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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
血海ヴィルマ

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13/20

港長の白い外套

「それは、ヴィルマに残してはいけないものだ」


 港長の声は、潮門の下に低く沈んだ。


 レンは夢札を握ったまま、動けなかった。


 奪われる。


 一瞬、そう思った。


 けれど、港長は手を伸ばさなかった。


 ただ、夢札を見ている。


 欲しがっている目ではなかった。


 火のついた炭を、乾いた布の上に落とされた人の目に似ていた。


 触れれば燃える。


 放っておけば、もっと燃える。


 そんなものを見る目だった。


「答えなさい」


 港長が言った。


「なぜ、お前がその札を持っている」


 レンの喉が、うまく動かなかった。


 拾った。


 そう言えば、少しは正しい。


 でも、それだけではなかった。


 夢札は、レンたちの前に何度も現れた。


 赤い海を見せた。


 骨の門を見せた。


 閉ざされた潮門を見せた。


 まるで、ここへ来ることを待っていたみたいに。


「……分かりません」


 やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


 赤い帯の男たちが、階段の上でわずかに動く。


 港長は眉を動かさなかった。


「分からない?」


「はい」


「分からないものを持って、潮門の裏まで来たのか」


 レンは答えられない。


 セラが半歩、前へ出ようとした。


 でも、また止まる。


 ミナの指が、まだ袖をつかんでいた。


 震えはもう見えない。


 けれど、強く握りすぎて、布にしわが寄っている。


「その子たちは、わたしが連れてきました」


 ミナが言った。


 声は少し硬い。


 港長の目が、ミナへ移る。


「ミナ」


 名前を呼ばれただけなのに、ミナの肩が小さく跳ねた。


「ラウ婆のところの見習いだったな」


「見習いです」


「なら、なおさら分かるはずだ。潮門の下は、子どもが遊びに来る場所ではない」


「遊びに来たんじゃありません」


 ミナは言った。


「水がおかしい。魚もおかしい。赤塩灯も黒く揺れてる。下の泡は市場の近くまで出ています」


 赤い帯の男の一人が、わずかに顔をしかめた。


 港長は振り返らない。


「見間違いだ」


「違います」


「子どもの目は、見たいものを見る」


潮読み(しおよみ)の目は、流れを見ます」


 ミナの声が少し強くなった。


 レンは、ミナを見た。


 怖がっていないわけではない。


 でも、ここだけは引けない。


 そんな顔だった。


 港長は、長いあいだミナを見ていた。


「潮読みの名を、軽く使うな」


 その一言で、ミナの顔が固まった。


 叱られたからではない。


 その言葉に、別の重さがあったからだ。


「ラウ婆は、夢札を知っていました」


 ミナが言った。


 その瞬間、港長の黒い杖が止まった。


 こつ、と鳴るはずだった音が、鳴らない。


 赤塩灯の火が、港長の横顔を揺らした。


「……まだ、あの人は」


 港長の声が、ほんの少しだけ低くなる。


「子どもに古い名前を渡しているのか」


 怒りではなかった。


 レンには、そう聞こえた。


 もっと古いもの。


 傷に触れた時のような声。


 ミナは港長を見上げた。


「知ってるんですか。ラウ婆のこと」


 港長は答えなかった。


 ただ、少しだけ視線をそらす。


 その先には潮門があった。


 閉ざされた大きな門。


 黒い泡を吐く水。


 でも港長の視線は、潮門に届く前に止まった。


 まただ。


 レンは思った。


 港長は潮門を見ない。


 近くにあるのに。


 自分が閉じた門のはずなのに。


「管理室へ」


 港長が言った。


 赤い帯の男たちが動く。


 セラの体が強張った。


「どこへ連れていく気」


「潮門の管理室だ」


「牢屋じゃないの?」


 セラの声には、とげがあった。


 港長はセラを見た。


「牢へ入れる理由があるなら、そうしている」


「理由なら、そっちが作りそうだけど」


「セラ」


 レンは思わず名前を呼んだ。


 セラは唇を噛んだ。


 言いたいことは、まだたくさんありそうだった。


 でも、今は飲み込んだ。


 港長はその様子を見ていた。


「利口な子だ」


