閉ざされた|潮門《しおもん》
足音は、動かなかった。
上の板道のすき間から、細い影が落ちている。
誰かが、そこに立っている。
レンは息を止めた。
手の中の夢札が、さっきより冷たい。
札には、黒い線の先に浮かんだ丸い印。
潮門。
ミナがそう言った瞬間から、空気が変わった。
町の下に流れていた水音まで、じっと聞き耳を立てているようだった。
ぎし。
上の板が、わずかに鳴る。
セラが口を開きかけた。
ミナがすぐに人差し指を立てる。
「動かないで」
声は、息より小さかった。
「水も音を運ぶ」
セラは何か言いたそうに眉を寄せたが、今度は黙った。
レンは夢札を胸に押し当てる。
紙のはずなのに、冷たさが服越しに伝わってきた。
トーリは舟の後ろで、櫂を水に沈めていた。
動かしているようには見えない。
けれど、舟はほんの少しずつ、柱の影へ近づいていた。
水面を押す音がしない。
舟底が柱に触れる音もしない。
まるで、舟そのものが影になったみたいだった。
上から男の声がした。
「……今、下で音がしなかったか」
レンの肩が固まる。
トーリの手が止まった。
別の声が答える。
「水の音でしょう」
「さっきから妙に揺れている」
「潮が詰まっているんです。下はいつもこんなものですよ」
「そうか?」
ぎし。
足音が、板道の端へ近づいた。
細い影が、レンたちの舟のすぐ近くまで伸びる。
セラの指が、舟の縁を強くつかんだ。
ミナの腰で、ラウ婆から借りた真鍮の鈴が、鳴りそうに揺れた。
ミナはそれを手で押さえる。
ちり、と鳴る寸前で、音は止まった。
レンは心臓の音まで聞こえてしまいそうで、息を浅くした。
上の男が、何かを落とした。
小さな赤草の切れ端だった。
それが板のすき間を抜け、ひらひらと落ちてくる。
水面に触れる。
ぴちゃ。
男の影が、少しだけ動いた。
「……やはり何かいるのか」
トーリが、ほんの少しだけ顔を上げた。
笑っていない。
目だけで、柱の奥を見ている。
次の瞬間、トーリは水の流れに舟を預けた。
櫂を動かしたのではない。
小さな泡の流れに、舟の角度だけを合わせた。
舟は音もなく、柱の裏へすべり込む。
そこは、板道の影がもっとも濃い場所だった。
上からのぞき込んでも、赤い水の揺れしか見えない。
足音が止まった。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて男が言った。
「見回りを増やす。潮門の下も確認しろ」
「はい」
二人分の足音が、少しずつ遠ざかる。
ぎし。
ぎし。
ぎし。
音が消えても、ミナはすぐには動かなかった。
トーリも、舟を出さない。
レンは苦しくなって、ようやく息を吐いた。
「……見つからなかった?」
小さな声で聞く。
トーリはまだ上を見たまま答えた。
「今は」
「今は、って」
「見回りを増やすって言ってた」
ミナの声が低くなる。
「長くここにはいられない」
「正面から潮門へ行くのは無理だよ」
トーリが言った。
「最近、見張りが増えてる。上の水路も、下の通りも、港長の人たちが回ってる」
「やっぱり隠してる」
ミナがつぶやく。
「隠してるとしても、近づいたら捕まる」
トーリは舟をゆっくり動かしながら言った。
「捕まったら、ミナは潮読み小屋に戻されるだけじゃ済まない」
ミナが振り返る。
「わたしだけ捕まる前提?」
「一番怒られ慣れてるから」
「慣れてない」
「慣れてる顔してる」
「そんな顔はない」
「あるよ。ラウ婆に呼ばれた時の顔」
「見ないで」
「見えるから仕方ない」
セラが、二人をじっと見た。
それから、ほんの少しだけ目を細める。
ミナは気づかなかった。
トーリは気づいたのか、すぐにわざとらしく咳をした。
「とにかく、こっち」
舟は市場の下から外れ、細い裏水路へ入った。
そこは、さっきまでの水路よりさらに暗い。
板道のすき間から落ちる光も少なく、赤草のくずや古い網が柱に引っかかっている。
水面には薄い膜のようなものが浮かび、舟が通ると、ゆっくり左右へ割れた。
レンは思わず身を縮めた。
「ここ、通っていい道なの?」
「いい道なら、裏水路って呼ばない」
トーリが答える。
「でも、町の子は知ってる。荷物を早く運ぶ時とか、見つかりたくない時とか」
