、唇を噛んだ。


「……見落とした」


「ミナ」


「言わなくていい」


「まだ何も」


「慰めならいらない」


 レンは少し困った顔をした。


「慰めじゃない」


「じゃあ何」


「読めてると思う。でも、まだ全部じゃないだけで」


 ミナは返事をしなかった。


 ただ、夢札の線をもう一度見た。


 今度は、負けを認めるためではなく、読み直すために。


「塩床を起こし」


 ミナが低く言った。


「細い道に息を通すだけじゃ駄目。息を通す前に、塩床側に逃げを作る」


「逃げ?」


 トーリが聞く。


「水が急に走らないようにする場所」


「休ませる場所みたいな?」


「近い」


 ミナは三つの輪を見る。


「でも、どれがどれか分からない」


 レンは夢札を見る。


 線は三つの輪の上で震えていた。


 迷うように。


 いや、違う。


 夢札が迷っているわけではない。


 レンたちがまだ読めていないだけだ。


 トーリが舟の後ろを見る。


 顔から血の気が引く。


「急いで」


「まだ分からない」


 ミナが言う。


「後ろから来てる」


 トーリは櫂を水に突き立てた。


 舟が押されている。


 さっきより強く。


 水面はまだ大きく荒れていない。


 けれど、舟底に当たる流れが変わっていた。


「水が軽くなったんじゃない」


 トーリの声が低い。


「後ろから押されてる」


 レンは後ろを見た。


 暗い水路の奥で、黒い泡が浮かぶ。


 ひとつ。


 ふたつ。


 数えきれないほど。


 ごぼ。


 ごぼり。


 泡の音が、だんだん近づいている。


 ミナは三つの輪を見る。


 レンは夢札を見る。


 トーリは櫂で舟を押さえる。


 誰も、答えを知らない。


 分かるのは、時間がないことだけだった。


「どれを、先に」


 ミナの声が震えた。


 悔しさではない。


 恐怖だった。


 レンは夢札を握った。


 線は三つの輪の上で、迷うように震えている。


 その時、舟の後ろで水が盛り上がった。


 ごぼり。


 黒い泡が、ひとつではなく、いくつも浮かぶ。


 トーリが櫂を突き立てた。


「急いで。後ろから来てる」


 レンは夢札を握りしめた。


 七鐘を越えた水が、細い道の前まで来ていた。

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