「褒められてないのは分かる」


 セラが低く言った。


 港長は答えない。


 ただ、階段の上へ目を向けた。


「舟を降りなさい」


 トーリが櫂を握り直した。


 その手に、力が入る。


 男たちは階段の上にいる。


 排水のすき間へ戻る水路も、足場の上から見張られている。


 舟で逃げることはできない。


 でも、舟を降りればもっと逃げられなくなる。


 トーリは水面を見た。


 足場を見た。


 港長を見た。


 それから、小さく息を吐いた。


「……降りるしかない」


 ミナが悔しそうに目を伏せる。


 トーリは軽口を言わなかった。


 それが、いちばん怖かった。


 レンたちは一人ずつ舟を降りた。


 古い階段は濡れていて、靴の裏が滑りそうだった。


 セラがレンの後ろに立つ。


 ミナは前を見る。


 トーリは最後に舟を結び、結び目を指で確かめた。


 いつでもほどける結び方だった。


 レンはそれに気づいた。


 トーリは何も言わない。


 ただ、顔だけは何でもないふりをしていた。


 階段を上がるにつれて、潮門の音が遠ざかっていく。


 ごぼ。


 ごぼり。


 それでも、音は消えなかった。


 床の下から、壁の奥から、町の骨の中から、ずっと聞こえている。


 管理室は、潮門を見下ろす高い足場の先にあった。


 黒い骨材と赤い木で作られた部屋。


 壁には古い地図が何枚もかけられている。


 町の水路。


 塩床。


 外海へ出る線。


 そして、潮門。


 机の上には帳簿が積まれていた。


 赤塩の数。


 舟の修理の記録。


 薬草の仕入れ。


 商人の印が押された紙。


 赤塩灯が二つ、部屋を照らしている。


 けれど、その火の端は黒く揺れていた。


 港長は部屋に入ると、窓のそばに立った。


 そこからなら、潮門がよく見えるはずだった。


 でも、港長は窓の外を見なかった。


 机の上の帳簿に手を置く。


「座りなさい」


 レンたちは、壁際の長い椅子に座らされた。


 赤い帯の男たちは扉の近くに立つ。


 逃げられる場所はない。


 セラは座らずにいようとしたが、ミナが小さく首を振った。


 セラは悔しそうに座った。


 港長は夢札を見た。


「その札を机の上へ」


 レンは息をのむ。


 やっぱり奪われる。


 そう思った。


 でも、港長は続けた。


「私の方へ渡せとは言っていない。見える場所に置きなさい」


 レンは迷った。


 夢札を手放すのが怖い。


 けれど、ここで逆らえば、もっと悪くなる。


 セラが小さく言った。


「レン」


 止める声ではなかった。


 無理するな、という声だった。


 レンはゆっくり夢札を机に置いた。


 港長は手を伸ばさない。


 夢札から少し離れた場所に立っている。


 本当に、触りたくないみたいだった。


「誰に見せた」


 港長が聞いた。


「……ラウ婆と、ここにいるみんなです」


「他には」


「宿場の老人に、絵だけ」


「名前は」


「言ってません」


 港長の目が細くなる。


「その老人は、夢札を知っていたか」


「たぶん、知りません」


「たぶん?」


「聞かれませんでした」


 港長は少しだけ黙った。


「聞かない大人もいる、か」


 その言い方に、レンは引っかかった。


 港長は誰かを思い出している。


 でも、それを口にはしない。


 ミナが言った。


「夢札が危険なんですか」


 港長はミナを見る。


「危険だ」


「どうして」


「古い道を呼び起こす」


「それの何が悪いんですか」


「古い道が、いつも人を助けるとは限らない」


 部屋の赤塩灯が、黒く揺れた。


 港長の声は静かだった。


「道は、出口だけに続くわけではない」


 レンは夢札を見る。


 札の上の潮門の印は薄く沈んでいる。


 黒い線はまだある。


 門の中心ではなく、少し横。


 古い排潮路の方へ伸びている。


 港長はその線を見ようとしなかった。


「でも」


 セラが言った。


「閉じたままなら、水がおかしくなる」


「そうだ」


 港長はすぐに答えた。


 あまりに早くて、セラが少し驚く。


「分かってるの?」


「分かっている」


「じゃあ、なんで」


「開ければよい、という話ではないからだ」


 港長の手が、帳簿の上に置かれる。


「赤塩の値が落ちれば、冬を越せない家が出る」


 部屋の中が静かになる。


「薬を買えない者が出る。舟を直せない者が出る。外の商人は、弱った町を待ってはくれない」


 ミナの唇が、わずかに開いた。


