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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

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12/20

閉ざされた|潮門《しおもん》

 足音は、動かなかった。


 上の板道のすき間から、細い影が落ちている。


 誰かが、そこに立っている。


 レンは息を止めた。


 手の中の夢札(ゆめふだ)が、さっきより冷たい。


 札には、黒い線の先に浮かんだ丸い印。


 潮門(しおもん)


 ミナがそう言った瞬間から、空気が変わった。


 町の下に流れていた水音まで、じっと聞き耳を立てているようだった。


 ぎし。


 上の板が、わずかに鳴る。


 セラが口を開きかけた。


 ミナがすぐに人差し指を立てる。


「動かないで」


 声は、息より小さかった。


「水も音を運ぶ」


 セラは何か言いたそうに眉を寄せたが、今度は黙った。


 レンは夢札を胸に押し当てる。


 紙のはずなのに、冷たさが服越しに伝わってきた。


 トーリは舟の後ろで、(かい)を水に沈めていた。


 動かしているようには見えない。


 けれど、舟はほんの少しずつ、柱の影へ近づいていた。


 水面を押す音がしない。


 舟底(ふなぞこ)が柱に触れる音もしない。


 まるで、舟そのものが影になったみたいだった。


 上から男の声がした。


「……今、下で音がしなかったか」


 レンの肩が固まる。


 トーリの手が止まった。


 別の声が答える。


「水の音でしょう」


「さっきから妙に揺れている」


「潮が詰まっているんです。下はいつもこんなものですよ」


「そうか?」


 ぎし。


 足音が、板道の端へ近づいた。


 細い影が、レンたちの舟のすぐ近くまで伸びる。


 セラの指が、舟の縁を強くつかんだ。


 ミナの腰で、ラウ婆から借りた真鍮(しんちゅう)の鈴が、鳴りそうに揺れた。


 ミナはそれを手で押さえる。


 ちり、と鳴る寸前で、音は止まった。


 レンは心臓の音まで聞こえてしまいそうで、息を浅くした。


 上の男が、何かを落とした。


 小さな赤草の切れ端だった。


 それが板のすき間を抜け、ひらひらと落ちてくる。


 水面に触れる。


 ぴちゃ。


 男の影が、少しだけ動いた。


「……やはり何かいるのか」


 トーリが、ほんの少しだけ顔を上げた。


 笑っていない。


 目だけで、柱の奥を見ている。


 次の瞬間、トーリは水の流れに舟を預けた。


 櫂を動かしたのではない。


 小さな泡の流れに、舟の角度だけを合わせた。


 舟は音もなく、柱の裏へすべり込む。


 そこは、板道の影がもっとも濃い場所だった。


 上からのぞき込んでも、赤い水の揺れしか見えない。


 足音が止まった。


 しばらく、誰も動かなかった。


 やがて男が言った。


「見回りを増やす。潮門の下も確認しろ」


「はい」


 二人分の足音が、少しずつ遠ざかる。


 ぎし。


 ぎし。


 ぎし。


 音が消えても、ミナはすぐには動かなかった。


 トーリも、舟を出さない。


 レンは苦しくなって、ようやく息を吐いた。


「……見つからなかった?」


 小さな声で聞く。


 トーリはまだ上を見たまま答えた。


「今は」


「今は、って」


「見回りを増やすって言ってた」


 ミナの声が低くなる。


「長くここにはいられない」


「正面から潮門へ行くのは無理だよ」


 トーリが言った。


「最近、見張りが増えてる。上の水路も、下の通りも、港長の人たちが回ってる」


「やっぱり隠してる」


 ミナがつぶやく。


「隠してるとしても、近づいたら捕まる」


 トーリは舟をゆっくり動かしながら言った。


「捕まったら、ミナは潮読み(しおよみ)小屋に戻されるだけじゃ済まない」


 ミナが振り返る。


「わたしだけ捕まる前提?」