「見つかりたくない時って」
「いろいろあるんだよ。赤塩菓子をつまみ食いした時とか」
ミナが冷たく言った。
「あれ、まだ覚えてるの?」
「忘れる理由がない」
「半分はミナも食べた」
「わたしは味見」
「便利な言葉だね」
「仕事に必要だった」
「甘いものの仕事だったっけ」
「黙って漕いで」
トーリは小さく笑った。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
舟が少し広い影に入ると、ミナが夢札をのぞき込む。
潮門の印は、まだ消えていない。
黒い線は、細く震えるように札の上に残っている。
「潮門って、何なの?」
セラが聞いた。
「潮を入れたり、出したりする門」
ミナは水面を見ながら答えた。
「ヴィルマの水は、ただ赤いだけじゃない。入って、巡って、出る。その順番で町を生かしてる」
「入って、巡って、出る」
レンが繰り返した。
「外から潮が入る。町の下を巡る。塩床を通って、赤塩を育てる。それから、いらない水や濃くなりすぎた水を外へ逃がす」
「出るところが閉じてたら?」
セラが聞く。
ミナは短く答えた。
「溜まる」
「さっきの黒い水みたいに?」
レンが言う。
「たぶんね」
ミナは唇を結んだ。
「入るだけなら、いつかあふれる。巡るだけなら、いつか淀む。出すところがない水は、町を生かす水じゃなくなる」
トーリがぽつりと言った。
「だから、昔の潮読みはうるさかったんだ。流れを止めるなって」
ミナがトーリを見る。
「誰から聞いたの?」
「じいちゃん。荷運びの前は、門番の下働きだったって」
「初耳」
「聞かれたことない」
「言えばいいでしょ」
「言ったら、ミナはすぐ調べに行く」
「行くけど」
「だから言わなかった」
ミナは少しだけ不満そうな顔をした。
けれど、トーリが心配していることには、やっぱり気づいていない。
舟は裏水路の奥へ進んだ。
壁は低く、ところどころ骨材がむき出しになっている。
古い網の向こうに、黒い水がゆっくり動いていた。
レンは夢札を開いた。
潮門の印はある。
でも、そこへ向かう道順がはっきり描かれているわけではない。
やはり、これは便利な地図ではなかった。
答えを全部描いてくれるものではない。
ただ、忘れられたものの近くへ来ると、少しだけ思い出させてくれる。
レンは壁を見た。
赤塩灯の薄い光が、古い黒石の表面を照らしている。
そこに、細い線が刻まれていた。
波のような線。
門へ向かって曲がる線。
夢札の黒い線と、よく似ている。
「あれ」
レンは小さく言った。
「この線、夢札の線と似てる」
ミナが身を乗り出す。
トーリがすぐに言った。
「立たない」
「立ってない」
「乗り出してる」
「見てるだけ」
「見すぎると落ちる」
「落ちない」
「落ちる人は、落ちる前にそう言う」
ミナは少しだけ舌打ちして、でも舟の中心へ戻った。
トーリは何も言わず、舟を壁の近くへ寄せる。
ミナは刻まれた線を目で追った。
「これ……古い排潮路の印かもしれない」
「排潮路?」
セラが聞く。
「町を巡った潮を外へ逃がす道。今は、ほとんど使われてない」
トーリが顔をしかめた。
「その道、舟一艘がぎりぎり通れるくらいだよ」
「通れるなら行ける」
セラが即答した。
「そういう意味で言ってない」
「でも、潮門の裏に近づける」
ミナが言った。
トーリは大きく息を吐いた。
「だから困るんだよ」
「困るなら、ここで待っててもいい」
「待つわけないでしょ」
「じゃあ行く」
「話が早すぎる」
「遅いと見張りが来る」
トーリは反論しようとして、やめた。
舟の向きを変える。
「頭、低くして。壁にこする。あと、変な結晶に触らないで」
「変な結晶?」
レンが聞く。
「赤塩だけど、古いやつ。手を切るし、服につくと落ちにくい」
「先に言ってくれて助かる」
「ミナと一緒にしないで」
「聞こえてる」
ミナが言った。
排潮路の入り口は、普通の水路よりずっと低かった。
黒石と骨で作られた細い穴。
水面と天井の間は、レンが座っていても頭をぶつけそうなほど狭い。
トーリが舟をゆっくり入れる。
舟の側面が壁にこすれた。
ぎり、と嫌な音がする。
「ほんとに通れるの?」
セラが聞く。
「通ったことはある」
「いつ?」
「小さい頃」