 けれど、言葉が出てこない。


 それは、ミナも知っている現実だった。


 市場で値切る声。


 舟底を直す大人たち。


 赤塩を大事に量る手。


 赤塩がヴィルマの命であることを、ミナは誰より知っている。


 港長は続けた。


「外へ出す水を少し止めれば、塩床の濃さは保てる。採れ高も落ちない。取引も守れる」


「少しじゃない」


 ミナが言った。


 声が震えていた。


「七鐘を越えてる」


 港長の顔が、ほんの少しだけ動いた。


 ミナは立ち上がりそうになったが、こらえた。


「操作台に書いてありました。一時閉門は七鐘まで。七鐘を越えて閉じるなって」


 港長は答えない。


 セラが港長をにらんだ。


「知ってたんでしょ」


「知っている」


「じゃあ、守ってないのはそっちじゃない」


 赤い帯の男が一歩動いた。


 港長が手で止める。


「その通りだ」


 また、すぐに認めた。


 セラの言葉が止まる。


 港長は怒鳴らない。


 言い訳もしない。


 ただ、静かに認める。


 だからこそ、怖かった。


「守れない決まりもある」


「決まりを破ったから、町が苦しんでるんじゃないの」


 セラの声は大きくなかった。


 でも、まっすぐだった。


「町を守るためなら、水を苦しめてもいいの?」


 港長はセラを見た。


 長い沈黙が落ちる。


 赤塩灯の火が、ちり、と鳴った。


「水は苦しまない」


 港長が言った。


 セラの目が鋭くなる。


「見てないから、そう言えるんだ」


 ミナが息をのんだ。


 トーリも顔を上げる。


 港長の手が、黒い杖を握り直した。


 初めて、部屋の空気が少し変わった。


 でも港長は怒鳴らない。


 窓の方へ視線を向ける。


 ただし、やはり潮門は見ない。


「子どもに町は背負えない」


 港長は言った。


 その声には、冷たさと、どこか疲れた響きがあった。


「町には、食べる者がいる。病む者がいる。明日の舟を直さねばならない者がいる。塩を待つ商人がいる。外の町との約束がある」


「だから、黙ってろってこと?」


 セラが聞く。


「そうだ」


 港長はまっすぐ答えた。


 セラの拳が震える。


 レンは、その手を見た。


 殴るための震えではない。


 こらえるための震えだった。


「黙ってたら、もっと悪くなる」


 レンは気づけば、そう言っていた。


 自分の声に、自分で驚く。


 港長の目がレンへ向く。


 レンは怖かった。


 胸が苦しい。


 でも、言葉は止まらなかった。


「閉じた水は、眠らないって、排潮路に書いてありました」


 港長の目が、一瞬だけ揺れた。


 ほんの一瞬。


 でも、レンには見えた。


「夢札が、そこへ連れていったんじゃありません。夢札は道を作ってくれません」


 レンは机の上の札を見る。


「ただ、忘れられたものを、少しだけ思い出させるだけです」


 ミナが、レンを見た。


 セラも。


 トーリも。


 レンは続けた。


「だから、悪いのは夢札じゃないと思います」


 港長は黙っている。


「見ないふりをしてるものが、戻ってきてるんだと思います」


 部屋の中が凍った。


 赤い帯の男たちまで、息を止めたようだった。


 港長はレンを見ていた。


 怒っているのか。


 悲しんでいるのか。


 それとも、何かを思い出しているのか。


 レンには分からない。


 港長はゆっくり口を開いた。


「言葉を覚えた子どもは、時にもっとも危うい」


 レンは肩をすくめた。


 港長は続ける。


「自分が見たものだけが、真実だと思う」


「港長は、見ていません」


 レンは言った。


 言った瞬間、怖くなった。


 でも、もう戻せなかった。


「さっきから、潮門を見ていません」


 ミナが息を止める。


 トーリが小さく「レン」と言った。


 セラは何も言わない。


 港長の顔から、音が消えたみたいだった。


 長い沈黙。


 水の音だけが聞こえる。


 ごぼ。


 ごぼり。


 港長は、ゆっくり窓の方を向いた。


 でも、その目は窓の木枠で止まった。


 潮門までは行かない。


「……見れば、何かが変わるのか」


「分かりません」


 レンは正直に言った。


「でも、見ないと、何も読めません」


 港長は目を閉じた。


 ほんの短い間だった。


 開いた時には、また静かな港長に戻っていた。


「その札は、夜明けまでにヴィルマの外へ出す」


 港長は言った。


 レンの胸が冷たくなる。


「お前たちもだ」


「追い出すの?」


 セラが言った。


「そうだ」


