39.野薔薇の棘——灰になった証文
ホーソーン・マナーに戻ると、ホロウェイ夫人とブリジットが別のメインの客間の掃除に着手していた。
徹底的に埃がはらわれ、庭先で寝具は陽に当てられ、その隣でグレイの上着とコートが陽光と光を吸ってすっかり形を取り戻していた。びしょ濡れだったのをブリジットが何度も裏返して乾かしてくれたとリディアが教えてくれた。
グレイのシャツもブリーチズもすっかり乾き、彼は自分の服に着替えた。
リディアとエリスは大はしゃぎだった。
聞けば、ブライトンの街に行ったことがないらしかった。仕立て屋自体も初めてだと言う。
「お姉様、仕立て屋では何をしたらいいの?」
リディアとエリスはキラキラの瞳で私に聞いてきた。二人の頬は紅潮し、期待に溢れている。
「好きな布を指さして、黙って立っていればいいだけだよ」
グレイが横から説明し、2人は安堵の笑みを浮かべた。
「なら怖くないわね、エリス」
「えぇリディアお姉様」
――なんて可愛いの……。
借金を返しに行っている間、2人にはどこで待っていてもらおうかと思ったが、ブライトンの街の菓子店を思いついた。少女時代に私がネルとよく通っていた店だ。
ネルの事を思い出すと、私の胸の奥がちくっとした。
しかし、目の前の妹2人見ていると、私は彼女たちを幸せな気持ちにすることに集中することに私の気持ちはいっぱいになった。
ジャックに、お昼には村の職人たちが戻ってくることを伝え、屋根修理から今晩の荷物運びで緊急に必要となる荷車修理などの話をした。お金は全て支払ったことも告げた。
ジャックは張り切った様子で、私たちをブライトンまで送った後に、また午後の3時にブライトンまで迎えに戻ってくる事を約束してくれた。
何度も何度も行き来した馬車道だったが、これほど心が浮き立つ道のりは無かった。広がる大麦畑ですら、私の心を弾ませた。
ブライトンの街に着くと、まずはすぐに終わらせらる用事から着手した。
ブライトン港の裏通りの既成服屋に立ち寄り、ジャックに借りた着にそっくりな物を購入した。
労働者向けの店で、安くて丈夫なものを売っているのだ。ネルがよく休みの日に買い物をしていたので私は知っていた。隣の靴職人の店で作業ブーツを10シリングで購入した。店の奥には油を塗られた革靴が並び、釘と皮の匂いが塩の匂いに混ざっていた。
だが、グレイはその場ではちょっと厄介な存在だった。
「旦那、貴族様なんぞがこんなところに来るもんじゃねぇ」
店主に言われて、グレイは冷やかしに来たと思われてしまった。
グレイの身だしなみがそれとなく一級品であるからだろう。
次に訪れたのは「ベルローズ夫人の装い店」だ。
店主はグレイを見るなり、眉を吊り上げて歓迎の笑みを浮かべた。私が一度も足を踏み入れたことのない中流のドレスメーカーだ。
だが、今は妹たちに、今よりマシな格好をしてもらいたい一心で私は張り切っていた。夫人は私の姿をつま先から頭のてっぺんまで値踏みするように鋭い目で見た。
「こちらが妹のリディアとエリスよ。2人分で7ポンドしかないの。でも、日曜礼拝にも行けて外出着にもできるものを靴も帽子も含めて一式揃えたいの。協力していただけないかしら?私は金貨をカウンターに置いて、本気である事を示した」
店主のベルローズ夫人は心得たとばかりに頷いた。
「あなたのは……?」
「今日は無理よ。また来月来るわ」
私は自分のドレスも仕立て直すべきだと思ってはいたが、アーニャの頑張りにより、私のドレスはまだなんとかなっていると思った。まずは妹2人を今日はなんとかしなければならない。
店の中には今の自分が見ると、淡い色合いの布が整然重ねられており、心躍るもので溢れていた。
豪奢ではないものの、どれも丁寧に仕立てられていて、帽子やリボンや簡素なドレスが飾られていた。
色んな色の糸にですら心がときめいた。ミス・フィンチのおかげで、私もちょっとした繕いものならできるのだ。
以前の自分は、高級仕立て屋で当たり前のように仕立ててもらえた。だが、自分で用立てしたお金で妹2人にドレスを仕立ててもらうのは、特別な感情に襲われた。
――あぁ、アーニャにも見せたい……。
私は自分が私に戻ったために、アーニャの体を奪ってしまったことに少し後ろめたい気分になった。
「妹さんお二人ともとても魅力的だわ。きちんとしたものを見繕いましょうね」
ベルローズ夫人が熟練工のようにテキパキとエリスとリディアの採寸を始め、色んな色の布の巻物が2人の元に持ってこられ、あれこれと裁縫職人たちが妹たちの顔に色を合わせ始めた。
指示を出したのはグレイだ。
「それだ、今のが一番似合う。それは違う。前のに戻して」
グレイは腕組みをして、素早く的確に色合いを指定した。
靴もこちらとこちらと出されたものをリディアとエリスが試着し、妹2人が選んだものから、グレイが決めて行った。
ドレスのデザインもグレイが決めて、私は彼の有能さに驚くばかりだった。
もはやベルローズ夫人とグレイは、来月購入予定の私のドレスについても打ち合わせを始める始末だった。
「私もここを贔屓にする。だから、少し負けて欲しいんだ」
こんな値引き交渉までグレイは始めてしまい、私は驚いた。
ーー私のドレス!?
