43.野薔薇の棘——返していただきに参りましたの
私は朝からベイクハウスで苦戦した。家庭教師のミス・フィンチが私に教えたパン焼きの知識は役にはたったが、アーニャのフリをしてパンを焼くのはとてつもなく苦労の連続だった。
腕をまくり、粉を練り、叩き、ブリジットがいてくれなかったら、私は自分に絶望していたことだろう。
野菜を切れば、指を切り落としそうになり、肝を冷やした。
キッチンでの私はエリス以下だった。
バレないようにすることに気を使い過ぎて、ジャックが現れた時は救世主に見えた。
昨日買ったプレゼントを渡せると思ったのだが、そこにグレイとギデオンがホロウェイ夫人に連れられて現れた。グレイを見ると、昨晩、手を繋いだことを思い出して、なぜか私は顔が真っ赤になってしまった。
男爵、ギデオン、グレイを含めた朝食は、それはそれは賑やかなものだった。
ギデオンは、普段食べている物からしたら全く劣るであろう食事について、一切の文句を言わなかった。
「お嬢様、ギデオンさんもいらしたんですね!今日も白パンを焼いておいて良かったですねぇ」
ブリジットに言われて、私はうんうんと頷いた。
私が完全に焼いたパンではないが、奇跡的にちゃんと膨らんだパンを見て、私はとんでもなく美味しいと思った。
食卓の上には湯気の立つ黒パンに混ざって白パンが並び、小さな皿に切り分けられたチーズと、バターが置かれていた。茹で卵、ハーブティー、いちごジャムも並び、私が野菜を切った簡単なスープも添えられていた。
人生で初めて釜を火にかけて、煮込みというモノを体験した。途中でリディアが起きてやってきて、事も無げに私を地獄から救い出してくれた。
朝食後、ジャックに昨日購入したジャケットとブーツを贈った。
「お嬢さま……こんなしっかりしたモノを……わしにですか?」
ジャックは驚いて、感動した面持ちで信じられないといった表情で贈られたモノを見た。
「いいのよ。あなたのおかげで私は無事だったのだから」
「あぁ、あの格好はあんたのを借りたのか?いやぁ見ものだった」
男爵がいるので、私は咳払いしてギデオンに合図を送ったが、ギデオンは気づかずに話し続けた。ブリジットもホロウェイ夫人も、グレイですら、ギデオンに話を止めるように合図をしたが、彼は止まらない。
「何が見ものだったんだね?ギデオンさん」
ほーら、言わんこっちゃない。
誰もが男爵が興味を示したことに、ビクッとした。
「男爵、私が借りたんですよ」
グレイはすかさず話を変えようとした。
「はぁ?」
ギデオンはギョロリとした目でグレイを見たが、ホロウェイ夫人が男爵の背後に立ち、男爵には分からぬように首を振るのを見て、さっと話を変えた。
「そうそう、グレイさんがジャックさんの服を借りたんですよ、ほら、あの土砂降りの日にここにやってきて、濡れてしまったから」
ギデオンは咄嗟に話を変え、男爵は「ほうほう」と相槌を打って微笑んだ。
男爵が部屋に戻ると、皆が口々にギデオンに、私のロンドン行きは男爵には秘密だと伝えた。心臓が悪くて倒れたばかりだから、秘密だと。
「そうか。確かに娘があんな格好でロンドンを彷徨ったと知ったら、病気でなくても倒れるからな。すまん」
ギデオンは素直に謝り、ジャックは贈り物をありがたく受け取ってくれた。
私もあの泥だらけでずぶ濡れの少年姿の自分の姿を男爵に見せられるとは思えなかった。あの時はギデオンのくれた皮袋に入った金貨を抱きしめていなかったら、心が折れていただろう。
「今日は高利貸しの所に行ってくるわ。返すのではなく、20ポンドを取り返すのよ」
私は皆に伝えた。
「私も行く」
すかさずグレイが言った。
「ほほう?面白そうだな。俺も行くぜ」
ギデオンは私たち2人の顔を見て言った。きつい仕事だ。ギデオンにいてもらった方がいいかもしれないと私は思って、頷いた。
帳簿を見ながら、私はグレイとギデオンに手短に説明した。
利息の二重計上、先取り利息、証文更新料、これらを全て読み解くと、こちらが余分に20ポンド支払い過ぎていると説明した。
「悪徳高利貸しのサイラス・クロウとバーナビー・シャープ、2名って事だな」
「そうね」
私たちはジャックの馬車で送ってもらった。サセックスからブライトンの港街までの道のりは、何度も通った道だが、今日の私には少し違って見えた。世界がくっきりとしていて、色鮮やかに見えた。
――世界が急に色づいたようだわ。
花を見るだけでも苦しい思い出が蘇るほどだったのが、昨晩を経て、世界にはこんなに美しい花があるんだと思わせられるような気分だった。
黄色いセント・ジョンズ・ワートの花が咲き、白いヒナギクの花が多く咲き出していた。キンポウゲの花が野の一面を黄色い絨毯のように見せ、ブラックベリーの白い花が風に揺れていた。
白っぽい一本道向こうから、レッドワイク伯爵家の馬車がやってくるのが見えたのは、その時だ。8つのストロベリーリーフの紋章が見えた。まだ、馬車は修復されてはいない。
だが、私の心臓は跳ね上がった。
「おっと、シーブルックのキャロラインじゃないか?」
ギデオンが身を乗り出して馬車の窓から手を振った。
だが、能面のような表情の私の顔をした女がレッドワイク伯爵家の馬車からこちらを一瞥しただけで、気づかなかったかの如く通り過ぎた。
――ギデオンに気づかなかった?
