03.きっとそうなのね ワイルド・ストロベリー(2)
「これはもう決まってしまったことなんだ。僕の意思じゃない。僕にはどうしようも出来ないんだよ。僕の気持ちは君と同じだ」
イーサンは私の頬の涙を再び長い指でそっと拭った。そして、私を抱き寄せてぎゅっと抱きしめた。
スラリと背の高いイーサンに抱き寄せられて、私はイーサンの温かい胸の中で途方に暮れた。
――どういうこと?
私は今、どういう状況なのかさっぱり分からなかった。
私はどうやらアーニャのハンカチーフを持っている。イーサンは私をアーニャと呼んだ。アーニャはここにはいない。ここにいるのは私とイーサンだけだ。
――もしかして、もしかして……よく考えるのよ!キャロライン……私はさっき馬車に轢かれて多分死んだ……今は、もしかすると私がアーニャなのだろうか!?
私の身体に衝撃が走り、身震いした。
――なんでっ?
私がパニックになりかけたその時、私を抱きしめていたイーサンは、私の顔を上向にして私に情熱的な口付けをした。
今まで、夫のイーサンは私に一度もそんな口付けをしたことはなかった。あまりに情熱的な口付けで、私は驚きのあまりに身動きが取れなかった。
情熱的な口付けで息が出来ない程だ。
イーサンと私自身の荒ぶる息に、私は倒れてしまいそうな衝撃を受けていた。
――何がどうなっているの!?
イーサンは私の首筋に口付けすらした。
いやっ
今、私が着ているのは、家庭で漂白されたモスリン生地のクリームホワイトのドレスだ。
いつもの蝋燭の火を受けても皺一つできずに光を散らす上質シルク・タフタとは大違いだ。私のドレスの裏地は滑らかなシルクオーガンジーのはずだが、その裏地はない。
裾には細く金糸のコード刺繍があるはずなのに、手の込んだ職人技の刺繍もない。
その代わりに家庭で付け直した繊細なレースの橋飾りが胸元に見える。手首のあたりには薄いフリルを抜い足していた。
どう見ても、アーニャが亡くなった母のレースを丁寧に洗い、再利用したものに見えた。裾には小花の刺繍をアーニャが施し、丁寧な補修した跡がある。
ウェストには草色のリボンが結んであったし、腰には野薔薇の小さなコサージュがあった。アーニャが実家のホーソーン男爵家の庭で詰んだものだろう。
どう考えても、私が普段着ているドレスの、職人が施した花や唐草模様の細かい刺繍とは違った。私のドレスなら、背中の飾りリボンは本物シルクサテンのはずだし、アイロンを当てなおしたような今のリボンのはずがない。
私のドレスならば、ペチコートも何枚も重ねてボリュームを出しているはずなのに、今身につけているドレスのペチコートは1枚だけだ。ふわりと揺れず、すっと生地が揺れる程度の揺らぎしか今のドレスには感じられない。
私は一瞬で今の自分の姿を思い浮かべることができた。今の自分の髪は重く、香油もつけず、真珠のかんざしもなく、リボンはクリーム色の細いリボンだろう。もしかしたら、いつものように小さな花を結び目に差し込んでいるかもしれない。アーニャなりの精一杯のおしゃれだ。
皮肉なことに、婚約時代も結婚生活の間も、私が身につけていた美しいデザインのドレスな役に立つことは皆無だった。
夫のイーサンは、私の体に今のように触れたことが一度もなかったのだから。
アーニャの質素なドレスを着て、アーニャの質素なハンカチを持って、アーニャの精一杯のおしゃれを装う髪型になると、イーサンは私を違った目で見つめて情熱的に口付けすらするようだ。
夫のイーサンと妻のキャロラインの私の接触は限られていた。エスコートされる時に背中に軽く手を添える、人目がある、衆人の目に晒されて必要のある時に腕を組む、ものを受け渡しする時にすっと手がかすめる。それだけが今までのイーサンと私の体の接触だった。
頬にキスをされたのは結婚式の時の一度だけだ。口には一度もない。
それなのに。
今は質素なドレスを着ている私は首筋にもキスをされた。私は驚きのあまりにみじろぎ一つ出来なかった。よく考えると私はイーサンの妻なので何の問題もない。でも今、イーサンがかすれた声でささやくのは、アーニャの名だ。
ーーイーサン、冗談はやめて。
その瞬間、イーサンは意を決したというように私の目を見つめてささやいた。
「この手紙は僕が持っていてはならない。君に返すよ」
イーサンの瞳が涙で潤み、さざなみのように涙が目尻を震わせている。初めて見るイーサンの表情だ。美しい彼は切なげに肩を震わせている。
彼は泣いているのだ。
私も泣きじゃくっていたようだが、目の前のイーサンも泣いているのだ。
――私が贈ったカフスを身につけて、私の親友のアーニャにキスをして泣いているの?
イーサンは胸ポケットから手紙のようなものを取り出して、私に渡した。
「手紙?」
「そう、君が僕にくれた手紙だ。これを僕が持っていてはならないと思う。手紙は読んだ。君の気持ちは分かった。でも、この手紙は返すよ」
私はイーサンから手渡された『手紙』というものを見つめた。
街で買った安いコットン紙のようだ。表面がざらついていて、非常に質素だ。角はイーサンが何度も触ったためか少し丸くなっている。自作のロウを溶かして小さな丸型の封がされている。印は指輪で代用したような模様だ。今までアーニャがくれた手紙にとても似ている。質素だが気持ちの切実さが現れた手紙だ。
荒れ果てた伯爵家の庭で、私の足元には野薔薇が咲いていた。アーニャに実家のホーソーン・マナーにも同じように野薔薇が咲いていた。
――違う、違う。こんなの変だわ。
私は認めたくなかった。