「一番怒られ慣れてるから」


「慣れてない」


「慣れてる顔してる」


「そんな顔はない」


「あるよ。ラウ婆に呼ばれた時の顔」


「見ないで」


「見えるから仕方ない」


 セラが、二人をじっと見た。


 それから、ほんの少しだけ目を細める。


 ミナは気づかなかった。


 トーリは気づいたのか、すぐにわざとらしく咳をした。


「とにかく、こっち」


 舟は市場の下から外れ、細い裏水路へ入った。


 そこは、さっきまでの水路よりさらに暗い。


 板道のすき間から落ちる光も少なく、赤草のくずや古い網が柱に引っかかっている。


 水面には薄い膜のようなものが浮かび、舟が通ると、ゆっくり左右へ割れた。


 レンは思わず身を縮めた。


「ここ、通っていい道なの?」


「いい道なら、裏水路って呼ばない」


 トーリが答える。


「でも、町の子は知ってる。荷物を早く運ぶ時とか、見つかりたくない時とか」


「見つかりたくない時って」


「いろいろあるんだよ。赤塩菓子をつまみ食いした時とか」


 ミナが冷たく言った。


「あれ、まだ覚えてるの?」


「忘れる理由がない」


「半分はミナも食べた」


「わたしは味見」


「便利な言葉だね」


「仕事に必要だった」


「甘いものの仕事だったっけ」


「黙って漕いで」


 トーリは小さく笑った。


 けれど、その笑いは長く続かなかった。


 舟が少し広い影に入ると、ミナが夢札をのぞき込む。


 潮門の印は、まだ消えていない。


 黒い線は、細く震えるように札の上に残っている。


「潮門って、何なの?」


 セラが聞いた。


「潮を入れたり、出したりする門」


 ミナは水面を見ながら答えた。


「ヴィルマの水は、ただ赤いだけじゃない。入って、巡って、出る。その順番で町を生かしてる」


「入って、巡って、出る」


 レンが繰り返した。


「外から潮が入る。町の下を巡る。塩床(しおどこ)を通って、赤塩を育てる。それから、いらない水や濃くなりすぎた水を外へ逃がす」


「出るところが閉じてたら?」


 セラが聞く。


 ミナは短く答えた。


「溜まる」


「さっきの黒い水みたいに?」


 レンが言う。


「たぶんね」


 ミナは唇を結んだ。


「入るだけなら、いつかあふれる。巡るだけなら、いつか(よど)む。出すところがない水は、町を生かす水じゃなくなる」


 トーリがぽつりと言った。


「だから、昔の潮読みはうるさかったんだ。流れを止めるなって」


 ミナがトーリを見る。


「誰から聞いたの?」


「じいちゃん。荷運びの前は、門番の下働きだったって」


「初耳」


「聞かれたことない」


「言えばいいでしょ」


「言ったら、ミナはすぐ調べに行く」


「行くけど」


「だから言わなかった」


 ミナは少しだけ不満そうな顔をした。


 けれど、トーリが心配していることには、やっぱり気づいていない。


 舟は裏水路の奥へ進んだ。


 壁は低く、ところどころ骨材がむき出しになっている。


 古い網の向こうに、黒い水がゆっくり動いていた。


 レンは夢札を開いた。


 潮門の印はある。


 でも、そこへ向かう道順がはっきり描かれているわけではない。


 やはり、これは便利な地図ではなかった。


 答えを全部描いてくれるものではない。


 ただ、忘れられたものの近くへ来ると、少しだけ思い出させてくれる。


 レンは壁を見た。


 赤塩灯の薄い光が、古い黒石の表面を照らしている。


 そこに、細い線が刻まれていた。


 波のような線。


 門へ向かって曲がる線。


 夢札の黒い線と、よく似ている。


「あれ」


 レンは小さく言った。


「この線、夢札の線と似てる」


 ミナが身を乗り出す。


 トーリがすぐに言った。


「立たない」


「立ってない」


「乗り出してる」


「見てるだけ」


「見すぎると落ちる」


「落ちない」


「落ちる人は、落ちる前にそう言う」


 ミナは少しだけ舌打ちして、でも舟の中心へ戻った。


 トーリは何も言わず、舟を壁の近くへ寄せる。


