04.きっとそうなのね ホーソーンのワイルド・ストロベリー(3)
私が普段手紙に使うのはつるりとした高級ヴェラム紙だ。アイボリーがかかっていて、光に透かすと水印が見えるものだ。厚みが均一なのだ。
封蝋はレッドワイク伯爵家の紋章入りだ。押し印は重みがあり、押した跡が均一で美しいものだ。生家のシーブルック家でも、同じ高級紙を利用していた。貴族ではないが、東インド会社の大口株主で私的開運業者として莫大な富を得ている生家では、街で買ったコットン紙などは使用しない。
親友のアーニャからもらった大切な手紙は全てとってある。私には分かった。
これは、確かにアーニャが書いた手紙に違いない。没落したホーソーン男爵家の長女であるアーニャが唯一持つ指輪を印に使った手紙だ。
私の手の中にあるものは、青糸でAのイニシャルが刺繍された、手縫いのピコット刺繍で縁取りされたコットンのハンカチーフ。それと家庭用の安い鉄筆インクで小さくAとだけ書かれた封コットン紙の筒。封筒の中には手紙が入っているのだろう。
――アーニャが手紙を書いてイーサンに渡した?
その時、私たち二人はビクリとした。
ハッとしてお互いに顔を見合わせてあたりを見まわした。私たち二人のものではない声が唐突に聞こえて、私たちがいる場所に近づいてきた。
一瞬、レッドワイク伯爵家の家令の無表情な顔がこちらを見ている姿が見えたように思って、私は目を凝らした。
彼のロングコートが、並木道の向こうの春の風の中で一瞬だけ揺れたように見えた。色褪せた白いストッキングの足が午後の光の中で見えたように思ったのだ。家令はロングコートにウェストコート、ニッカボッカ、白ストッキングが定番だ。当時の彼は資金に窮するレッドワイク伯爵家の中でも必死に威厳を保とうと彼なりに色褪せたロングコートをなんとか手入れして着ていたはずだ。誇り高い執事服を色褪せたまま着ていた。
でも、私の見間違いだったのかもしれない。家令の姿はどこにも見当たらなかった。その代わり、やはり誰かがこちらにやってくる足音が聞こえた。
――誰かがくるわっ!
「キャロラインお嬢様っ!」
「ネル待っていて。イーサンとアーニャがお庭に出るのが見えたのだけれど、探してくるから待っていて」
「早くお戻りにならなければ。今日はお父様に大事な話があると言われておりましたよ。」
――キャロライン………………。
――本物の私とネルがここまでやって来るのだわ!
――間違いないわ。今日はあの日だわ。婚約が確定し、財政難だったレッドワイク伯爵家が急ぎの結婚式を提案してきた日……。
「アーニャ。手紙はアーニャが持っていて。君の気持ちは分かったから。じゃあ、ここで僕はお別れだ」
美しいイーサンは切迫した様子で慌てたようにそう囁くと、私の指を離し、走るように音も立てずに木々の向こうに去った。
――アーニャとイーサンの密会はまずいというわけだわ。状況が分かったわ。
温室の割れた壁の隅にポツンと咲く雑草扱いのオックスアイデイジーの青紫の小さな可憐な花を私は見つめた。
――仕方ない。ここは状況に合わせよう。
私は握りしめたAのイニシャルが刺繍されたハンカチーフで手紙を包んで、その場から離れた。
足元には荒れ果てた庭に良く咲く黄色い清楚な花が咲いている。カウスリップの花だ。春が確実にやってきた証拠だ。もうすぐ初夏に向かう。私たちの結婚式は来月に執り行われるはずだろう。
古びたアーチに絡みついたハニーサックルの甘い香りが風に乗って私のところまで広がっていた。私は目線を上げて足早に歩いた。ハンカチーフで残っている涙を拭いた。
――とにかく、私は今はアーニャだ。
5月の午後の光が眩しい。馬車に轢かれる直前のレッドワイク伯爵家は深紅のダリアが咲き乱れて、秋の美しさを誇っていた。
だが、今は荒れ果てた庭に雑草と呼ばれる花が咲いていた。棘だらけのつるが温室の壁沿いに薄いピンクの小さな花をつけていた。野ばらだ。私がいた3年後のここには大輪のバラが咲いていたはずだ。
私は5月の風に弱く揺れるウッドアネモネの小さな小花を踏みつけないように歩いた。
3年後の9月には、同じ場所には深紅のダリアが咲き乱れていた。今は9月の金色に輝く紅葉も何もない道だった。荒れた庭に春の匂いが満ち溢れていた。わすれな草の青い花が目に入った。涙が込み上げた。
――夫と親友の裏切りは、結婚前の婚約確定のあの日から起きていたのね?
涙を必死に堪えて、記憶を頼りに私は小道に合流できる場所に急いだ。
小道の先に裏門があるはずなのだ。そこに向かおう。アーニャの実家のホーソーン男爵家と地続きのようにレッドワイク伯爵家の狩猟用森であるレッドワイクチェイス広がる。
そのことに今更ながら、ギョッとした気持ちだった。
――2人は皆に隠れて今までも数えきれないほどこっそり会っていたのかもしれない。気持ちを確かめ合っていた?
私は真実を知ってしまったようだ。私は胸の奥のざわめきを止められなかった。
ネルから声をかけられたのはその時だった。
私はゆっくりと振り返った。足が震えていた。呼吸がくなり、ネルにすがりたいと思ったが、何かが私を押し留めた。忘れな草の青い花が私の足元で5月の風に揺らいでいた。
ネルは深い藍のスカートを揺らし、アーニャを探しまわっていたのか息を切らしていた。
「あら、アーニャお嬢様。アーニャお嬢様を先ほどからキャロラインお嬢様がお探しになっていましたわ」
莫大な資産を持つシーブルック家のメイドであるネルは、インディゴ染めの深いネイビーのドレスを着ていた。純白リネンのエプロンを付け、キャップには白いレースと小さな濃紺リボンが付いていた。足元は黒レザーの革靴だ。
温かさの溢れるいつもの笑みを浮かべて、ネルは私に聞いた。
――私に気づかないのね。私は今はやっぱりアーニャなのだわ。
「そうなの。悪いことをしたわ。ちょっと気分がすぐれないので、私は先に帰ると伝えてもらえないかしら」
「まあ、大丈夫でございますか?わかりました。キャロラインお嬢様にそうお伝えしますわ。お気をつけて」
心が凍りつきそうになった。
ネルは全く私に気づかない。
私が馬車に轢かれる所をネルは目撃して悲鳴を上げていた。私は全てをネルに打ち明けたかったが、ネルが理解できるか分からないと思った。私ですら混乱しているのに、何と説明すれば理解してもらえるか分からなかった。
――今はダメよ。これが続くのか見届けなければ……2人の裏切りがいつからなのか、もう少し確かめたい。
私は平静を装ってネルにうなずくと、足早に伯爵家の伸び切った雑草が生い茂る小道を歩いた。
私が未来で女主人だったレッドワイク・ホールの小道には、私が今着ているアーニャのドレスの裾を撫でるように、デイジーの白い花が揺れていた。