「今の舟で?」
「違う舟」
「それ、大丈夫なの?」
「たぶん」
「たぶんって何」
「大きくなったのは、おれたちで、道はたぶん変わってない」
「不安しかない」
セラはそう言いながらも、身を低くした。
レンも背中を丸める。
頭上の骨材から、水滴が落ちた。
ぽたり。
首筋に当たって、冷たい。
排潮路の中は、赤い光がほとんど届かなかった。
トーリの小さな赤塩灯だけが、舟の先で揺れている。
壁には赤塩の結晶がびっしりついていた。
赤いはずの結晶は、ところどころ黒く濁っている。
まるで、赤い石の中に影が閉じ込められているみたいだった。
ミナの腰の鈴が、小さく鳴る。
ちり。
ちり。
水はゆっくり流れていた。
止まっているわけではない。
でも、流れているとも言い切れない。
舟の下で、重いものが寝返りを打つような音がする。
ごぼ。
ごぼり。
レンは壁に手をつきそうになって、すぐ引っ込めた。
赤塩の結晶が鋭く光っていた。
その横に、古い文字が刻まれている。
「文字がある」
レンが言った。
ミナが目を細める。
「読める?」
セラが聞く。
ミナは首を横に振った。
「暗い。古すぎる」
レンは夢札を近づけた。
すると、札の黒い線が一瞬だけ濃く見えた。
壁の文字の一部が、赤塩灯の光を受けて浮かび上がる。
レンはゆっくり読んだ。
「閉じた水は……眠らない」
排潮路の中が、急に静かになった気がした。
セラが低く聞く。
「どういう意味?」
ミナは水面を見た。
「止めた水は、ただ止まってるだけじゃないってこと」
「眠らないから?」
「うん」
ミナの声は硬かった。
「見えないところで、変わる。濃くなる。熱を持つ。腐る。時には、押し返す」
レンは第11話の黒い水を思い出した。
止まったものは、消えない。
眠っているわけでもない。
見えない場所で、少しずつ変わっていく。
その変わったものが、いつか上に戻ってくる。
舟はさらに奥へ進んだ。
天井が少しずつ高くなる。
水の音が変わった。
狭い場所で詰まっていた音が、広い空間へ抜けていく音に変わる。
トーリが灯りを少し持ち上げた。
「出る」
舟が排潮路を抜けた。
そこは、広い暗い空間だった。
天井は高い。
壁は黒く、太い骨柱が何本も並んでいる。
赤い水が広がり、その奥に巨大な門があった。
レンは言葉を失った。
それは、骨と黒い鉄で作られた大きな門だった。
半分以上が赤い水に沈んでいる。
門の上には古い輪があり、横には太い鎖が垂れている。
本来なら、そこから強い水音が聞こえるはずだった。
外へ流れていく潮。
町の中を巡った水が、ようやく外へ出ていく音。
けれど、聞こえるのは違う音だった。
ごぼ。
ごぼり。
低く詰まった音。
水が流れているというより、門の向こうで苦しそうに押し戻されている音だった。
門は、ほとんど閉じていた。
わずかなすき間から、黒い泡が出ている。
ひとつ。
ふたつ。
ゆっくり浮かび上がり、赤い水の上で弾けた。
「これが……潮門」
セラがつぶやいた。
ミナは門を見つめていた。
顔から血の気が引いている。
「壊れてるんじゃない」
ミナが言った。
レンは振り返る。
「分かるの?」
「見て」
ミナは門の横を指した。
古い骨柱に、太い鎖が巻かれている。
門そのものは古い。
黒い鉄には赤い錆が浮き、骨には何年もの水の跡がついている。
けれど、鎖だけが新しかった。
止め具も新しい。
そこに貼られた赤い封印札も、まだ濡れた色を残している。
「誰かが閉じてる」
ミナの声は震えていなかった。
でも、静かすぎた。
「古い仕組みが壊れたんじゃない。今の誰かが、閉じてる」
レンは潮門を見上げた。
大きすぎる門。
止められた水。
黒い泡。
新しい鎖。
この場所は、忘れられていただけではない。
誰かが今も、閉じ続けている。
その時、門の向こう側から声が聞こえた。
トーリがすぐに舟を影へ入れる。
骨柱の裏。
黒い鉄の影。
赤塩灯の火を手で隠し、舟をじっと止める。
潮門の近くに、港長の部下たちがいた。
赤い帯を巻いた男たち。
そのうち一人は、さっき上で聞いた声と似ていた。
「明日の商人には、上の塩床だけを見せろ」
「下の泡は?」
「隠せ」
「このまま閉じ続ければ、魚にも人にも出ます」
「赤塩の値が落ちれば、町がもたない」