私はグレイの袖を引っ張って首を振った。
「いいからいいから。君にも必要なんだから」
結局グレイは私のドレスのデザインまで決めて、妹2人の靴も帽子もリボンも決めてしまった。
「仕上がりは急ぎますから、金曜日にはできますわ」
「そんなに早く!?あなた天才よ!」
私は次の日曜礼拝に間に合うと分かり、胸が熱くなった。
リディアとエリスはドキドキからワクワクと感情が大揺れしている様子が見てとれた。
「また、グレイさんとここに来たいわ」
「私も!」
リディアとエリスがそう宣言して、ベルローズ夫人も大満足の表情だった。
私は7ポンド以上の価値があったと思い、「ベルローズ夫人の装い店」を出た。
モーリス・ペナーの小麦粉の店で7ポンドものツケを支払った。エキゼエル・ブラムウェルの塩屋では9ポンドものつけを支払った。
「毎度ぉ!」
どちらの商人も大喜びだった。貴族様だからといってツケがきくなんて、とんでもない世界だとは思ったものの、追加で小麦1ポンド分と塩1ポンド分を購入した。
荷物はグレイが持ってくれた。
ブライトンの街は相変わらず人で溢れかえり、最近賑やかになってきた海水浴会場もあり、人でごった返していた。
いよいよ、高利貸しの店に踏み込むのが今日の最後の仕事となったが、すっかりお昼も過ぎていて、妹2人も疲れが見えてきた。私はどこかで料理屋に入るべきかと思った。
「グレイ、お腹が空いたわよね。リディアもエリスも疲れたみたいだし」
「もちろん、我が家で食べて行ってくれるよね?」
「あぁ、夫人がいてくださったあなたの家ね」
グレイが手を挙げると、またもや黒塗りの馬車がやってきた。
私は周りを見渡した。一体どこにこの馬車は隠れていたのだろうか。
――なぜ、こうもタイミングよく現れるのだろうか。
「リディアもエリスも、私の家に招待しよう。夫人は私が月曜日にホーソーン・マナーに行くと行って出て行ってから、一向に戻ってこないのを心配している頃だろう」
馬車の中はとても心地よかった。
あの日、元の私自身の姿で彼に会えたことはとんでもない幸運だったのだと改めて思った。
二度目のグレイの家でも大歓迎された。
もちろん、私が前回来た女性と同一人物だとは思われていなかったが、ホーソーン3姉妹をそれはそれは大切に夫人はもてなしてくれた。
「この家にいらした方は今まで一人だけでしたわ。今日、あなたがたが訪ねてくれて、私は本当に感謝しておりますの」
夫人はロースト肉やらスープやら、シーブルック家で私が食べていた食事をそのまま再現したかのような料理を出してくれた。腕の良い料理人が別にいるようだった。
「リディア、エリス、ここで待っていてくれる?私はお父様の借金を精算してくるわ」
私ははっきりと2人に告げた。
家の事情は隠すべきではない。また、何も恐れることはないのだと2人に教えたかった。この姉の私が全てを片付けてくるからと。
「まあまあ、ここで私と一緒にお菓子を食べて待っていますわ」
夫人はリディアとエリスが残ることに喜んだ様子だった。私が連れて行きたかった菓子店の菓子も用意されており、妹たちは初めて食べるお菓子に大興奮していた。
ブライトン港近くの船の汽笛が聞こえる石造の建物が、ジョナス・レジャー氏の高利貸し店だった。
私は18ポンド渡し、ジョナスは1枚ずつ金貨を確かめながら、2度数え直した。
「証文を」
私はジョナスに言った。
横で腕組みしているグレイをまじまじと見つめ、ジョナスは仕方ないと首を振った。そして諦めたように証文を私に差し出した。ジョナスの舌打ちが聞こえたが、私は怯まなかった。
私は証文を受け取ると、迷いなく卓上の蝋燭にかざした。火が走った。インクの文字が歪み、黒く縮れていった。
「お嬢さん、火事にするなよ」
ジョナスは嗜めるように行ったが、私は無視した。
証文が全て燃え尽きると、私はふっと蝋燭を消した。
ーー妹たちや男爵や、皆を苦しめる借金はこれで3つ片付いたわ。
――残りは過払金がある借金よ。それは明日きっちり片付けるわ。
私は心の中でつぶやいた。
――全部灰にできればいい。




