53.ヘザーの季節——今回は見逃そう
サセックスのヒースランドを彩る紫や淡桃のヘザーが、ゆるやかに色を失い始めた頃、ブライトン社交界を席巻する新星として、アーニャ・ホーソーン嬢が連日人々の噂にのぼった。
その裏で、レッドワイク伯爵家とシーブルック家の離縁が決定した。
私がそれを知ったのは、ホーソーン・マナーの食卓に置かれた新聞の一面に、見慣れた名が並んでいるのを見つけた時だ。レッドワイク伯爵家とシーブルック家、離縁成立。
6月に華々しく結婚披露宴を行ったレッドワイクは、結婚披露宴直後のイーサン・レッドワイクが引き起こした騒ぎにより、離縁は、人々に割とすんなり受け入れられたところがあった。
私の頭の中は、今晩の舞踏会のことでいっぱいだった。
――積荷が来ない。
今回の積荷は、ノルマンディを発って一晩。順調なら、もう沖に見えるはずだった。
「明日は無理だろうな」
ジャックの一言で全て決まった。
「じゃ、明後日以降に届けられると商談で話すことにするわ」
タフタやサテンのフランス製シルク、香水、ブランデー、上質リネン、シルク製の手袋・ストッキング、社交界用の扇子や小物だが、湿気に弱いレースやシルクは慎重に航海してもらう必要がある。ノルマンディを発つのを遅らせる判断も必要だ。
「在庫にまだレースと絹が多少ありました。そちらなら、早く納品できると話されたらどうでしょう」
ミス・ベルモンが話した。
「そうだわね」
リディアとエリスの家庭教師は住み込みなので、最初から密輸のことを承知してもらって雇った。英仏海峡沿いの生まれなので、元々この商売に理解がある、ミス・ベルモンだ。ダークブラウンの髪をいつもシニヨンにまとめ、落ち着いていた彼女だが、幸運なことに、レースや布の質にめざとかった。
商売は少しずつ、拡大路線に進んでいた。
海水浴場絡みで、季節社交界としてのブライトンを訪れている貴族のほとんどが、終わったら、ロンドンの屋敷に運んで欲しいという。奥様方への個別輸送はロンドンまで馬車だ。
テムズを使った船での運搬はギデオンに任せることにしていた。
***
ロイヤル・パビリオンはドーム型の外観と尖塔が特徴だ。今晩の舞踏会はそこが舞台だった。
赤い絨毯を敷き詰められた舞踏会場は、美しいライトが吊るされ、クルクルと舞う絹のドレスは花のようだった。奥の庭園は広大でそこで紳士・淑女が会話を嗜むにはもってこいの場だった。
だが、私は今、ハロウゲイト子爵に連れられ、別室の応接ソファに座っていた。窓から月光が白く輝くのが見えた。
――思い切って庭園に逃げ込むべきだろうか?
「王子殿下から支援を受けているのか?」
目の前のハロウゲイトに唐突にそう聞かれた。真剣に聞いているようだ。
「そんなわけがないでしょう」
いきなり何を?
私は意味が分からないと思いながら言った。
「そっちの山の邪魔はしないわ。協定を結ぶか、協力するか。どっちでもいいわよ」
私はここに来るまでの間に、給仕係からワインのボトルとグラスを失敬してきていた。目の前の小テーブルにそれを置いた。
「あなたの考えは読めているわ。ケントをあなたは押さえていて、ロンドン直結ルートをテムズを使ってやっているわね?密輸品は茶・酒・絹。それからコーンウォール、デヴォン、ドーセット」
私は赤い紅を堪えたクラレットをグラスに注いだ。香りを嗅ぎ、ため息をついた。
一口飲んだ。
――覚悟を決めるわよ。
「あなたが欲しいのは、サセックス・ブライトン。でも、シーブルック家がまともに商売をしていて、裏ではギデオン商会が密輸をしている。だ、か、ら、あなたはこのサセックスの密輸の足がかりが欲しい」
「それで?」
「あなたが取り締まりを見逃してくれるなら、利益の一部を渡すわ。あるいは、私の商売に協力をするかよ」
「どちらも同じことを言っているように聞こえるが」
「えぇ。選択肢は一つよ」
「王子殿下はどこまで関わっている?」
意味が分からない。
なぜ、王子殿下の話に戻る?
「君を助けてくれているだろ?」
細いフルートグラスに、淡く泡立つシャンパーニュ。目の前のハロウゲイトはそれを一気に飲んだ。
私を助けてくれている?
王子殿下が?
「私の商売には一切王家は関わりがないわ」
私の顔をじっと見つめたハロウゲイト子爵は、そっと私に近寄った。囁くように彼は言った。
「どこで、その知識を身につけた?」
ドキッとした。
父だとは言えない。
今の父は、ホーソーン男爵だ。
「ギデオン商会のギデオンとは昔から知り合いなのよ。彼がトマス・シーブルックと喧嘩別れをする前からね」
私は真実だけ言った。
「没落男爵令嬢が、お家再興のために、一肌脱ぐか……」
アイボリーの上質シルクのドレスは、ハイウェストでストンと落ちるラインが美しかった。私は自分のドレスの布を触った。
「それのどこが悪いの?」
ハロウゲイトはどこか楽しげだった。彼は、急ぐ様子がなかった。
「病気の父を助けるために、か?」
「えぇ。きっかけはそうよ」
「君は面白い」
彼は再び注いだシャンパーニュのグラスを傾けた。
「だが、まだ足りない」
――試している?
「今回は見逃そう。問題は、王子殿下だけだ」
私は何も言わなかった。グラスの中のクラレットの香りを黙って感じた。
ハロウゲイトはちょっと私の目の奥を覗き込むような表情になった。
「愛情はない?」
「ないわよ」
「少なくとも、君の方はそのようだな」
私は何を言っているんだかと言った表情で、ハロウゲイトを呆れたように見た。
「じゃ、連れが待っていると思うので、ここで失礼しますわ」
――今回は、見逃してくれた。
私は舞踏会場の方に歩き始めた。
ハロウゲイトは、その夜は何もしなかった。
ただ、見ていた。
それだけで十分だとでもいうように。