 ミナは刻まれた線を目で追った。


「これ……古い排潮路(はいちょうろ)の印かもしれない」


「排潮路?」


 セラが聞く。


「町を巡った潮を外へ逃がす道。今は、ほとんど使われてない」


 トーリが顔をしかめた。


「その道、舟一艘がぎりぎり通れるくらいだよ」


「通れるなら行ける」


 セラが即答した。


「そういう意味で言ってない」


「でも、潮門の裏に近づける」


 ミナが言った。


 トーリは大きく息を吐いた。


「だから困るんだよ」


「困るなら、ここで待っててもいい」


「待つわけないでしょ」


「じゃあ行く」


「話が早すぎる」


「遅いと見張りが来る」


 トーリは反論しようとして、やめた。


 舟の向きを変える。


「頭、低くして。壁にこする。あと、変な結晶に触らないで」


「変な結晶?」


 レンが聞く。


「赤塩だけど、古いやつ。手を切るし、服につくと落ちにくい」


「先に言ってくれて助かる」


「ミナと一緒にしないで」


「聞こえてる」


 ミナが言った。


 排潮路の入り口は、普通の水路よりずっと低かった。


 黒石と骨で作られた細い穴。


 水面と天井の間は、レンが座っていても頭をぶつけそうなほど狭い。


 トーリが舟をゆっくり入れる。


 舟の側面が壁にこすれた。


 ぎり、と嫌な音がする。


「ほんとに通れるの?」


 セラが聞く。


「通ったことはある」


「いつ?」


「小さい頃」


「今の舟で?」


「違う舟」


「それ、大丈夫なの?」


「たぶん」


「たぶんって何」


「大きくなったのは、おれたちで、道はたぶん変わってない」


「不安しかない」


 セラはそう言いながらも、身を低くした。


 レンも背中を丸める。


 頭上の骨材から、水滴が落ちた。


 ぽたり。


 首筋に当たって、冷たい。


 排潮路の中は、赤い光がほとんど届かなかった。


 トーリの小さな赤塩灯(あかしおとう)だけが、舟の先で揺れている。


 壁には赤塩の結晶がびっしりついていた。


 赤いはずの結晶は、ところどころ黒く濁っている。


 まるで、赤い石の中に影が閉じ込められているみたいだった。


 ミナの腰の鈴が、小さく鳴る。


 ちり。


 ちり。


 水はゆっくり流れていた。


 止まっているわけではない。


 でも、流れているとも言い切れない。


 舟の下で、重いものが寝返りを打つような音がする。


 ごぼ。


 ごぼり。


 レンは壁に手をつきそうになって、すぐ引っ込めた。


 赤塩の結晶が鋭く光っていた。


 その横に、古い文字が刻まれている。


「文字がある」


 レンが言った。


 ミナが目を細める。


「読める?」


 セラが聞く。


 ミナは首を横に振った。


「暗い。古すぎる」


 レンは夢札を近づけた。


 すると、札の黒い線が一瞬だけ濃く見えた。


 壁の文字の一部が、赤塩灯の光を受けて浮かび上がる。


 レンはゆっくり読んだ。


「閉じた水は……眠らない」


 排潮路の中が、急に静かになった気がした。


 セラが低く聞く。


「どういう意味?」


 ミナは水面を見た。


「止めた水は、ただ止まってるだけじゃないってこと」


「眠らないから?」


「うん」


 ミナの声は硬かった。


「見えないところで、変わる。濃くなる。熱を持つ。(くさ)る。時には、押し返す」


 レンは第11話の黒い水を思い出した。


 止まったものは、消えない。


 眠っているわけでもない。


 見えない場所で、少しずつ変わっていく。


 その変わったものが、いつか上に戻ってくる。


 舟はさらに奥へ進んだ。


 天井が少しずつ高くなる。


 水の音が変わった。


 狭い場所で詰まっていた音が、広い空間へ抜けていく音に変わる。


 トーリが灯りを少し持ち上げた。


「出る」


 舟が排潮路を抜けた。


 そこは、広い暗い空間だった。


 天井は高い。


 壁は黒く、太い骨柱が何本も並んでいる。


 赤い水が広がり、その奥に巨大な門があった。