「なんだよ、俺を忘れちまったか……?」
ギデオンはぶつぶつ言っていた。
「しっかし、アーニャは俺を頼ってわざわざ訪ねてきてくれたんだ。俺はちょっと感動したね」
ギデオンは気を取り直したように私を振り向いて言った。
私の胸の中での違和感は小さなモノだった。
だが、これが後々大きな事件を引き起こすのには、まだ気づけなかった。
サイラス・クロウとバーナビー・シャープは、通りの反対側に向かい合って高利貸し店を出していた。今日はジャックは通りで待っていてくれると言った。
まずはサイラスの店に向かった名乗ると、真っ直ぐにサイラス・クロウの目を見据えて、私は告げた。
「返済に来たのではありませんわ。返していただきに参りましたの」
「はい、なんと言いましたか?お嬢ちゃん」
「あなたが貸したのは四十ポンドではありません。先取り利息を差し引いた三十八ポンドです。けれど証文では四十ポンドとして利息を取っている。さらに更新料を元本に混ぜ、その更新料にも利息を乗せている。これは貸付ではなく、帳簿の罠ですわ」
私の背後では、ギデオンが腕組みをして立ち、グレイはものすごい威圧感を漂わせて立っていた。
「計算し直せば、ホーソーン家はもう払い終えています。むしろ、二十ポンド返していただく側です」
サイラスは笑った。
「その程度で崩れると思ったか?」
彼は机の下から別の帳簿を取り出した。私は一瞬言葉を失った。
「見せていただきたいですわ」
私は帳簿を受け取り、数行だけ目を走らせた。
「これは、更新前の帳簿ですわね?」
「お嬢様が帳簿を読めるとは思いませんでしたな」
サイラスはバカにした口調で私に言った。ヘラヘラとした態度ながら、目は猛烈に怒っているのが分かる。
私は一歩も引くつもりはなかった。罠の仕掛けられた帳簿でどれほど苦しめられてきたのか。皆の苦労を思って引けないと思っていた。
ギデオンが横から笑って言い放った。
「残念だったな。この嬢ちゃんは読める方の貴族だ」
サイラスは目をしばたき、口元を歪めた。
「さっさと20ボンド返しなさいっ!」
私はサイラス・クロウに迫った。
「返さないというならば、街中にあなたの所が何をしているのか、言いふらすわよ」
「へ……」
サイナスのまるで信じていないといった態度は、良くなかったと思う。
ギデオンが横からドスの聞いた声で啖呵を切った。
「ブライトン港がいいか?ロンドン港がいいか?」
「……何がです?」
「てめぇの墓場だよ」
ギデオンはボソッと言った。
「申し遅れちまったが、俺はギデオン・ヴオスだ」
男の顔色が変わった。
「ギデオン商会の……?」
「あん?」
すぐに20ポンドが支払われた。
私は机の上で間違いなく20ポンドあることを数えた。
向かいの店のバーナビー・シャープの店は、もっとテキパキとして早かった。
ギデオンとグレイが店に入るなり、私の言い分をもっともだと認めて、11ポンド支払った。
「けっ!今日だけであんたは31ポンド手に入れたぜ。ミス・フィンチに感謝するこったな」
「ギデオン、グレイ、ありがとう。私一人ではできなかったと思う」
私は素直に礼を言った。
こうして、100ポンドを全て使い切りそうなところだったが、次の8月の倉庫代が支払われるまで、31ポンドをホーソーン男爵家に残すことができた。
それからの数週間は、息つく暇もなかった。
倉庫は満ち、金は周り、村は動き出していた。