「ですが、上の水路にももう――」
「港長は、取引が終わるまで開けるなと言っている」
レンは息をのんだ。
商人。
赤塩の値。
町がもたない。
それは、ただの悪い話には聞こえなかった。
でも、隠していい話にも聞こえなかった。
魚はもう黒くにじんでいる。
水は苦しそうに泡を吐いている。
それでも、彼らは見せる場所を選び、隠す場所を決めている。
セラの肩が震えた。
「分かってて閉じてるの……?」
声が少しだけ出た。
ミナがすぐにセラの腕をつかむ。
「今出たら終わり」
「でも」
「捕まる」
「魚も水もおかしくなってる。町の人だって知らないんでしょ」
セラの声は低かった。
怒っている時ほど、足を静かに置く。
ラウ婆の言葉を、レンは思い出した。
今のセラは、まさにそうだった。
暴れ出しそうなくらい怒っているのに、体はほとんど動いていない。
ミナはセラの腕をつかんだまま、さらに声を落とす。
「分かってる。でも、今怒るだけなら損」
「また損?」
「そう。捕まって、何もできなくなる。いちばん損」
セラは唇をかんだ。
そして、髪に手をやった。
髪留めは、もうない。
指が触れたのは、ただの髪だった。
レンはそれを見て、胸が痛くなった。
セラは大切なものを渡して、ここまで来た。
なのに、まだ何も変えられない。
怒っても、飛び出しても、今は何も助けられない。
その悔しさが、セラの横顔に出ていた。
トーリが小さく言う。
「見張りが動く。長くいられない」
ミナはうなずいた。
でも、目は潮門から離れない。
レンは夢札を開いた。
潮門の印の横に、細い線が浮かんでいた。
その線は、門の下ではない。
門の横にある、高い足場のような場所へ伸びている。
けれど、レンはそこで少しだけ違和感を覚えた。
線は、潮門の真ん中へ向かっていない。
ほんの少し、横へずれている。
でも、それは間違いには見えなかった。
夢札は、門そのものではなく、その横にある何かを見せようとしている。
そんな気がした。
レンは札を握り直した。
夢札は答えを描いてくれるものではない。
忘れられたものを、少しだけ思い出させるものだ。
なら、このずれにも、きっと意味がある。
「あそこに、線が伸びてる」
レンが言った。
「でも……門の真ん中じゃない」
「真ん中じゃない?」
セラが聞く。
「うん。少し横」
ミナが札をのぞき込む。
「操作台」
ミナがつぶやいた。
「潮門を動かす場所かもしれない」
巨大な門の横には、古い操作台があった。
三つの輪が並んでいる。
大きな骨の輪。
黒い鉄で補強された輪。
赤い印が刻まれた輪。
その中のひとつに、夢札の線が向かっているようにも見えた。
「行ける?」
セラが聞く。
トーリは首を振った。
「正面は無理。見張りのすぐ横」
「別の道は?」
セラが聞く。
トーリは少し黙った。
ミナがその顔を見る。
「知ってるんだ」
「……危ない道なら」
「先に言って」
「先に言ったら、行くでしょ」
「今言っても行く」
「だから困ってる」
ミナは本気で首をかしげた。
「何が?」
トーリは言葉に詰まった。
それから、目をそらす。
「舟を傷つけたら、修理代が損」
ミナはすぐ納得した。
「それは困る」
セラが、また二人を見た。
レンも少しだけ分かった気がした。
トーリは舟のことだけを心配しているわけではない。
けれど、ミナはそこには気づかない。
ミナにとってトーリは、昔から一緒に水路を走ってきた悪友で、仕事仲間で、舟の扱いがうまい便利な相手なのだ。
だからこそ、心配の言葉を心配として受け取らない。
トーリは小さくため息をついた。
「排水のすき間がある。舟一艘、ぎりぎり通れる。満ち引きの間だけね」
「戻れなくなることは?」
レンが聞く。
「時間を間違えたらある」
「それ、すごく危ないんじゃ」
「だから危ない道って言った」
「他には?」
「ない」
短い沈黙が落ちた。
潮門の方で、部下たちの足音が聞こえる。
見張りが移動し始めた。
今しかない。
ミナがトーリを見る。
トーリは嫌そうな顔をした。
「分かった。行くよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に言ってる」
「顔を見るな」
「ミナの声は顔にも出る」