 レンは言葉を失った。


 それは、骨と黒い鉄で作られた大きな門だった。


 半分以上が赤い水に沈んでいる。


 門の上には古い輪があり、横には太い鎖が垂れている。


 本来なら、そこから強い水音が聞こえるはずだった。


 外へ流れていく潮。


 町の中を巡った水が、ようやく外へ出ていく音。


 けれど、聞こえるのは違う音だった。


 ごぼ。


 ごぼり。


 低く詰まった音。


 水が流れているというより、門の向こうで苦しそうに押し戻されている音だった。


 門は、ほとんど閉じていた。


 わずかなすき間から、黒い泡が出ている。


 ひとつ。


 ふたつ。


 ゆっくり浮かび上がり、赤い水の上で弾けた。


「これが……潮門」


 セラがつぶやいた。


 ミナは門を見つめていた。


 顔から血の気が引いている。


「壊れてるんじゃない」


 ミナが言った。


 レンは振り返る。


「分かるの?」


「見て」


 ミナは門の横を指した。


 古い骨柱に、太い鎖が巻かれている。


 門そのものは古い。


 黒い鉄には赤い(さび)が浮き、骨には何年もの水の跡がついている。


 けれど、鎖だけが新しかった。


 止め具も新しい。


 そこに貼られた赤い封印札も、まだ濡れた色を残している。


「誰かが閉じてる」


 ミナの声は震えていなかった。


 でも、静かすぎた。


「古い仕組みが壊れたんじゃない。今の誰かが、閉じてる」


 レンは潮門を見上げた。


 大きすぎる門。


 止められた水。


 黒い泡。


 新しい鎖。


 この場所は、忘れられていただけではない。


 誰かが今も、閉じ続けている。


 その時、門の向こう側から声が聞こえた。


 トーリがすぐに舟を影へ入れる。


 骨柱の裏。


 黒い鉄の影。


 赤塩灯の火を手で隠し、舟をじっと止める。


 潮門の近くに、港長の部下たちがいた。


 赤い帯を巻いた男たち。


 そのうち一人は、さっき上で聞いた声と似ていた。


「明日の商人には、上の塩床だけを見せろ」


「下の泡は?」


「隠せ」


「このまま閉じ続ければ、魚にも人にも出ます」


「赤塩の値が落ちれば、町がもたない」


「ですが、上の水路にももう――」


「港長は、取引が終わるまで開けるなと言っている」


 レンは息をのんだ。


 商人。


 赤塩の値。


 町がもたない。


 それは、ただの悪い話には聞こえなかった。


 でも、隠していい話にも聞こえなかった。


 魚はもう黒くにじんでいる。


 水は苦しそうに泡を吐いている。


 それでも、彼らは見せる場所を選び、隠す場所を決めている。


 セラの肩が震えた。


「分かってて閉じてるの……?」


 声が少しだけ出た。


 ミナがすぐにセラの腕をつかむ。


「今出たら終わり」


「でも」


「捕まる」


「魚も水もおかしくなってる。町の人だって知らないんでしょ」


 セラの声は低かった。


 怒っている時ほど、足を静かに置く。


 ラウ婆の言葉を、レンは思い出した。


 今のセラは、まさにそうだった。


 暴れ出しそうなくらい怒っているのに、体はほとんど動いていない。


 ミナはセラの腕をつかんだまま、さらに声を落とす。


「分かってる。でも、今怒るだけなら損」


「また損?」


「そう。捕まって、何もできなくなる。いちばん損」


 セラは唇をかんだ。


 そして、髪に手をやった。


 髪留めは、もうない。


 指が触れたのは、ただの髪だった。


 レンはそれを見て、胸が痛くなった。


 セラは大切なものを渡して、ここまで来た。


 なのに、まだ何も変えられない。


 怒っても、飛び出しても、今は何も助けられない。


 その悔しさが、セラの横顔に出ていた。


 トーリが小さく言う。


「見張りが動く。長くいられない」


 ミナはうなずいた。


 でも、目は潮門から離れない。


 レンは夢札を開いた。


 潮門の印の横に、細い線が浮かんでいた。


 その線は、門の下ではない。