「町がおかしくなってるのに?」


「町のことは、町の者が決める」


 ミナが立ち上がった。


「わたしは町の者です」


 港長がミナを見る。


「なら、なおさらだ。子どもが町の壊れ方を見れば、町はもっと壊れる」


「意味が分かりません」


「不安は水より早く広がる」


 港長は言った。


「市場に一人が叫べば、明日の商人は港へ入らない。商人が来なければ、赤塩は売れない。赤塩が売れなければ、冬の準備はできない」


 ミナは言い返せなかった。


 その理屈は間違っている。


 でも、全部が嘘ではない。


 だから、苦しかった。


 トーリが口を開いた。


「でも、黒い泡は隠せない」


 港長がトーリを見る。


「市場の下にも出てる。舟底に膜もついてる。魚もおかしい。荷運びの連中はもう気づいてる」


「ならば、噂を止める」


「水より早いって、自分で言ったじゃん」


 トーリの声は軽く聞こえた。


 でも、目は笑っていなかった。


「噂は舟より速いよ。たぶん」


 港長はトーリを見つめた。


「お前は市場の荷運びだったな」


「……はい」


「なら、口の閉じ方も覚えなさい」


 港長の声は静かだった。


 けれど、その静けさに、トーリの背中がびくりと跳ねた。


 ミナが何か言い返そうとする。


 その顔を見た瞬間、トーリの口が先に動いてしまった。


「……だって」


 声がかすれる。


「水路の閉じ方なら、今日、あそこで見ちゃいましたから」


 言った瞬間、トーリ自身が一番驚いた顔をした。


 ミナがトーリを見た。


 セラも目を丸くする。


 トーリは、しまっておけよ、おれの口、とでも言いたげに、すぐに唇を噛んだ。


 港長は静かに杖を鳴らした。


 こつ。


「全員、夜明けまでここにいる」


「夜明けまで?」


 ミナが言った。


「明日の商人が去るまでだ」


「取引を続ける気ですか」


「町を守るためだ」


「町を守るなら、潮門を――」


「開ければよい、ではない」


 港長の声が、初めて少し強くなった。


 その強さに、部屋の火が揺れた気がした。


「一度に開ければ、逆に流れる」


 ミナの顔が変わる。


 港長は言葉を切った。


 言いすぎた。


 そんな沈黙だった。


 レンは机の上の夢札を見た。


 札の線が、少しだけ濃くなっている。


 潮門の中心ではない。


 横の古い排潮路。


 そこから操作台へ。


 そして三つの輪へ。


 細い線が、まるで順番を迷うように、かすかに震えていた。


 レンは息をのむ。


 開ければいい、じゃない。


 順番がある。


 たぶん、一つずつ。


 水が通る道を思い出させるように。


 レンは夢札に手を伸ばそうとした。


 その瞬間、港長の声が飛ぶ。


「触るな」


 レンの手が止まる。


 港長もまた、夢札を見ていた。


 その目は鋭い。


 でも、やはり欲しがっている目ではなかった。


 恐れている。


 夢札が何かを思い出させることを。


 子どもたちが、それを読むことを。


「港長」


 ミナが低く言った。


「今、“逆に流れる”って言いましたよね」


 港長は答えない。


「知ってるんですね。潮門の開け方」


「知っているから、閉じている」


「違う」


 ミナの声が震えた。


 今度は恐怖ではなかった。


「知っているなら、読むべきです。止めるんじゃなくて、読むべきなんです」


 港長はミナを見た。


「ラウ婆の言葉か」


「わたしの言葉です」


 ミナは言い切った。


 部屋の空気が少し変わる。


 レンは、ミナの横顔を見た。


 損か得かを考えている顔ではなかった。


 自分の町の流れは、自分で読む。


 そんな顔だった。


 港長は、今度こそ何かを言い返そうとした。


 その時だった。


 窓の外で、赤い灯りがひとつ黒く揺れた。


 全員がそちらを見る。


 ひとつではなかった。


 市場の方角で、灯りが次々と黒くなる。


 赤い火の芯が、影を吸ったみたいに黒く沈む。


 遠くで人の声が上がった。


 誰かが何かを落とす音。


 舟がぶつかる音。


 そして。


 ごん。


 潮鐘が鳴った。


 けれど、音は町へ届く前に切れた。


 半分だけの鐘の音が、赤い水の上で消える。


 港長の顔から、初めて静けさが消えた。


 レンは窓の外を見た。


 管理室の下を流れる細い水路。


 そこに、黒い泡がひとつ浮いていた。


 ごぼり。


 泡は、音もなく弾けた。

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