08.フォックスグローブの恋文(3)
アーニャは没落したホーソーン男爵家の娘だ。
私は裕福な資産家の娘だ。
愛のない婚姻を夫は選び、最愛のアーニャと関係を続け、関係を暴露して私が動揺した瞬間に私を殺して葬り去ったのだろうか。
夫が馬車事故に見せかけて、計画的に私を殺した可能性は否定できないのだ。
――私の資産を妻の遺産として手に入れるために。
婚姻契約を作れと父が私に再三言っていたのに、私はイーサンを信じ切って作らなかった。死んだ妻の遺産がイーサンに渡らない理由がない状態だ。18世紀イングランドは、妻の財産は夫のものというコヴァーチャーがある。夫による妻の法的吸収は慣習法で当たり前のものなのだ。
愚かな私は失敗したのだろう。
長年恋焦がれ続けた夫と、信じていた親友に裏切られた。
財産も地位も命ですら夫に奪われた妻が、私の真実の姿になる。
足元のわすれな草の青い花を見つめた。春の水分を吸って柔らかい土の上に私の足元を見つめた。今の私はアーニャの粗末な革靴を履いていた。
レッドワイク伯爵家のカントリーハウスと、アーニャの生家であるホーソーン・マナーまでは、歩いて行き来できる距離にある。私が今いるレッドワイク・チェイスからならば、歩いて30分ほどでホーソーン男爵家の邸宅まで着くだろう。ホーソーン・マナーはグレイストーンで建てられた小さなマナーハウスだ。
ホーソーン男爵家の門柱には、白い野薔薇と小さな星の紋章が欠けたまま残っている。土地は痩せ、春になっても麦の色は薄かった。森林資源も乏しく収益性は低かった。
かつて、ホーソーン男爵家は羊毛で繁栄したという。しかし、祖父の代の投資失敗が原因で借金だけが残った。小作人が流出し、地代収入も減少してしまった、今や名ばかりの男爵家だ。アーニャの父親である、今のホーソーン男爵家当主は良い人ではあるものの、経営者としては向いていないようだった。
由緒はあるが、家財は尽きた家に生まれたアーニャ。
同じく財政破綻に直面するレッドワイク伯爵家のイーサン。
2人が結婚するのは決して許されなかったはずだ。
だから、イーサンは私と結婚した。
さらに、私の資産を妻の遺産として手に入れようとした……と。
――私を殺せば、お金も爵位も手に入り、最愛のアーニャを後妻に迎えられるから……。
――昔イーサンは、春になると必ず馬上から白い花を折って私にくれた。
――その手で、私を殺したのだろうか。
私の思考は冷静だ。
しかし、心には冷静さが戻らなかった。
私の心は導き出した推理に塗りつぶされた。
手紙をアーニャのハンカチーフで包んだ。ベンチから重い腰を上げた。
5月の午後はもうすぐ終わるだろう。このまま森の入り口に一人でいるのはダメだ。
私は今は貧しいホーソーン男爵家の娘だ。
私は硬く唇をかみしめて、歩き始めた。
アーニャのざらりとしたハンカチーフは、私の涙を拭いても拭いても乾かしてはくれなかった。私の涙はとめどもなく流れ続けた。
このまま森を抜けて、小川を抜けて、ホーソーン・マナーまで歩いて行こう。
5月の風は頬に心地良かった。
3年間の出来事を私は知っている。
婚約が決まった自分自身に会う気力は無い。
どう説明すればいいのか検討もつかない。親友アーニャに姿で、アーニャとイーサンが愛し合っているから、結婚を止めるべきだと言うべきか。
ただただ、私は今の姿を受け入れてくれる場所で、静かに考えをまとめたかった。
――今が3年前なら、今から私が死なない未来を作れるかしら……?
突然浮かんだその考えは私を少し元気づけた。
3年後の9月3日。私が馬車に轢かれて死んだ日。
私は未来を知っている。
――ならば、今度は決して自分を殺させないようにしよう。誰が犯人だろうと、誰からも殺されないようにするのよ。
5月の光は、翡翠色の膜を張ったように森を美しく見せていた。私は涙を拭った。足元に咲く勿忘草の花が風に揺れるのを見て、4年後の5月も生き延びてこの花を見ようと決意した。
――私は3年後に何が起きたか忘れない。決して。