 門の横にある、高い足場のような場所へ伸びている。


 けれど、レンはそこで少しだけ違和感を覚えた。


 線は、潮門の真ん中へ向かっていない。


 ほんの少し、横へずれている。


 でも、それは間違いには見えなかった。


 夢札は、門そのものではなく、その横にある何かを見せようとしている。


 そんな気がした。


 レンは札を握り直した。


 夢札は答えを描いてくれるものではない。


 忘れられたものを、少しだけ思い出させるものだ。


 なら、このずれにも、きっと意味がある。


「あそこに、線が伸びてる」


 レンが言った。


「でも……門の真ん中じゃない」


「真ん中じゃない?」


 セラが聞く。


「うん。少し横」


 ミナが札をのぞき込む。


「操作台」


 ミナがつぶやいた。


「潮門を動かす場所かもしれない」


 巨大な門の横には、古い操作台があった。


 三つの輪が並んでいる。


 大きな骨の輪。


 黒い鉄で補強された輪。


 赤い印が刻まれた輪。


 その中のひとつに、夢札の線が向かっているようにも見えた。


「行ける?」


 セラが聞く。


 トーリは首を振った。


「正面は無理。見張りのすぐ横」


「別の道は?」


 セラが聞く。


 トーリは少し黙った。


 ミナがその顔を見る。


「知ってるんだ」


「……危ない道なら」


「先に言って」


「先に言ったら、行くでしょ」


「今言っても行く」


「だから困ってる」


 ミナは本気で首をかしげた。


「何が?」


 トーリは言葉に詰まった。


 それから、目をそらす。


「舟を傷つけたら、修理代が損」


 ミナはすぐ納得した。


「それは困る」


 セラが、また二人を見た。


 レンも少しだけ分かった気がした。


 トーリは舟のことだけを心配しているわけではない。


 けれど、ミナはそこには気づかない。


 ミナにとってトーリは、昔から一緒に水路を走ってきた悪友で、仕事仲間で、舟の扱いがうまい便利な相手なのだ。


 だからこそ、心配の言葉を心配として受け取らない。


 トーリは小さくため息をついた。


「排水のすき間がある。舟一艘、ぎりぎり通れる。満ち引きの間だけね」


「戻れなくなることは?」


 レンが聞く。


「時間を間違えたらある」


「それ、すごく危ないんじゃ」


「だから危ない道って言った」


「他には?」


「ない」


 短い沈黙が落ちた。


 潮門の方で、部下たちの足音が聞こえる。


 見張りが移動し始めた。


 今しかない。


 ミナがトーリを見る。


 トーリは嫌そうな顔をした。


「分かった。行くよ」


「まだ何も言ってない」


「顔に言ってる」


「顔を見るな」


「ミナの声は顔にも出る」


「意味が分からない」


「分からなくていい」


 トーリは舟をゆっくり動かした。


 巨大な潮門の影を避け、骨柱のすき間を抜ける。


 排水のすき間は、門の横にあった。


 赤い水が細く流れ込む、低い穴。


 入り口の周りには黒い泡がついている。


 黒い点のある白い魚が一匹、穴の前でゆらゆらと泳いでいた。


 逃げるでも、案内するでもない。


 ただ、細い流れのある方へ体を向けている。


 ミナはそれを一瞬だけ見て、何も言わなかった。


 レンは喉を鳴らした。


「ここ、通るの?」


「通る」


 トーリが答えた。


「でも、絶対に手を出さないで。壁に触ると切れる」


 舟はぎりぎりだった。


 右の壁にこすれ、左の骨柱にも触れそうになる。


 トーリは櫂をほとんど使わず、水の押し返しだけを読んで舟を進めた。


 ミナは前で水面を見ている。


「次、右が浅い」


「見えてる」


「その先、泡」


「避ける」


「遅いと引かれる」


「知ってる」


 二人の声は低く、短い。


 セラは何も言わず、レンの腕をつかんでいた。


 レンは夢札を濡らさないように胸に抱える。


 しばらく進むと、排水のすき間は急に広くなった。


 そこは操作台の裏側だった。