「意味が分からない」
「分からなくていい」
トーリは舟をゆっくり動かした。
巨大な潮門の影を避け、骨柱のすき間を抜ける。
排水のすき間は、門の横にあった。
赤い水が細く流れ込む、低い穴。
入り口の周りには黒い泡がついている。
黒い点のある白い魚が一匹、穴の前でゆらゆらと泳いでいた。
逃げるでも、案内するでもない。
ただ、細い流れのある方へ体を向けている。
ミナはそれを一瞬だけ見て、何も言わなかった。
レンは喉を鳴らした。
「ここ、通るの?」
「通る」
トーリが答えた。
「でも、絶対に手を出さないで。壁に触ると切れる」
舟はぎりぎりだった。
右の壁にこすれ、左の骨柱にも触れそうになる。
トーリは櫂をほとんど使わず、水の押し返しだけを読んで舟を進めた。
ミナは前で水面を見ている。
「次、右が浅い」
「見えてる」
「その先、泡」
「避ける」
「遅いと引かれる」
「知ってる」
二人の声は低く、短い。
セラは何も言わず、レンの腕をつかんでいた。
レンは夢札を濡らさないように胸に抱える。
しばらく進むと、排水のすき間は急に広くなった。
そこは操作台の裏側だった。
古い足場の下に、小さな舟だまりのような場所がある。
誰かが昔、ここから操作台へ上がっていたのかもしれない。
石と骨で作られた細い階段が、水面から伸びていた。
しかし、その階段の途中にも、赤い封印札が貼られていた。
新しい札。
濡れていない赤。
中央に、港長の印。
ミナがそれを見て、声を失った。
レンは小さく聞く。
「港長の?」
ミナはうなずいた。
「うん」
セラの目が鋭くなる。
「じゃあ、やっぱり」
「港長が命じて閉じてる」
ミナの声は、かすかにかすれていた。
トーリは周囲を見張りながら、低く言う。
「証拠にはなる。でも、持って帰らないと意味がない」
レンは操作台を見上げた。
三つの輪がある。
そのうち、ひとつだけが新しい鎖で固定されていた。
外へ逃がす輪。
ミナが見て、すぐに分かった。
「出る道だけ、止めてる」
「入る水は?」
レンが聞く。
「止めてない」
「町を巡る水は?」
「たぶん、少しは動いてる」
「でも、出る水は止めてる」
レンは潮門の音を聞いた。
ごぼ。
ごぼり。
水が苦しそうに押し戻される音。
入る水はある。
町を巡る水もある。
でも、出る水が止められている。
だから、溜まる。
だから、黒くなる。
だから、魚がおかしくなる。
ミナは操作台の横に刻まれた古い文字を見つけた。
赤塩灯の光を近づける。
「一時閉門は……七鐘まで」
ミナは読み上げた。
「七鐘を越えて閉じるな」
「七鐘って、どれくらい?」
セラが聞く。
「潮鐘が七回鳴るまで。長くても一日の半分くらい」
「じゃあ、それ以上閉じちゃだめってこと?」
「うん」
ミナは新しい鎖を見た。
「潮門は、閉じること自体が悪いんじゃない。嵐の時とか、外の潮が荒れてる時とか、一時的に閉じるための仕組みだったんだと思う」
「でも、今は」
「閉じすぎてる」
トーリが言った。
珍しく、軽さのない声だった。
「たぶん、何日も。もしかしたら、もっと」
ミナは何も言わなかった。
でも、その横顔には、怒りよりも悔しさがあった。
自分の町のことなのに、知らなかった。
自分は潮読み見習いなのに、教えられていなかった。
その悔しさ。
レンには、少しだけ分かった。
夢札がまた冷たくなった。
レンは札を見る。
潮門の印の横に、新しい細い線が浮かんでいる。
その線は、操作台からさらに上へ伸びていた。
上。
板道よりも上。
潮門を見下ろす高い場所。
そこには、赤塩灯がいくつも並んだ見張り台のような影があった。
「あっちにも線がある」
レンが言った。
ミナが札をのぞき込む。
「上?」
「うん。操作台の上……もっと上」
トーリの顔が曇る。
「港長の見張り台だ」
「見張り台?」
「潮門を管理する場所。そこから、門の状態も、塩床の一部も見える」
セラが言った。
「じゃあ、そこに行けば全部分かる?」
「行ければね」
トーリは周りを見た。
「でも、今は戻る」
ミナが封印札を見つめた。
「でも、これを見たら」
「見たから戻るんだよ」
トーリの声が、少し強くなった。
「ここで捕まったら、誰にも伝えられない」
ミナは口を閉じた。
珍しく、すぐには言い返さなかった。
トーリが正しい。
それを分かっている顔だった。
セラも悔しそうに潮門を見た。
でも、今度は飛び出さない。
レンは夢札をしまおうとした。
その時だった。
「そこで何をしている」
背後で、低い声がした。
空気が凍った。
トーリが振り返る。
操作台へ続く古い階段の上に、赤い帯を巻いた男たちが立っていた。
一人ではない。
二人。
三人。
階段の上から、こちらを見下ろしている。
排水のすき間へ戻る細い水路も、足場の上から見張られていた。
舟で戻るには、あの男たちの目の下を通らなければならない。
セラが一歩前へ出ようとした。
けれど、その足は半歩で止まった。
怒りより先に、体が恐怖を覚えていた。
ミナがセラの袖をつかむ。
止めたというより、しがみついたみたいだった。
その指先は、少し震えている。
セラはミナを見た。
ミナは何も言わず、首を横に振った。
トーリは櫂を握った。
でも、いつものようにすぐ舟を動かさない。
水面を見て、足場を見て、もう一度水面を見る。
逃げ道を探している。
けれど、その喉が小さく鳴った。
水の道はある。
でも、逃げられる道ではなかった。
男たちの後ろから、ゆっくりと一人の大人が現れた。
白い外套。
黒い杖。
赤い帯。
他の男たちとは違い、歩く音がほとんどしない。
けれど、その人が来ると、部下たちは一斉に道を開けた。
赤塩灯の火が、その人の顔の半分だけを照らす。
年は、レンの父親くらいだろうか。
髪には少し白いものが混じっている。
顔は細く、目は静かだった。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、そこにいるだけで、潮門の水音まで小さくなったように感じた。
港長は潮門を見なかった。
すぐ横に、閉ざされた門があるのに。
見ようとすれば見えるはずなのに。
視線だけが、そこを避けていた。
ミナの声が、かすれた。
「……港長」
港長はミナを見た。
次にトーリを見た。
セラを見て、ほんの一瞬だけ目を止めた。
けれど、最後に視線が止まったのは、レンだった。
いや、レンの手元だった。
レンがしまいかけていた夢札。
港長の顔色が、ほんの少し変わった。
それは驚きだったのか。
恐れだったのか。
それとも、怒りだったのか。
レンには分からなかった。
港長は静かに言った。
「なぜ、お前がその札を持っている」
レンは答えられなかった。
拾っただけ、と言えばいいのか。
もらったものだ、と言えばいいのか。
それとも、夢札の方が自分の前に現れたのだと言えばいいのか。
どれも、少しずつ違う気がした。
港長の黒い杖の先が、古い足場を軽く叩いた。
こつ。
杖の先には、小さな骨の輪がはめ込まれていた。
赤塩灯の光を受けても、その輪だけは白く光らなかった。
「答えなさい」
港長の声は荒くない。
けれど、静かすぎて怖かった。
セラがレンの前に出ようとする。
だが今度は、ミナが止める前に、セラ自身が足を止めた。
唇を噛みしめ、レンの前へ半分だけ体をずらす。
守りたい。
でも、動けば終わる。
その迷いが、肩の震えになっていた。
ミナはまだセラの袖を離さない。
トーリは舟の位置を確かめている。
でも、どの水路にも赤い帯の男たちの目がある。
港長は一歩近づいた。
その時、ミナの腰で、ラウ婆の鈴が鳴った。
ちり。
港長の目が、その音にだけ反応した。
夢札を見た時よりも、一瞬だけ深く。
ミナは気づかなかった。
レンだけが、それを見た。
港長は鈴から目を離し、もう一度夢札を見る。
「それは、ヴィルマに残してはいけないものだ」
レンは夢札を握りしめた。
札の中の潮門の印が、冷たく沈んでいる。
赤い水の奥で、黒い泡がひとつ、静かに弾けた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第12話「閉ざされた潮門」でした。
ヴィルマの異変の原因が、少しずつ見えてきました。
止まった水。
閉ざされた潮門。
そして、夢札を恐れる港長。
町を守るための選択が、町を苦しめている。
そんな回でした。
次回は、港長との対峙です。
第13話「港長の白い外套」へ続きます。
次回もよろしくお願いします。