 古い足場の下に、小さな舟だまりのような場所がある。


 誰かが昔、ここから操作台へ上がっていたのかもしれない。


 石と骨で作られた細い階段が、水面から伸びていた。


 しかし、その階段の途中にも、赤い封印札が貼られていた。


 新しい札。


 濡れていない赤。


 中央に、港長の印。


 ミナがそれを見て、声を失った。


 レンは小さく聞く。


「港長の?」


 ミナはうなずいた。


「うん」


 セラの目が鋭くなる。


「じゃあ、やっぱり」


「港長が命じて閉じてる」


 ミナの声は、かすかにかすれていた。


 トーリは周囲を見張りながら、低く言う。


「証拠にはなる。でも、持って帰らないと意味がない」


 レンは操作台を見上げた。


 三つの輪がある。


 そのうち、ひとつだけが新しい鎖で固定されていた。


 外へ逃がす輪。


 ミナが見て、すぐに分かった。


「出る道だけ、止めてる」


「入る水は?」


 レンが聞く。


「止めてない」


「町を巡る水は?」


「たぶん、少しは動いてる」


「でも、出る水は止めてる」


 レンは潮門の音を聞いた。


 ごぼ。


 ごぼり。


 水が苦しそうに押し戻される音。


 入る水はある。


 町を巡る水もある。


 でも、出る水が止められている。


 だから、溜まる。


 だから、黒くなる。


 だから、魚がおかしくなる。


 ミナは操作台の横に刻まれた古い文字を見つけた。


 赤塩灯の光を近づける。


「一時閉門は……七鐘まで」


 ミナは読み上げた。


「七鐘を越えて閉じるな」


「七鐘って、どれくらい?」


 セラが聞く。


潮鐘(しおがね)が七回鳴るまで。長くても一日の半分くらい」


「じゃあ、それ以上閉じちゃだめってこと?」


「うん」


 ミナは新しい鎖を見た。


「潮門は、閉じること自体が悪いんじゃない。嵐の時とか、外の潮が荒れてる時とか、一時的に閉じるための仕組みだったんだと思う」


「でも、今は」


「閉じすぎてる」


 トーリが言った。


 珍しく、軽さのない声だった。


「たぶん、何日も。もしかしたら、もっと」


 ミナは何も言わなかった。


 でも、その横顔には、怒りよりも悔しさがあった。


 自分の町のことなのに、知らなかった。


 自分は潮読み見習いなのに、教えられていなかった。


 その悔しさ。


 レンには、少しだけ分かった。


 夢札がまた冷たくなった。


 レンは札を見る。


 潮門の印の横に、新しい細い線が浮かんでいる。


 その線は、操作台からさらに上へ伸びていた。


 上。


 板道よりも上。


 潮門を見下ろす高い場所。


 そこには、赤塩灯がいくつも並んだ見張り台のような影があった。


「あっちにも線がある」


 レンが言った。


 ミナが札をのぞき込む。


「上?」


「うん。操作台の上……もっと上」


 トーリの顔が曇る。


「港長の見張り台だ」


「見張り台?」


「潮門を管理する場所。そこから、門の状態も、塩床の一部も見える」


 セラが言った。


「じゃあ、そこに行けば全部分かる?」


「行ければね」


 トーリは周りを見た。


「でも、今は戻る」


 ミナが封印札を見つめた。


「でも、これを見たら」


「見たから戻るんだよ」


 トーリの声が、少し強くなった。


「ここで捕まったら、誰にも伝えられない」


 ミナは口を閉じた。


 珍しく、すぐには言い返さなかった。


 トーリが正しい。


 それを分かっている顔だった。


 セラも悔しそうに潮門を見た。


 でも、今度は飛び出さない。


 レンは夢札をしまおうとした。


 その時だった。


「そこで何をしている」


 背後で、低い声がした。


 空気が凍った。


 トーリが振り返る。


 操作台へ続く古い階段の上に、赤い帯を巻いた男たちが立っていた。


 一人ではない。


 二人。


 三人。


 階段の上から、こちらを見下ろしている。


 排水のすき間へ戻る細い水路も、足場の上から見張られていた。


 舟で戻るには、あの男たちの目の下を通らなければならない。


 セラが一歩前へ出ようとした。


 けれど、その足は半歩で止まった。


 怒りより先に、体が恐怖を覚えていた。


 ミナがセラの袖をつかむ。


 止めたというより、しがみついたみたいだった。


 その指先は、少し震えている。


 セラはミナを見た。


 ミナは何も言わず、首を横に振った。


 トーリは櫂を握った。


 でも、いつものようにすぐ舟を動かさない。


 水面を見て、足場を見て、もう一度水面を見る。


 逃げ道を探している。


 けれど、その喉が小さく鳴った。


 水の道はある。


 でも、逃げられる道ではなかった。


 男たちの後ろから、ゆっくりと一人の大人が現れた。


 白い外套。


 黒い杖。


 赤い帯。


 他の男たちとは違い、歩く音がほとんどしない。


 けれど、その人が来ると、部下たちは一斉に道を開けた。


 赤塩灯の火が、その人の顔の半分だけを照らす。


 年は、レンの父親くらいだろうか。


 髪には少し白いものが混じっている。


 顔は細く、目は静かだった。


 怒鳴っているわけではない。


 それなのに、そこにいるだけで、潮門の水音まで小さくなったように感じた。


 港長は潮門を見なかった。


 すぐ横に、閉ざされた門があるのに。


 見ようとすれば見えるはずなのに。


 視線だけが、そこを避けていた。


 ミナの声が、かすれた。


「……港長」


 港長はミナを見た。


 次にトーリを見た。


 セラを見て、ほんの一瞬だけ目を止めた。


 けれど、最後に視線が止まったのは、レンだった。


 いや、レンの手元だった。


 レンがしまいかけていた夢札。


 港長の顔色が、ほんの少し変わった。


 それは驚きだったのか。


 恐れだったのか。


 それとも、怒りだったのか。


 レンには分からなかった。


 港長は静かに言った。


「なぜ、お前がその札を持っている」


 レンは答えられなかった。


 拾っただけ、と言えばいいのか。


 もらったものだ、と言えばいいのか。


 それとも、夢札の方が自分の前に現れたのだと言えばいいのか。


 どれも、少しずつ違う気がした。


 港長の黒い杖の先が、古い足場を軽く叩いた。


 こつ。


 杖の先には、小さな骨の輪がはめ込まれていた。


 赤塩灯の光を受けても、その輪だけは白く光らなかった。


「答えなさい」


 港長の声は荒くない。


 けれど、静かすぎて怖かった。


 セラがレンの前に出ようとする。


 だが今度は、ミナが止める前に、セラ自身が足を止めた。


 唇を噛みしめ、レンの前へ半分だけ体をずらす。


 守りたい。


 でも、動けば終わる。


 その迷いが、肩の震えになっていた。


 ミナはまだセラの袖を離さない。


 トーリは舟の位置を確かめている。


 でも、どの水路にも赤い帯の男たちの目がある。


 港長は一歩近づいた。


 その時、ミナの腰で、ラウ婆の鈴が鳴った。


 ちり。


 港長の目が、その音にだけ反応した。


 夢札を見た時よりも、一瞬だけ深く。


 ミナは気づかなかった。


 レンだけが、それを見た。


 港長は鈴から目を離し、もう一度夢札を見る。


「それは、ヴィルマに残してはいけないものだ」


 レンは夢札を握りしめた。


 札の中の潮門の印が、冷たく沈んでいる。


 赤い水の奥で、黒い泡がひとつ、静かに弾けた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第12話「閉ざされた潮門」でした。


ヴィルマの異変の原因が、少しずつ見えてきました。


止まった水。

閉ざされた潮門。

そして、夢札を恐れる港長。


町を守るための選択が、町を苦しめている。


そんな回でした。


次回は、港長との対峙です。


第13話「港長の白い外套」へ続きます。


次回もよろしくお願いします。

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